9,迷い

 結局、肝心なことを聞けないままいつものように日々が過ぎていった。

 ダリルは表向きいつも通りだ。

 あれ以来、おれに学校の話はしてこない。


 ……まぁ、けっこうはっきりと断ってしまったからな。

 あれで諦めたのだろうか?

 それとも、ただ言い出すタイミングがなくて言い出せないでいるのだろうか?


 そのうち、またテディがうちに来ると言っていたが……さすがに冬になる前には来るだろう。だとするとあと二月ふたつきほどの間には姿を見せるはずだと思う。


 それまでには、改めてダリルは解答を求めてくるだろう。

 最初は何度聞かれようと断る腹づもりだった。


 ……しかし、正直なところ今のおれは迷っていた。



 μβψ



 昼食後、ちょっと昼寝をしてから家の外に出た。


 今日は天気がいい。きっとティナが洗濯をしているだろうから手伝おうと思ったのだが、そこにいたのは魔王だけだった。タライと洗濯板で、せっせと洗濯物を洗っていた。


「あれ? お前だけか、魔王。ティナは?」

「ティナなら用事があるとかで村の方へ行ったぞ」

「ああ、そういやそんなこと言ってたっけ」

「そっちこそお前だけか? ハンナは?」

「ハンナなら部屋で昼寝してるよ」

「そうか」


 頷いて、魔王は洗濯を再開した。

 こいつも我が家に溶け込んだよなぁ。

 なんて、しみじみ思ってしまった。


 ……そうだ。

 こいつしかいないのなら、むしろちょうどいい。

 おれはあの時のことを聞いておくことにした。


「なぁ、魔王。あの話、ダリルには何て言ったんだ?」

「あの話?」

「ほら、ダリルに頼まれてただろ? おれにこっそりと断った理由を訊いてくれって。あのことだよ」

「ああ、あれか。それなら安心しろ。お前が死んでもこの家で親のスネを囓り続ける覚悟だとちゃんと言っておいたぞ」

「いやニュアンス!? それだと全然意味変わってくるだろ!?」

「冗談だ。お前がこの家でしっかり跡を継いでいくつもりだと言っておいた」

「……ダリルはどんな反応だった?」

「そうか、とだけ言っていた」

「どんな顔で?」

「そうだな……まぁ少なくとも嬉しそうというか晴れやかな感じではなかったな。かといって残念そう、という感じでもない。ただ、少しだけ難しい顔はしていたと思う」

「……なるほど」


 やはりダリルとしては、おれに王立学校へ行って欲しいという気持ちがあるんだろうな。

 でも、それは魔王の言うとおり、自分のメンツのためとかではないと思う。


「……」

「迷っているのか?」

「え?」


 魔王が手を止めて、おれのことをじっと見ていた。

 その目は何だか、おれの内側まで全て見通しているかのような感じだった。

 思わず目を逸らしてしまった。


「い、いや、別に迷ってるわけじゃねえけど……」

「お前は思ってることがすぐに顔に出るからな。まぁその自覚はないようだが」


 よっこらせ、と魔王は立ち上がった。


「以前、お前は中央の学校に行くつもりはないと言っていたが……今はそれを迷っているんだろう? 正直に言ってみろ」

「……まぁ、そうだな。ぶっちゃけ迷ってる」

「どうして迷ってるんだ? あれだけ行くつもりはないとはっきり断っていたではないか」

「まぁそうなんだけどさ……」


 おれは後ろ頭をかいた。

 やっぱり、魔王の顔をまっすぐに見られない。


「……以前、お前言っただろ? 家族を大事に思うのなら道は一つじゃない――って。確かにそのおとりだ。うちは本当に貧乏だからな。もしおれが王立学校へ行けば、ダリルの跡をそのまま継ぐよりはもっといい仕事に就けるかもしれない。そうすりゃおれがこの家を財政的に建て直せるかもしれない。そっちの方が〝親孝行〟って意味では――たぶん、そうすべきなんだと思う。それは頭では分かってるんだ」

「じゃあ、お前は何を迷ってるんだ?」

「……おれさ、本当は怖いんだよ」

「怖い?」

「もし、このままこの家を離れて中央に行ってしまったら、もう戻ってこられないんじゃないかって……なぜかそんなふうに思っちまうんだ」


 おれは自分の両手を見下ろした。小さな子供の手が、皺くちゃの老人の手に見えた。骨と皮だけの、まるで枯れ木のような手だ。


 六十年も生きて、おれの手には何も残ってなかった。

 本当に何もないのだ。

 そのことに気づいた時の絶望感は――今も忘れられない。


「おれさ、いま本当にすげー幸せなんだよ。こんな日がずっと続けばいいと思ってる。でも……心のどこかでは常に脅えてるんだ。この幸せも、いずれは終わっちまうんじゃないかって」

「……」

「……結局さ、家族を大事に思ってるなんてただのいい訳なんだよな。おれはいま掴んでるこの幸せを……手放したくないだけなんだ。ただの我が侭だよ、こんなの。でもさ、それが分かってても手放したくないんだよ。本当に怖いんだ。一度でも手放したら……もう二度と掴めなくなるんじゃないかって」


 おれは何となく〝我が家〟を振り返っていた。

 

「……これまでだったらさ、迷うことなんてなかったんだよ。ちゃんとこのまま、順当にこの家の跡を継げばいいだけだった。おれがやりたいことと、親孝行するってことは、同じ道を行くだけでよかった。でも今は違う。道が二つできちまった」

「……」

「だったらさ、どっちを選べば〝正解〟なんだ? 前世では間違って間違って、行き着いた先があんな場所だった。おれはまた間違えたくないんだ。間違えてしまうのだけは嫌なんだよ。お前の言った言葉を理解はしてるつもりだけど……間違えるくらいなら、いっそ何もかもこのままでいいじゃないかって――」


 最初は何でこんなこと言ってるんだろうと思っていたが、途中からはそんな気持ちもなくなっていた。


「……なるほどな」


 一通り聞き終えてから、魔王はそう言った。

 それから考えるようにしばらく黙っていた。

 笑ったりするような気配はなかった。


 ……何を言われるのか、おれは少しばかりドキドキしてしまった。

 こいつのことだから「甘ったれるな」とか厳しいことを言われるような気もする。


 実際、甘ったれたことを言っている自覚はある。

 こんなのはジジイの言うセリフではない。

 ……でも、おれは怖いのだ。

 いま掴んでいるものを、手離すのがどうしても怖い。

 と思うと、どうしても手を離すことができない。


 おれは臆病だ。

 あの時から何も変わってない。

 瓦礫の下に隠れて、ガタガタ震えていた時のままだ。


 いまがこんなに幸せだからこそ、むしろ余計に怖い。人生の最期で、また独りだったら――ああ、思い出したくない。あんな最期だけは嫌だ。絶対に嫌だ。


 ……ふと、おれはこんなことを思ってしまった。

 ブリュンヒルデならこういう時、なんと言うだろう――と。


「そうだな。妾はどっちを選んでも〝正解〟だと思うぞ」

「――え?」

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