第19話 どれだけ遠ざけようとしても現実はすぐそこにあって
「ごめんね春。ごめんね。ごめんね」
ぼんやりと遥さんの声が聞こえる。
「こんな話嫌だよね。せっかくの旅行が台無しだよね」
そんなことないよって、楽しいよって、言わないと
「ずっと一緒にいたかった。春の成長を隣で見届けたかった」
一緒にいようよって、これからもずっと一緒だよって、早く言わないと
「でもね。先生が無理だって」
無理って、なにが無理なんだよ
「だから春に決めてもらいたいの。私がいなくなったあとのこと」
一生大切にするって俺言ったじゃん
やっと遥さんに伝えられたばっかじゃん
それなのになんで
遥さん、これなんの冗談だよ
到底受け入れがたい現実は思考を空回りさせる。
どこか嘘っぽくて、嘘であってほしくて、そんなことが俺の身に起こるはずないって逃避して。
そうかこれは夢なんだって。目を覚ませば日常がすぐそこにあるんだって、楽な方を選択して。
でもそのどれでもなくて、これは現実で、受け入れなければならないんだってなったとき、初めて全身の力が抜けていく。
ネガティブなイメージが、望んでもいない動力となって停止していた思考を勝手に回転させようとする。
『ねえ? もし私がいなくなったら春、どうする?』
あの日された質問。
このことだったのか──残り少ない領域でパズルを合わせる。
「いやだ……」
手が届くすべてを搔き集めて、ようやく出た言葉がそれだった。
駄々をこねる子どものように、自分が気に入らないものを否定する、ただそれだけの言葉。
「いやだ……」
生産性のない言葉だってわかっていても、それでもそれしか出てこない。
「春。一緒に考えましょう。これからの春のことを」
俺とは違う世界に住む人間のように、穏やかな声で遥さんは言う。
どうしてそんなに冷静でいられるのかわからない。
「春がこれ以上困らないように、私はどんなことでもするから」
だったら……
「傍にいてよ……遥さんがいなくなるなんて……」
一人暮らし頑張るなんて、あんなの嘘だよ。
ただカッコつけただけだよ。
そんなの無理だよ。おいていかないでよ。一人にしないでよ。
「春。今から貴方の家族の話をします。具合が悪くなったら休んで、それでも最後まで話をします。私は貴方のためならどんなことでもしなければならないから。たとえそれが辛く悲しい事でも」
「そんなこと今はどうだっていいよ! それより遥さんのことを──」
「春お願い。私の言うことを聞いて。お願いだから」
「なんで、なんでだよ……」
ああ。あんなに楽しかったのに。
こんなことになるのならここに来なければ──
「春。ここは冷えてきたわ。ベッドに行きましょう。私が抱いていてあげるから、春は私の話を聞いていて。なにも答えなくていいから」
遥さんは俺の腕を引くと寝室に連れていった。
崩れるようにベッドに横たわる俺を、遥さんは優しく抱擁する。
もうなにも聞きたくない。聞こえるのは遥さんの心臓の音だけでいい。
「いまから話すのは少し前までの春だったらすべて知っていたこと。途中で思い出すかもしれないから、そのときは言ってね」
──だけど遥さんは俺の願いを置き去りに、語り始めたのだった。
◆
「春の実家、逢坂家はとても歴史が古く、ご先祖から代々引き継いだ事業を営んでいるの。とても大きな会社よ。私の姉の
遥さんが、胸に抱く俺の様子を窺う。
俺は、遥さんが病気だったというショックが大きすぎて、家族のことを聞いてもなにも感じなかった。
もしかしたら家族の話を動揺せず聞かせるために吐いた、遥さんの嘘なんじゃないだろうか。
ああ、そうであってほしい。家族の話でもなんでも聞くから、神様──
「お姉さんの一人は
この話が終わったらきっと遥さんは笑いながら俺に言うんだ。
家族の話をしても春が具合悪くならないように、ちょっといたずらしちゃったって。
「──そんな仲睦まじかった逢坂家に異変が起きたの。春が五歳のとき、難病を患い姉は他界したわ。そしてその三か月後、玄行さんは女性と二人の子どもを連れてきたの。
ねえそうだよね。
だから俺は頑張って遥さんの話を聞くよ。
「そのときあたりから春の様子が少しずつ変わっていったの。姉が亡くなってから私は逢坂家を訪問する機会が減っていった。新しい奥さんによく思われていなかったから仕方ないのだけれど。貴方たちに会えない日々が続いてとても悲しかったわ。それでもどうにか用事を作って数か月ぶりに逢坂家を訪れると……春は笑わなくなっていた。あれほど私に懐いてくれていた春が、私を避けるようになったの。はじめはそういう年頃なのかな、とも思ったわ。でも。その数か月後に再開したときには、私のことは完全に視界に入っていなかった。ばかりか、心を閉ざしてしまったかのように、私を無視し続けた。冬華さんや深冬さん、楓夏ちゃんは普通に接してくれるのだけれど……私は生きる望みを失ったわ。姉さんの忘れ形見に嫌われてしまったなんて、もうどうしていいかわからなかった」
