8 月夜

 黄昏を迎えた浜辺は、不思議な静かさに包まれている。


 鬼が出始めてから、村人達は皆怖がって、夜に出歩かなくなったそうだ。鬼が襲ってくるのは決まって日中だが、鬼の恐ろしさが心に染みついていては、何を見ても恐ろしく感じられるのだろう。


 浦島太郎は、波が寄せては返すのをじっと眺めていた。

 もう、どれくらい歩いただろう。二日は歩き通して、村に着いたのは三日目の朝だったと思う。今は空き家になっている、かつての我が家で半日仮眠を取って、夕刻になった頃に、浜にやって来ていた。


 水平線の先に、うっすらと島の影が見える。あれが鬼ヶ島……鬼達の住処だ。


 船を用意する前の束の間、浦島太郎は海辺の景色に見入っていた。


 「これが、最後になるかもしれんな」


 浦島の呟きが波音にかき消される。


 鬼ヶ島では、何が起こるか分からない。生きて帰れる補償も無いのだ。

 浦島が、船を泊めてあるところまで歩いて行こうとしたとき、ふいに水面が揺れて、何者かが顔を出した。薄闇に、黒い目が二つ光ってみえる。


 「浦島さん」


 顔を出したそれは、か細い声で言った。


 「……亀か?」


 浦島が目を見張る。

 間違いない。あのとき浜でいじめられていた亀だ。


 亀は辺りをきょろきょろ見回すと、おもむろに浜まで上がってきた。

 小さめな座布団くらいの大きさの亀。暗いからだろうか、あの頃よりも、小さくてひ弱に見える。


 「最近は、海の中も大変と聞くが、大丈夫か? 竜宮城のみんなは?」


 亀はぎょっとしたように浦島を見上げ、首をすくめた。


 「確かに、大変ですけど……浦島さん、鬼ヶ島に行くんですか?」


 亀の言葉に、浦島は黙ってうなずいた。


 「お願いですから、考え直してください。危ないです」

 「そんなこと、分かっておる。でも、これはわしがどうにかせねばならん問題なんじゃ」


 これ以上、桃太郎も赤ずきんも、巻き込めない。死だって恐れない覚悟で、ここに来たのだ。


 亀は目を伏せた。


 「分かりました。僕の背中に乗ってください」

 「君の背中に!?」


 浦島が目を剥く。

 こんなに小さな亀に乗れるか分からないし、乗ったら沈んでいきそうだ。


 「僕のことはかまわないでください。鬼ヶ島までお連れします。次の襲撃は、明日の朝です。今から急げば、暗いうちに間に合います。船で行っては、手遅れになってしまいますよ」

 「どうして、その時間を……」

 「いいから、早く!」


 亀の声は、さっきと打って変わって切羽詰まっていた。

 浦島は、そっと亀にまたがった。甲羅のひんやりした感覚が、お尻に伝わってくる。


 「行きます」


 亀は、ずるずる体を引きずって、海の中に入っていった。

 全身がしびれるような冷たさに包まれる。息も苦しい。浦島は水の中でせき込んだ。蒼白い泡が、ぶはっと広がった。

 とたん、急に息が楽になるのを感じた。水の中なのに、呼吸ができている。


 「これは一体……?」

 「僕の背中に乗っている人間は、水の中でも息ができるようになるんです。乙姫様のまじないのおかげです」


 亀が振り返らずに言った。

 陸上にいるときとは見違えるほど、亀はずんずんと泳いでいった。大きなひれで一搔きずつ、丁寧に泳いでいく。優雅で無駄がなく、ゆったりした動きの割には進みが速い。


 「ごめんなさい、浦島さん」


 亀が消え入りそうな声で呟いた。


 しばらく泳いでいると、水面に赤やら橙やらの光が映っているのが見えた。かがり火を焚いているのだ。


 「鬼達が、出陣の準備をしているんです」


 浦島は、体の芯が冷たくなるのを感じた。恐怖と緊張とがないまぜになって、鼓動が速まる。


 「裏手に回りますから」


 亀はゆっくりと方向転換をして、薄暗いところに入った。ゆっくりと上昇し、浦島は顔だけを水面から出した。日もすっかり落ちて、かなり暗くなってきている。

 岸に上がると、そこは岩礁だった。背丈ほどの高さの崖になっていて、そこを登らないと鬼達のいるところにはたどり着けないようだ。尖った岩がいくつも転がっていて、船も泊められそうにない。


 「本当は砂浜もあるんですけど、そこは鬼が集まっているので危険です。この崖を登って行けば、あまり鬼がいないところに出られるはずです。高さはそこまで高くありませんし、岩も多いから登りやすいと思います。僕はここで待っていますから」


