第9話 背脂に抱かれて

 お台場らぁめん温泉。


 赤いのれんをくぐると、もの凄い動物系のこってりとしたラーメンの匂いがした。


 目の前に番頭らしき男が座っていて、そこで料金を支払い中に入るシステムのようだ。


 本日の男湯 濃厚背脂豚骨の湯


 ハマグリ密漁者の銀次はポケットから小銭を取り出し番頭へ渡すと、


「かため、濃いめ、多めね」


 と言った。


「はいよぉ!」


 番頭のから釣りを受け取ると銀次はこちらを見てにっこりと笑って言った。


「じゃ、あとでな。楽しんできな」


 どうやら男湯と女湯で違う温泉を楽しめるようだ。


 女湯 ネギ味噌の湯


 とある。


「にんにくどうします?」


 番頭が尋ねてきたので私はかたまった。


「にんにく」


「え、あっ、お願いします……」


「はいよぉ!」


 こうして私はおろしにんにくを手渡され浴場へと向かった。


 脱衣所には誰の姿もなかった。


 それよりも浴場のドアの隙間から入り込んでくる味噌の匂いが凄くて私は白目を剥きそうだった。


 お台場らぁめん温泉。


 ”入ってみるラーメン”として最近流行りの温泉だ。100%天然温泉がウリらしい。


 効能は打ち身、挫き、挫け、挫折、葛藤、焦燥、罪悪感に効くと書いてある。


 私をここに連れてきた銀次の心は、もしかしたら私のメンタルを慮ってのことなのかもしれない。


 まさか、私の迷いが見透かされているのか。


 戦術級と渡り合えるハンターとはいえ、他人に心の中を覗かれるのは良い気がしなかった。


 私がスッポンポンで浴場に入ると、むわっとした味噌の香りとネギの刺激が鼻と目を襲ってきた。


「これは……きつい……」


 しかしここまで来たならば入らなくては、ネギ味噌の湯に。


 番頭に渡されたおろしにんにくを湯船に投げ入れると、さらに刺激が増した。


 ネギの刺激臭とにんにくの臭い、として味噌。ここが風呂だとは思えない。


 私は目と鼻を押さえながら湯船に足を漬け、ゆっくりと腰をおろす。


 湯に入るときにはつい声が出てしまう。


「え”え”え”え”え”え”え”ぇ”ぇ”……」


 男でも女でもこればかりは同じなのだ。


 全身を味噌が包み込むかのような入浴感。


 そして油でぬるっぬるになりながら、湯船の中でコケる。


 すると全身の穴という穴へネギの成分がなだれ込んできて、私の悲鳴をにんにくが飲み込む。


 ラーメンの沼に溺れている、そう形容してもいい。


 でも……。


 ちょっと気持ちが良くなってきてる自分がいて、驚く。


 立ち上がろうとすると黒ごまが足ツボを刺激してきて、声がでそうになる。


 するとごまが弾けて、健康成分セサミンが毛穴から浸透してくる。


 罪悪感に効くとあるけれど、これはむしろ背徳の快感……。


 ネギ味噌の湯、あなどれない……銀次の濃厚背脂豚骨の湯はどうなっているのだろう。


「ああ……」


 頭の中をあふんが満ちていく……。


 私はのぼせる寸前まで味噌に浸かり続けた。



 ***


 温泉から上がったあと、私は銀次と外で待ち合わせ、そのまま一緒にラーメンを食べに行った。


 銀次は私と同様、全身が油でぬるっぬるのてかってかだった。


「どうだった、ラーメン温泉は」


「……悪くないわね」


 私はネギ味噌ラーメンをすすりながらそう答えた。


「ここの地主がやけくそでここを掘ったとき、驚くべきことに濃厚背脂豚骨スープが湧き出てきたんだ。たぶん、太古の昔の豚の骨が地層にあって、それが地熱で温められてイイ出汁になっていたんだろう。その後すぐにネギ味噌スープも湧き出したもんで、地主は天啓を感じて温泉宿を開いたってわけさ」


「そこでラーメン屋を開かないのが凡人との違いってこと?」


「それじゃ普通だろ。ラーメンスープを目の前にしてラーメンを作ることを考えちゃ、一番にはなれない。未開拓の境地を切り開いてこそってな」


「ずいぶん詳しいのね」


「まあ、俺の親父の話だからな」


「……へえ。あなたがボンボンだったとはね」


「まさか。それに親父はとっくの昔に死んでる」


「……まさか、マグロに?」


 銀次にした質問は、するべきではなかったかもしれない。


 マグロに家族を奪われた人間は数しれない。


 そしてその一つ一つに同情していられるほど、私の心に隙間はないのだ。


「いや、豚骨に浸かりすぎて死んでしまった。やっぱりラーメンスープに身体を浸すと色々まずかったんだ。油のかたまりだしな……」


「あ、そういう……」


「でもなんか周りの連中は健康に良いとか、病気が治ったとかいうから、やめるにやめられなくて……あんな油のかたまりに身体突っ込んでいいわきゃないんだが……」


「そう……」


 私はなんだか例えようのない気分になって、目の前でぬるくなった味噌スープをすすった。


「……まあ、明日から作戦決行の一週間後まで、俺たちは毎日顔を合わせることになるからな。こうして一度話をしたかったんだ。日本で名のしれたマグロハンターは全てかきあつめられたといってもいい。防衛省の奴ら、今度は本気だ」


「……他にどんなハンターが?」


「有名どころではそうだな、”ビートマニア”団十郎。リズムでマグロを殺すことで名を上げた奴だ」


「踊りながら中型マグロを三体倒したってハンターね」


「次に”リモートワーク”の佐助。こいつは現場に姿を現したことがなく、ドローンを遠隔操作してマグロを狩るらしい」


「いかにもIT業界の奴らが考えそうなことね。でも裏で絶対ネトゲしてるわ」


「他には”廃課金”のチエミ、”もっこり”八兵衛、”母が水虫”の拓郎……」


「ちょっとまって。本当に日本中の手練が集まったの? よくて中堅どころ、デビューしたての子の名前もあるわ」


「……それだけ日本のマグロハンターの損失が大きいってことだ」


「……」


「マグロとの戦いが本格化してから数ヶ月で、本当に名のしれた奴らはほとんどやられちまったと言ってもいい。日本は黒潮の影響で強力なマグロが襲ってきやすいからな。唯一あんたと対抗できそうだったあの”やみつきカレーチキン”ですら、もういないんだ」


 あいつそんなに手練だったの……。


「だから正直、あんたは期待されてる。青森の英雄殿。戦術級の本マグロを殺した経験があるのはあんたしかいない。俺は撃退するのがやっとだったしな。今回はその戦術級をも上回る戦略級が相手なんだ、わらにもすがる思いなんだろうさ」


「……アメリカからもハンターがくると聞いたけれど?」


「……ああ。だがカウボーイ共がマグロとどこまでやれるかは疑問だ」


「油断してると、度肝を抜かれるかもよ」


「そうなら良いんだが」


 なるほど、メンタルを癒やしたかったのは銀次自身か。


 かきあつめられた日本中の精鋭は、実態としてもはや存在しないのだ。


 関係ない。


 私は味方が誰であろうと、マグロを殺す。


 ハワイ沖で待っている戦略級本マグロ。


 待っていろ、お前は必ず、私が殺す。

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