第3話 ”転んでからでは遅い”
転んでからでは遅い。
これが台無地域医療センター3階はナースステーションに掲げられた新しいスローガンであった。
いかにも示唆的で、ここ台無地域医療センター3階に入院中の患者さん達が、一体どのような年齢構成になっているか、もっと言うならば、高齢者の中でもどのようなリスクに該当する高齢者がいるのか、というのが自ずと推察される、機能的かつ実装的なスローガンでもある。
ところで、できたてのこのスローガンを見ていた台無地域医療センター、赴任したての内科医、雲居先生が、
「まったくその通りだ」
と感慨深げに言ったのを、責任感に燃える1年目研修医、谷川セレン(24)は聞き逃さなかった。
そして、同期にして親友でもある、同じく1年目研修医、伊丹鈴江(24)に、こっそりと耳打ちした。
「雲居先生、やっぱり、こんな辺鄙な山の中で内科医やりたくなかったんじゃないかな。都会の大病院で、病理医を続けていたかった。今のは、言外にそういう意味があると思う」
抱えた心電図の山を持ち直し、
「どう思う、スズメさん」
スズメこと鈴江、伊丹鈴江は一蹴した。
「誇大解釈」
一蹴ついでに、6号の普良崎さん、なんかさっきから呼吸してないんですけどぉというナースマンの召集に応じて走って行ってしまった。
残されたセレンは、スズメの後を追いかけながら、責任感という名の炎をぼうぼう燃やす。
やはり、こういった後期高齢者だらけの地域病院にこそ、優秀な医者が必要なのよ。
私きっと、そうなるわ。
ここ最近の谷川セレンの心の支えは、おいしい料理と患者さんからの感謝の言葉、そしてもっぱら雲居達也先生だった。
雲居達也先生。
以前勤めていた大学病院では病理医だったが、半月英一院長と一緒に古の病理施設しかないこちらの病院に転勤してからは、内科医兼病理医という物凄い肩書きで医者業を行っている。
色素の薄いグレーの髪の毛は常に激しい癖が渦巻いており、眼鏡の下の色素の薄い肌は亡霊のような白さ。
ただ、スレンダーかつ高身長、整った目鼻立ちがその欠点を帳消しにしている。
その薄い外見に似合わず教育熱心で、大学にいた頃には看護婦さんは勿論の頃、学生のファンも多かったとか。
例にもれずセレンもそのファンのひとりとなり、今に至る。
ところで、最近台無地域医療センターの救急外来には、変なお客さんが増えはじめた。
それって本当に、つい最近からだ。
「あれは絶対に、かんむり座流星群の、あの日からだ」
1年目研修医、八角ケイが興奮気味に言う。
「それは絶対に、気のせいです」
同じく1年目研修医、八角ジンが『高齢者の眠らせかたマニュアル』から目線をそらさず、呟く。
彼らが集うこの場所は、台無地域医療センターの2階は、総合医局の隣にひっそりと存在します、全面畳張りの休憩ルーム、またの名を、『研修医室』。
夏暑く冬寒い、湿度の高いこの環境からは、稀に天然のホコリタケ、チャワンタケ等が採取できる。
要は、注意していないとカビが生える。
そしてこんな恵まれた環境の下、日々医学の研鑽を積むのは若き研修医が4人。
谷川セレン、伊丹鈴江、八角ケイ、八角ジンの仲良し1年目研修医達。
「みんなで見た、かんむり座流星群」
セレンがコーヒーを4人分淹れながら、卒業式のような口調で呟く。
「かんむり座流星群」
スズメがそれに唱和する。
畳の上に、大の字になりながら。
伊丹鈴江。
茶色い髪をポニーテールにまとめて、小柄な体、鳥がさえずる様な高い声。
鈴江の一文字をもじって、スズメという愛称。
ぴったりである。
「スズメさん、お疲れね。今、おいしいコーヒーができますよう」
やさしい声の持ち主は、谷川セレン。
愛情たっぷりという言葉が似合う外見で、黒髪ロング、ふっくらした女性らしい体、のんびりした雰囲気は病棟のおじいちゃん、おばあちゃんからの人気絶大。
是非嫁に孫にとのお見合い話も絶えない。
「昨日の救急外来、凄惨だったもんな。来院時心肺停止が2人、外傷外傷胸痛外傷外傷ときた。お疲れだったな、スズメ!」
眠れるスズメに声をかけるは、八角ケイ。
目が大きく、すらっとした体は手足が長く、表情豊かな顔立ちは……見るからにチャラそう。
八角ケイ。
明るさは生まれつき、やる時はバッチリ決める男。
「明らかにここの救急外来には研修医も医師も足りてません。来年、6人くらい入ってくれないと僕らの体が持ちません!」
憤るは八角ジン。
大きい目に縁つきの眼鏡をかけ、スラッとした体型に___八角ケイとまったく同じ外見。
何を隠そう、ふたりは一卵性双生児。
お調子者のケイ、くそ真面目のジン。
本人たちいわく、軽率のケイ、尋常のジン。
見た目はおんなじ、性格はまるで正反対。
「こんな、週1で全科当直、常勤医4人、コンビニもないど田舎に、誰か来るもんかね?」
ケイがセレンからお盆を受け取り、4人にコーヒーカップを回す。
「来るようにさせるのが、私たち1期生の仕事よ」
セレンが責任感丸出しの声で言った。
「こういう地域病院にこそ、私たちのような若い医者がたくさん必要___」
「ケイ!お砂糖が無いっ!」
スズメが起き上がり、セレンの話を無残にもさえぎる。
セレン達は台無地域医療センターの長い歴史の中で、栄えある第1期研修医である。
というのも、台無地域医療センターは院長先生、半月英一が、『われわれの病院も、研修医がほしいですね』と、定例会で鶴の一声を放ったのに端を発する。
面倒みのいい院長先生、定例会の研修医の福利厚生のセッションで、他の院長先生達が
「ウチの研修医は働かなくて……」
「ウチの研修医は超勤だけは立派につけます」
とのやり取りを聞くうち、うらやましくて仕方なくなってしまったのだ。
「しっかり、お世話もするし、ご飯もあげるつもりです。採用しても良いですね?」
まるで『捨て猫飼っていい?』じゃないか。
若き事務長は思うが、無論口に出せるわけもない。
この男、半月英一院長先生がいなければ、こんな片田舎の、疲弊しきった野戦病院、カンマ3秒で医療崩壊するところだったのだ。
それが今やどうだろう。
優秀な常勤医が4人も増え、週末は大病院から当直を代わりに助勤の医師さえ来る始末だ。
若き事務長は、半月英一院長以前の、ブラック企業もびっくりの医師たちの激務に、心を痛めていたひとりでもあった。
いや本当に、半月英一院長の恩恵は計り知れない。
久しぶりに聞いた飛川先生の笑い声がその一番の証拠だった。
研修医?
いいじゃないか。
今となっては台無地域医療センターは全国で引きも切らぬモデル病院だ。
この夏には一部病棟の建て替えだってはじまる。
何をひけめに感じることがあろう?
むしろ、将来を約束されたエリート研修医たち、誰もが来たがる研修病院にしてやろうじゃないか。
どんと来いだ___
かくて、台無地域医療センターに、栄えある4人の研修が決定したのである。
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