第18話 銀盆に狐が哭く
懐かしい故郷の思い出なんて、私にはない。
あるのはただ、忘れたい過去だけ。
(鬱注意)
―――――――――――――――――――――*
#1
東北の、
谷川をはさんで連なる段々畑と、山際にへばりつくようにポツリポツリと建ち並ぶ十数軒の民家、そしてさびれた神社。それがその土地の全てだった。
訪れる人もなく、真夏でも午後三時を過ぎれば日が翳る。
隣の集落にある分校までは、歩いて一時間以上もかかった。
コンビニもインターネットもない。テレビはあったが、電波が届かずほとんど映らない。
イベントと言えば、年に数回行われる里神様を祭る神事くらい。
そんな世間から忘れ去られたような狭い空間で、私は十五の歳まで暮らした。
兄弟はいない。父と母との三人家族だ。
父親はとても優しかったが、出稼ぎで家にはほとんどいない。戻って来るのは盆と正月くらいのものだ。
父は帰って来るとすぐに私を抱き上げ、「百合香はかわいいなあ、かわいいなあ」と無精ひげでザラザラの頬をすり付けてくる。それから休暇が終わるまでの間ずっと私を放さず、膝の上に乗せて酒をくらうのだ。
そのほんの数日間が、私にとっては宝物のような日々に思えた。
大好きな父が、出稼ぎ先の工事現場で事故にあい他界したのは、私が十二の時だった。
母は一周忌も待たずに、同じ集落の他の男と再婚した。
でも、それを責めようとは思わなかった。母娘二人が生きるためのやむを得ない選択だったのだ。
二番目の父親は、私の最初の男となった。十四歳の時だ。
初めての夜のことは、あまり覚えていない。恐怖と、痛みと、開け放たれた窓から見えたまん丸のお月様。
そういえば、どこかで狐が鳴いていたっけ。
それともあれは、私の声だっただろうか。
二人の関係に母が気付いていないはずはなかったが、彼女は何も言わなかった。
というより、一番目の父が亡くなってから、母はほとんど口を開かなくなっていた。
そして中学卒業を間近に控えた、ある春の夜。
私は男を包丁で刺して、家を飛び出した。
その時も母は何も言わなかった。
いや一言だけ、晩御飯の並んだテーブルをひっくり返した私に向かって。
「食べ物を粗末にすると、里神様のバチがあたるよ」
と。
暗い山道を一人で歩き、途中でダンプに拾われて、遠く離れた仙台まで送ってもらった。
代金は、体で払った。
そのおかげでもないのだろうが、運転手のおじさんはとても親切だった。
紹介してくれた飲み屋の老夫婦も、何も聞かず住む所まで世話してくれ、私はその店で働きながら三年を過ごした。
その後、警察沙汰になったという話は聞こえてこなかったから、あの男の傷は大したことはなかったのだろう。
それどころか、私の捜索願いが出された様子すらなかった。
―――*―――*―――
東京に出て来たのは、十九歳の時。
理由は特にない。ただあの土地からもっと遠くへ行きたかった。逃げたかった。
それだけ。
知り合いも伝手もなかったが、怖れもなかった。
新宿歌舞伎町のキャバクラに行き当たりばったりに飛び込んで、働かせてくれと談判した。断られてもすぐに隣の店の扉を叩いた。
採用してくれたのは、六軒目だ。
仙台の飲み屋で働いた経験は無駄ではなかったのだろう、私はすぐにその店の稼ぎ頭となった。
オーナーにも認められ、一年を待たず系列の六本木の店へと移された。
そこは、昼間でも薄暗い山奥とは真逆の、夜のない街だった。
都会での生活は楽しく、空しかった。金に不自由はしなかったが、ただそれだけだ。
休日も特にやることもなく、一日中テレビを見ているか、せいぜい街をぶらつく程度。むしろ昼間の都会は、私には眩しすぎた。
そして二十二歳の誕生日を迎えてすぐの、ある秋の日。
私は彼と出会う。
―――*―――*―――
#2
その日は、久しぶりの休日。
昼間は相変わらず部屋でゴロゴロしていたが、陽が暮れるとなぜか妙に落ち着かない気分になってしまい、仕方なく夜の街へ出ることにした。
すっかり吸血鬼の身体になっちゃったなあ、などと面白くもない独り言をつぶやきながら、気まぐれに銀座へと脚を向ける。
昼間はきらびやか過ぎて、とても来たいと思えるような場所ではないが、夜はそう悪くない雰囲気だ。六本木とはまた違う街の灯りに僅かながら心を躍らせつつ、散策を楽しんだ。
でも特に目的があったわけでもない。数件のショップを覗いた後、裏通りのビルの中にある小さなスナックに入った。
目立たない木製のドアの奥は、予想通りこじんまりとした、でも上品な雰囲気の店だった。
私はカウンターに腰を下ろし、アイリッシュの水割りを注文した。
店内には数人の客しかいない。かすかに流れる音楽に耳を傾けつつ、ホッと息を吐く。
その静寂を破ったのは、耳障りなタッピング音だった。
私のふたつ隣りのスツールに座るその男は、カウンターに置いたタブレットをのぞき込みながら、指先でせわしなく画面を叩いていた。
さほど大きな音ではないのだが、そのかすかなタップ音と神経質な指の動きが、店内を穏やかに流れる空気を乱している。
私は舌打ちしたい気持ちを抑えて、男の隣に席を移した。
そしてタブレットの脇で忘れられたように佇む、氷の溶けかかったロックグラスに、チンと音を立てて自分のグラスを当てる。
