第22話 神田明神下、小間物屋お鈴の恋
小間物屋の娘お鈴が出会ったのは、笑顔の素敵な鳶職の男でした。
―――――――――――――――――――――*
あたしがその人と初めて出会ったのは、九月も末のとある風の強い日。
おっ母さんの言いつけで、叔母さんの家にお遣い物を届けに行った、その帰り道のことでした。
神田明神下のお店から浅草橋まで、小半時ほど。小さな娘の一人歩きには少し遠いですが、お
何度も通った道行きは慣れたものです。帰りがけに叔母さんが包んでくれたお菓子を手に、街のにぎわいを楽しみながらのんびりと歩いていました。
ところがです。
「あっ」
困りました。急に下駄の鼻緒が切れてしまったのです。
まだ道のりは半ば、ここからお店まで裸足で歩くのはちょっと大変です。あたしは道端にしゃがみこんで、途方にくれてしまいました。
そこに、通りがかりの男の人が声をかけてくれました。
「嬢ちゃん、どうしたんだい?」
「あの……、鼻緒が」
「なあんだ、ちょいと貸してみな」
その人は笑って腰の手ぬぐいを取ると、端を咥え、ピッと勢いよく裂きました。それからあたしの隣に座り込んで、撚り紐を編み始めたのです。
「ほら、肩につかまっときな。すぐに出来上がるからよ」
「は、はい」
片足を上げてもじもじさせているのが目についたのでしょう。そんな優しい言葉も投げてくれます。
あたしはそのたくましい肩にそっと手を乗せ、鼻緒を結び直してくれるのを待ちました。
「履いてみな」
「はい。有難うございます」
「なあに、いいってことよ。どうだい、具合は?」
あたしはトントンと、爪先を蹴ってみました。
「ちょうどいいです」
「そうかい、そいつは良かった」
「ありがとうございます。あの、これを」
あたしは手に持っていたお菓子を差し出しました。
「あはは、礼なんかいいから。じゃあな嬢ちゃん、気いつけて帰んな」
ポンポンと頭を叩いて、立ち去ろうとするその人にあたしは慌てて声をかけました。
「あの! お名前を!」
「鳶の善吉だよ!」
「あたしは、神田明神下のお鈴です!」
「おう、お鈴ちゃん! 元気でな!」
手を振りながら去っていく。その爽やかな笑顔に、あたしは胸が高鳴るのを抑えられませんでした。
それから善吉さんは、街であたしを見かける度に声を掛けてくれるようになりました。
気さくで優しい人。甘味処でお汁粉を奢ってもらったことだってあります。
二十歳過ぎの大人のあの人から見れば、まだ十四にもなっていないあたしなんてただの子供でしかないでしょう。でもあたしにとっては、密かな想いを抱いた初めての男の人でした。
そんなある日のことでした。近所で火事が起こったのです。
人々が騒然とする中、火消しの人達が大声を上げながら街を駆けて行く。その中に、善吉さんの姿がありました。
火消しには鳶職の人が多い、確かそんな話を聞いた憶えがあります。
あたしはあの人の身が心配になり、後を追いました。そして火事場で見たのは、燃えさかる炎の中、屋根の上に立ち火の粉を浴びながら纏を振りかざす、善吉さんの姿でした。
なんて美しい。
この上なく華麗で、勇ましくて。この世にこんな綺麗な男の人が存在していいのかとさえ思いました。
心の臓が破れるほどに高鳴り、顔が灼けつくように火照る。それは決して、火事のせいなんかじゃありませんでした。
お父っつぁんやおっ母さんには、娘が火事場見物なんてお転婆が過ぎると大層怒られましたけど、あたしは悔やんでなんかいませんでした。
それからのあたしは、もう一度あの姿を見たいとそればかりを考える毎日です。
でも、火事なんてそう滅多に起きるものじゃありません。
善吉さんとはその後も度々行き会い、色々と話を聞きました。
「纏持ちってのは、火消しの華だ。腕っぷしと度胸がなきゃやってられねえんだぜ。
そうかい、お鈴ちゃんもあれを見ててくれたのかい」
火事の話をする時の善吉さんは、それはもうきらきらと眼を輝かせて、子供のよう。
けど、あたしはちょっと物足りない。やはりこの人が最高に輝くのは火と一緒にいる時だと、そう思いました。
悶々とする日が続きました。
あの時の様子が忘れられず、毎晩のように夢に見ては、眼を覚ましてため息を漏らします。
もう一度火事が起きればいいのになんて、酷い事を考える自分が嫌になります。
付け火は死罪。そんな言葉がふと頭をよぎって、泣きたくなりました。
でももう我慢できない。
あの姿をもう一度見られるのなら。
そしてとうとう……。
その晩、あたしは家族が寝静まったのを見計らって、囲炉裏のおき火の中から赤く色付いた炭を掘り出し、火箸で刺して外に持ち出しました。
裏道を走り、適当な建物の軒先に炭を置いて、その上に落ち葉を乗せます。
炎が上がり始めたのを見届けてから急いでその場を離れ、何食わぬ顔で家に戻り床につきました。
それから半鐘の音が耳に届くまで、そう長い時間は掛かりませんでした。
あたしはおっ母さんが止めるのも聞かず、外へ飛び出しました。人混みの中を駆け抜け、火事場へ着くと、そこに善吉さんの姿がありました。
善吉さんは屋根の上で纏を振り、大きな声を上げています。炎に照らされた汗がきらきらと輝いて、舞い飛ぶ火の粉は星屑のようでした。
ああ、もっと。もっと近くで見たい。
炎よ、もっと激しく燃えて! もっとあの人を輝かせて!
その時、突然の風が吹き荒れました。
突風に煽られた火は一気に燃え上がり、善吉さんの乗った家を、あっという間に炎で包み込みました。
あの人の持つ纏が、あの人の体が、橙色の火を放ちます。
燃え盛る舞台の上で善吉さんは狂ったように舞い、歌声のような絶叫を上げます。
なんて素敵。あたしは涙が止まりませんでした。
屋根が崩れ、善吉さんの姿が炎の中に消えました。
「善吉さん!」
駄目! もっと、もっとあたしに見せて!
もっと間近で、あたしの目の前で!
あたしは止めようとする周りの人たちの手を振り切り、善吉さんが待つ炎の舞台の中へと、両手を広げて駆けて行きました。
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