 亀が、幾分か落ち着いた声で言う。

 浦島は少しほほえだ。


 「ありがとう。本当は少し寂しかったんじゃ。君に会えて、よかったよ」


 桃太郎と会う前、山を一人で登っているときには、特段寂しいとも思わなかった。なのに、今は恐怖で膝が震えてくる。


 「もし、夜が更けるまでわしがここに来なかったら、村に戻るか竜宮城に帰りなさい。友達が、あとを追ってくるかもしれんから」


 亀はゆっくりうなずいて、短く一言、「ご武運を」と言った。そして、ゆっくり海に沈んでいった。


 浦島は亀を見送ると、崖の方に向き直った。確かに、高くはあるが、ごつごつしているので、登りやすそうだ。


 浦島は手近な突起に手をかけた。しぶきがかかって、少しぬるぬるしている。足もかけてみる。草履が岩にしっかりかかった。なんとか登れそうだ。そのまま、ゆっくりと登り進めていった。


 浦島が崖を登り終わると、そこは一面の岩場だった。大きな黒い岩が転がっていて、その向こうに明かりが見える。浦島は、岩に身を潜めながら、ゆっくりと島の中心へ近づいて行った。


 鬼達の足音、しゃがれた話し声、武器と武器が触れ合う金属の音が聞こえてくる。浦島は、岩の影に隠れながら、顔を出した。


 十数人の鬼達が、歩き回っていた。肌は赤かったり青かったり黒かったりと様々な色をしていて、文字通りの十人十色だ。手には荷物や金棒を持っていて、何やら忙しそうにしている。


 「失敗はできないぞ!」

 「急げ急げ!」


 鬼達が怒鳴った。


 浦島はしゃがんで、足元の小石を拾い上げた。小石といっても、黒くてざらざらしており、形は小刀に似ている。これなら、武器の代わりになりそうだ。

 鬼達は、思ったより余裕がなさそうである。武器は持っていても、使うようなそぶりは見せない。


 今なら、勝てるかもしれない。


 浦島は石を持ったまま走り出した。


 「なっ、何者だ!」


 鬼の声が上がるのよりも早く、浦島は一番近い鬼の足首の腱を石で払った。短い悲鳴が上がって、鬼が膝をつく。


 浦島は、石をかまえた。


 「我が名は浦島太郎、“主人公”だ!」


 浦島が叫ぶ。鬼達が凍り付いたように動かなくなった。


 「ぐずぐずするな、行け!」


 首領格の鬼がいるのだろうか、そいつが言うや否や、一番近くにいた者が棍棒を振り上げてきた。


 振り上げてくれれば、こっちのものだ。浦島はさっと懐に入って、胸を袈裟懸けに切った。さっと身を翻して、隣の鬼の太ももを引っかく。


 石をふるっているうちに、浦島は桃太郎達との修行を思い出していた。


 「いいか、自分より強そうな奴が来たら、逃げるんだ」


 赤ずきんが厳しい声で言った。


 「なんでだよ、鬼なんて俺らよりも強いに決まってるんじゃん」


 桃太郎が唇をとがらせる。赤ずきんは、冷やかな目で桃太郎をにらんだ。


 「強いやつには、勝てないんだ。それなら、戦って傷を負うだけ損だろう。そんなことは、ダメだ」

 「もし、鬼が我々よりも強かったら?」


 浦島がたずねる。

 赤ずきんは、ちらっと二人を見やった。


 「そんなことがないようにするために、今こうやって修行をしているんじゃないか」


 鬼達は、思ったよりも強くなかった。こうやってどんどん技が命中していくのは、赤ずきんの修行のおかげはもちろん、鬼達が弱いからでもある。体力や力はありそうなのだが、力任せに棍棒を振り回しているだけで、隙だらけなのだ。


 気がつくと、ほとんどの鬼が浦島からの傷を負っていた。

 浦島は広場の真ん中で立ち尽くしていた。さすがに、そろそろ疲れてきたところだ。


 「どうするんだよ」

 「姫様に見つかったら、ただじゃおかないぞ」

 「馬鹿! 姫様とか、軽々しく口にすんじゃねえ。こいつ、浦島太郎なんだぞ」


 鬼達が顔を見合わせて騒ぐ。

 浦島の胸が、ざわっと波打った。


 「姫様? それは誰なんだ。お前達は、その姫のために盗みを働いているのか? それってもしかして……」


 姫の名前を言おうとしたその瞬間、眩暈が浦島を襲った。目の前がふいにぼやけたかと思うと、ぐらっと傾く。


 「しまった……」


 膝に力が入らなくなって、浦島はその場に崩れ落ちた。


 視界が暗くなっていく中、浦島の目には桃太郎と赤ずきんの笑顔が浮かんでいた。


 

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