15,魔王、実は読み書きできない問題
中は思ったより広かった。どうやらここで手続きするようだ。
……王都の城下街に入る時には関所も何もなかったが、さすがに貴族街へ入るための手続きはするようだ。
おれと魔王は詰め所の中にあった長机の席に座らされた。
「ここで必要な書類を書いてから〝
「魔力紋、ですか?」
と、魔王が小首を傾げた。
どうやら知らないらしい。
「魔力紋というのは個人に特有の魔力の波形パターンのことですよ、エリカちゃん。魔力紋が同じ人間はこの世に一人もいませんから、それを使って本人確認を行うんです」
「なるほど……そういうことですか。完全に把握しました」
魔王は頷いた。
……まぁ多分わかってないだろうな、あの顔は。頭の上に「?」が浮かびっぱなしだ。
そう、魔力紋というのは個人に特有のものだ。それが同じ人間はこの世界に一人として存在しない。
完全同期型の魔術道具が本人しか扱えないのもこの魔力紋を認証に使っているからだ。
ただ、逆に言えば魔力紋は場合によっては決定的な証拠となることもある。
例えば殺人事件に使われた魔術道具に残された残留魔力から魔力紋を検出できれば、それが犯人を見つけるための何よりの証拠となるわけだ。
以前、おれは
「あの、班長。こんな時に何ですが、仕事のことで少しお話があるのですが……」
「話ですか? 分かりました。お二人は書類を書いていてください。少し席を外します。ペンはこれを使ってください」
リーゼは先ほどの騎士と奥へ行ってしまった。
渡されたペンは魔力ペンだった。
魔力ペンは魔術道具で、魔力でインクを生み出すものだ。
……おお、当たり前のように魔術道具が出てきたな。
これまでは魔力ペンすら身近になかったからちょっと感動だ。
「ほら、今度はお前が書けよ」
自分の分を書き終わったので魔王にペンを渡した。
魔王はペンを受け取ったが、書類に向かったままなぜか手を動かさなかった。
おれは首を傾げてしまった。
「どうしたんだ? 書かないのか?」
「……字が書けん」
「……は?」
「というかそもそも字が読めん」
「……え?」
ちょっと考えてしまった。
言っている意味を理解するのに時間がかかったのだ。
思わず椅子から立ち上がってしまった。
「は!? お前読み書きできなかったのかよ!?」
「フッ……いつから妾が読み書きできると錯覚していた?」
なぜかドヤ顔された。
「いや、だって、普通は親に教えてもらうだろ? 貴族なら学校に入る前には読み書きできて当然だぞ?」
おれも読み書きは小さい頃にティナに教えてもらった覚えがある。
まぁ前世の記憶があるから元々読み書きは出来ていたんだが、もちろん知らないフリをしていた。
「ほう? そういうものなのか。しかし今世では親から勉強を教えてもらうようなことはなかったからな。以前の家でもお前の家でも、ほとんど家事ばかりしておったし。後は熱で寝込んでいたか……だな」
「家庭教師が雇えない環境なら(←遠回しに貧乏と言っている)、子供に読み書き教えるのってだいたい母親の仕事なんだけどな――」
そう言いかけて、おれはふと思い出した。
……あ、そうか。魔王の今世での母親は早くに亡くなっているんだった。しまった、うっかり失念していた。
「わ、悪い」
「ん? なぜ謝るのだ?」
「いや、だって今世でのお前の母親って……」
「ああ、そういうことか。別にいちいち気を使わんでもいい。妾も写真でしか顔を見たことがないからな。悲しいとかそういう感情以前の問題だ」
と、魔王は肩を竦め――それから少し難しい顔をした。
「だが、前世ではちゃんとこの言語は読み書き出来ていたんだぞ? それがなぜか生まれ変わってからさっぱり分からんようになっていたのだ」
「……へ? お前、前世でアルギロス語の読み書き出来たのか?」
「ある……なんだって?」
「アルギロス語だ。いまおれたちが使ってる言葉のことだよ。前世の時代でもこの言葉が事実上の世界共通語だったからな。今も多分そうなんだと思うが」
