第9話 山口洋子先生は才女を超えた女傑そのもの

 いよいよここから、惨劇の幕が開きそうな予感。

 私は、モノ書きの直観が閃光のごとくひらめいた。

「なぜか、女性の敵男は僕の顔を知っていました。たぶん写メールかなにかで見たんでしょうね。そしてこう言いました。

『おい、せこいガリ勉。これだから貧乏人は余裕が無いんだよね。

 貧乏人は、金持ちと恋愛する資格などないんだよ。一生、アリのように地べたを這って生きる宿命なんだ』

 それを聞いたとき、僕は思わずそばに捨ててあったペットボトルの黄色い水を顔にかけていました。しかし、それはお茶ではなく、硫酸だったのです」

 これが事実だったとしたら、相当運が悪い。

「結局僕は、傷害罪で少年院行きになりました。いくら警察に硫酸ということは知らなかったと説明しても信用してもらえませんでした。

 警察も、犯人をあげるのが仕事だし、警官もその方が、点数が上がりますものね」

 冤罪という見方もできないことはない。

「しかし、僕、勉強だけはしましたよ。そして大検に合格して一流大学に合格したんですよ」

「ふーん、苦労人なのね。でもこの仕事はね、お互い素性や過去はふれないことがルールなの。この店でどれだけ売上を上げ、客を呼べるか、それだけが勝負なの」

 私は、青年に言い聞かせるように言った。

「そして、あなたはホステスに仕え、あるときはホステスを制するブレーキの役割なのよ。肝に命じてね」

 青年は、つかさと言った。


 私の店は、今は亡き石原裕次〇も常連だった。

 彼はその当時、石原プロの社長で、表面は太っ腹で豪放磊落な経営者を演じていたが、内面は、心労のかたまりのようだったという。

 裕次〇氏は、人前では決して弱味を見せない人だった。

 彼のまわりの渡哲〇や舘ひろしは、裕次〇氏を慕い、顔色を伺っていたので、余計に暗い顔など、微塵も見せるわけにはいかなかったのだ。

「今日は、帰りたくないなあ」

 仕事の失敗、経営状態の悪化、それとも家族に秘密のプライペートなのか何があったのかはわからないが、珍しく裕次〇氏が一人で来店して、ボトル一本あけた帰りだった。

 私は、彼を無理やりタクシーに乗せたが、彼は私の店しか弱味を見せる場所がなかったのだろう。


 これだから、銀座のバーの経営はやめられない。

 日常の仮面を脱いだ本音の顔を、見せられるのはここだけだ。

 職場での仮面、職場を終わると家庭人としての仮面を被り、常に戦士として第一線で闘っている一流の男たちが、銀座のバーではまるで幼児のような無邪気な子供に戻るのだ。

 地位、名声、権力、それにともなう世間体をぬぐい去り、素顔に戻ることにより、明日への戦場によろいをかぶって出かけていく。

 それはまるで、一夜を共にした不倫相手に似ている。

 朝日のなかに去り行くうしろ姿は、他人の夫であるという事実に変わりはないが、昨日の一夜だけは私だけのものだったというような、寂寥感と未練のため息の渦のなかである。


 先ほどの青年ー少年院二回の一流大卒ーは石原裕次〇が共に連れてきた、共演女優に見込まれたらしい。

 なんでも自ら劇団を経営しているベテラン女優は、彼の声とうしろ姿に魅かれたという。

 なんとなく、悲し気な後ろ髪をひかれるような、はかない後ろ姿。

 それと、ちょっぴり甘くせつないカナリヤのような声。

 彼は、その女優にすべて生い立ちを話した上で、弟子になることになった。

 そして、その女優の付き人として、芸能界の裏方にまわることになったのだ。


 それから一年後、彼は端役ながら、俳優としてドラマで活躍するようになった。

 最初はぎこちないながら、個性を感じさせる演技だった。

 一時は姿を消したと思ったが、現在はベテラン俳優として、テレビやDVDで活躍している。

 うちのバーで、黒服のボーイとして勤めていたのが縁で、石原裕次〇と知り合い、ベテラン女優の弟子になったのだから、運命というのはまさに出会いとチャンスの連続である。

 しかし、運をつかむためには、常に前向きで時代にあっていて、いつでもスタンバイOKのジャストナウ状態でなければならない。


 だいたいクラブに来る男性は、社会的に地位のある人が、そのステイタスのしるしとして、来店するケースが多い。

 銀座のクラブに出入りできるようになると、その世界では第一人者として見られる。

 座るだけで五万円以上もする高価なソファは、そのためにある。

 

 ある有名作家は、いつも着物をお召しになり、悠然とした笑顔を浮かべながら、ベストセラーを出している。

 しかしこの御仁は、クラブでは床にはいつくばり、さり気なしにホステスの胸に触れながら

「ママン、僕にチューチューさせてよ」と言いながら、膝枕をさせようとする。

 担当のホステスは「ウン、僕ちゃんはいつもいい子ね」と言いながら、一分だけ膝枕をさせる。

 あくまでも一分だけという猶予付きである。

 男性の欲望をじらし抜いて、次は同伴来店にもっていく。

 

 そのあとで、勿論、高価なボトルをねだることを忘れはしない。

 男性客は、ホステスに慰めと励ましを求めている。

 間違っても議論なんかしてはならない。

 

 昔は、ホステスは時計を見るとブランド物かそうでないかで、懐事情を見分けられたが、今はスマホがあるので、それも通用しなくなってきている。

 しかし、昔のホステスは、無意識のうちに時計を見て人を値踏みしようとする。

 全く気の休まらない銀座病である。


 ちなみにホステス達は、休日の服装は通気性のいい綿のTシャツと、デニムパンツである。

 お店とは違い、間違っても通気性のないポリエステルのスカートなどは、はきやしない。 




 

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