「でも春の変貌があまりにも不自然すぎたので、ある日冬華さんに訊ねてみたの。春はいったいどうしたのって。そうしたら『あの子は女性不信になっているみたいなのです』と教えてくれた。そのときすでに冬華さんたちとも不和が生じていたそうなのよね。私も、もう少し詳しく調べようとしたのだけれど、冬華さんたちも少しずつ私を避けるようになって……それ以上のことは調べられずにいたの」
「そしてさらに数年が経ったとき。祥子さんから突然電話が来たの。初めてのことだからとても緊張したわ。前妻の身内なんて、どう思われているか想像に易いものね。冬華さんたちから連絡が途絶えたのもそれが理由だってわかっていたし」
「案の定、電話の内容は酷いものだった。『春の素行の悪さは手に負えない』『取引先企業からの苦情がなくならない』『次に粗相をしたら家を追い出すから引き取れ』などなど。玄行さんはどう思っているのか確認してほしいと何度も訴えたけれど、『玄行さんは忙しくて電話に出る暇などない』の一点張りで。玄行さんは春を跡取りにと、厳しくも大切に育てていたのだから納得できなくて。でも私には確認するすべもなく受け入れるしかなかった。でもね、春には申し訳ないけれど、私としては降って湧いた幸運だったの。だって、春と二人で生活ができるのだから。理由自体は信じがたい内容だったけれど飛び跳ねて喜んだわ。玄行さんと祥子さんが春を追い出そうとしている。ならば逢坂家なんかに任せておけない、姉さんに代わって私が春を立派な大人に育ててみせるって」
「そのとき私は女優の仕事を控えていたの。少し残った契約期間を消化するだけだった。だからいつ来るとも知れない春のために、逢坂家と遠く離れた、春の負担にならないような場所を探して、いつでも万全な体制で迎え入れられるよう準備を進めたの。それからひと月もかからない頃だったわね。祥子さんから二度目の連絡が来たのは。『春を迎えに来い』と。もう小躍りしたわよ。新居も契約した。ベッドも買った。男性用のシャンプーも買った。歯ブラシも、食器も、下着や靴下も。幸せだった。新婚さんの気分だった。私、やっぱり春のことが大好きなんだなって、再認識した」
「飛行機に乗って、私のマンションに初めて来たとき、春はなにも喋らなかった。すぐに受けた編入のための試験も優秀な成績で、学校も決まった。二人の距離は遠いけれどひとつ屋根の下で暮らせていることが、私にはとても幸せだった。春には苦痛だったみたいだけれど」
「私は春に東京でなにがあったのか訊ねたかったけれど、やっぱり春は会話に応じてくれない。冬華さんは『女性不信が原因』って言っていたから、ゆっくりゆっくり、時間をかけて一から信頼を築いていこう、って思っていたの。二人の間を邪魔するものは春の気持ち意外なにもなかったしね。時間もたくさんあったし。女性関係で周囲に迷惑をかけないように春の友人たちに春のことをお願いもした。こっちで続けていた芸能関係の裏方仕事も減らしてもらった」
「それでね。例の×××の電話。あれ、葵さんなの。祥子さんの実の娘。今は冬華さんと同じ高校に通う新三年生。でね、春は間違って電話に出ないようにするため、葵さんや祥子さんといった家族の名前を×××で登録していたの。いつもその電話には三回ぐらいかかってきて初めて出るようにしていたみたい。私の知る限り、あまりかかってはこなかったみたいだけれど」
もういいよ……
もういいから……
「ねぇ春。私がいなくなったら実家を頼って。本当の春はここの宿代なんてポンと払えるほどの資産家の長男なの。これはね、私の憶測なのだけれど、祥子さんと葵さんは椿君を跡取りにしようとして、春を逢坂から追い出すためにいろいろなことを──」
「……もういいよ」
「春? 具合が──」
「もういいから、早く笑っていたずらだったって言ってよ……」
「春……」
「お願いだよ……遥さん……病気なんて嘘だって言ってよ……俺頑張って聞いたから……」
俺はもう堪えることが出来ずに泣いた。
声にならない声を上げて、押し殺すように泣いた。
遥さんを困らせるようなことはしたくなかったのに。
だけど、泣くことでしか自分の感情を抑えることができなかった。
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