前世の世界ではアルギロス語の母語人口は世界人口の三割くらいだったが、ほとんど全ての国で母国語と共に公用語として規定されていた。ようはアルギュロス語さえ使えたら、どの国でも困ることはなかったのだ。
それはこの世界における、とある歴史的理由による要素が大きい。
そもそも前世の時代で使われていた〝白銀歴〟という暦は、その昔このウヌス大陸を統一した〝アルギロス大帝国〟が始めたものだ。
まぁ大帝国は300年ほどで崩壊し、大陸は再び無数の国家群が群雄割拠する時代になってしまったが……しかしその後も白銀歴は世界中で使われ、アルギロス語は全ての国で公用語になったままだった。
前世のおれが生まれ育ったアヴァロニア王国はそもそもアルギロス語が母語だったので、幸いにも他国で言葉の壁に苦労はしなかった。
そして現代。
このスクラヴィア王国でもアルギロス語が使われている。
しかも他に公用語はないようで、使われているのはアルギロス語だけだ。今のところ今世で他の言語は聞いたことがない。おかげで前世同様、言葉に関しては苦労がない。
「ほう……これはアルギロス語と言うのか。我々は新世界語と呼んでいたな」
「でも、なんで魔族だった頃のお前がアルギロス語の読み書きなんて出来たんだよ?」
「そりゃあ対話するべき相手の言葉が分からねば話にならんからな。勉強したのだ」
と、魔王は当然のように言った。
「……勉強した?」
「ああ、勉強した」
「……どうやって勉強したんだ? 教科書なんてないだろ?」
「部下に教えてもらったのだ。そいつはこの世界の言葉にかなり堪能だったからな。戦争前、父上と共に人間との交渉をしていた側近だ。戦争中もこの世界の言葉はそいつにちょっとずつ教えてもらっていたのだ」
「……」
……いや、そうだ。言われてみれば、こいつは確かにかなり流暢なアルギロス語を話していた。
あれは最終決戦の時――こいつを殺す直前のことだ。
こいつは自分の言葉でおれに話しかけてきた。ちゃんとおれに分かる言葉で。
そして、最後にはこう言ったのだった。
――感謝する、と。
ということは、つまりこいつは戦争中も人間との対話の機会を窺っていたのか?
結局そんな機会が訪れることはなかったが……こいつはそういうことも視野に入れていたというのだろうか?
あのどうしようもない、絶望的な殺し合いの中で。
「だが、なぜか生まれ変わってからはさっぱり分からんようになっていた。だから改めて覚え直す必要はあるとは思っていたが……ちゃんと勉強する機会が中々なくてな。結局そのままだったのだ」
「……なるほど。でもそりゃ困ったな。学校へ行くのに読み書きできなきゃ話にならねえしな……」
おれは思わず腕を組んでしまった。
むー、と眉根を寄せて考えていたが、ふと疑問が湧いてきた。
「ちなみにだけど、以前のお前らの言葉は今も分かるのか?」
「プラネス語か? それは分かるな。読み書きもできるし、話そうと思えば話すこともできる」
「……ふむ、そっちの情報は失われていないのか。まあでも、よく考えたらおれたちが前世の記憶と知識を全て継承しているとは限らないよな。仮に欠損している記憶や情報があっても、欠損していること自体に気がついていない可能性もあるし」
「それは確かにそうだな」
「とにかく、読み書きに関してはこれから覚えるしかねえな。まぁ幸い学校が始まるまでまだ時間はあるし、おれが教えてやるよ」
「うむ。良きに計らえ」
「なんで教えてもらう方が上から目線なんだ……?」
「ははは、妾は〝
「へいへい……とりあえず書類はおれが書くよ。ちょっと貸してくれ」
「うむ。すまぬな」
おれは魔王から書類の紙を受け取り、代わりに必要事項を記入した。
「すいません、お待たせしました」
そして、ちょうど書き終わった頃にリーゼが戻ってきた。
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