画面に夢中になっていた男は、その小さな音で初めて私に気付いたようだ。
仕事を中断された苛立ちからか、一瞬怒りを込めた目を私に向けかけたが、そこにニッコリと微笑む女の顔を認めると大きく目を見開いた。
「ハロー。お兄さん、お忙しそうね」
「あ、いや……」
正面から見つめると、男は気恥ずかしそうに視線を下げる。
ふうん、おっさんかと思ったけど意外と若そう。私とそう変わらないみたい。
「お仕事邪魔しちゃった?」
「あ、いや。もういいんだ」
彼はタブレットを閉じると、鞄にしまい込んだ。
それから改めて、私の顔をマジマジと見つめた。値踏みするように……。
「今日はお店が休みだから、一人で飲みに来たの。お兄さん、良かったら付き合ってくれない?」
「お店?」
「うん、六本木」
「……ああ」
彼は私が水商売の女だと理解すると、途端に緊張を解いた。というよりも、若干の蔑みを含んだ眼を向けてきた。
あーあ、やっすい男。でもまあいいわ、暇つぶしにはちょうどいい。
六本木でもトップクラスのクラブで働く私には、この程度の男を転がすなんてお手の物だ。
お酒が進むうちにすっかり気を許した彼は、饒舌に自分の夢を語り出した。
彼の名は、榊原陽介。とある建設会社の営業マンだ。
一応、エリートサラリーマンと言っていいだろう。歳は私より三つ上の二十五歳。
夢と言っても大したものではない、ただ成り上りたいというだけ。でもその意思は本物だった。
必死に勉強して一流大学に入り、今の仕事に就いてからも気を抜かずやれることは何でもやってきた。
いつか上の連中を一人残らず蹴落としてやるんだ。と呟くその目に、嘘は感じられなかった。
大して魅力的ではないが、一夜を共にしてもかまわないと思う程度には、悪くない男だった。
―――*―――*―――
#3
それから私たちは、度々会うようになった。
別に付き合っているわけではない。それどころか、彼は私にこう宣言した。
「遊びならいいよ」と。
何様かと腹を立てる一方で、その幼稚さが可愛らしくもあり、私はホストクラブのダメ男に入れ上げる同僚の気持ちが少し理解できたような気がして、笑ってしまった。
「いいよ、あなたが出世できるように応援してあげる」
彼は自分の仕事には熱心だったが、それ以外のことについては無頓着、というより気を回す余裕がないように見えた。
身に着ける物のセンスは皆無、音楽の知識もロクにない。
特に食事がダメだ。好き嫌いなく何でも残さず食べる、と言えば聞こえはいいが、食べ方に品がなく、ガツガツと犬のように掻き込み付け合わせの野菜まで残らず口に入れて、皿の上を舐めるようにきれいにしないと気が済まない。
「いったいどんな家庭で育ったの?」
と、笑いながら聞いたその瞬間だった。
「家の話はするな!」
彼はいきなり大声をあげた。
「ごめん……なさい」
「あ、いや。俺の方こそごめん」
この、時折見せる感情的な態度もマイナス。
でも私だって、昔の事に触れて欲しくないのは一緒だ。むしろ親近感を抱いた。
私は、彼を一流に育て上げることに夢中になった。
野心家で、努力家で、激情家で、見栄っ張り。弱点の多い彼は、私にとって出来の悪い弟のようで、彼の成長は私の喜びとなった。
一方、私は私で店のランキングをめぐって熾烈な戦いを演じていた。
女の戦いは、陰湿で容赦がない。自分が上に昇るよりも、他人を引きずり下ろす方に熱が入る。
だがそれでも、上位の者達は己の矜持を武器に、力なき者の足掻きを踏みつけにして頂点に立ち続ける。
私のランキングは中位で、どちらかというと踏みつけにされる側だったが、上位の人達に対しては敵意よりも憧れを抱いていた。
そして同格の者には、むき出しの敵意を。
いつしか私は、彼の出世競争と自分の戦いを重ね合わせていた。
そんなある日のこと。
「ほらまたあ。クレソンの切れ端なんか、いつまでも見てんじゃないの。
いい女を落としたいのなら、料理よりも目の前の顔を見なさい。視線は大切よ」
私はいつものように、彼と食事をしながらモテる男講座のレクチャーをしていた。
彼の本業については私に手伝えることは何もないが、出世のためには男にも女にもモテる男であることは必須。その分野なら、私はプロだ。
「だって……」
陽介は横を向いて口を尖らせる。最近の彼は、こういう甘えた態度まで取るようになっていた。
「だって何よ」
「食べ物を粗末にしたら、里神様のバチがあたる」
その言葉に、私は心臓が止まる思いがした。
「今……、なんて……」
「何でもないよ」
「あなた……。もしかして、粟野山の出身?」
「えっ!」
今度は彼が、私の言葉に目を見開いた。
「びっくりした。私、夫婦沢だよ。あなたは?」
「……三条淵」
それは、私が住んでいた集落から更に奥の、登山ルートの入り口付近にある土地の名だった。あんな所に、人が住んでいたのか。
でもこれでやっと、彼が昔の話をしたがらない理由が分かった。
「そうだったの……」
この人も私と同じ、あの場所から逃げ出して来たんだ。
私は涙を堪えながら、生まれて初めての同志を得た思いに、言葉を詰まらせた。
だが……。
「いいか、この事は絶対に他所で喋ったりするんじゃないぞ。もし誰かに漏らしたら、お前を殺してやる」
彼はテーブルの上に身を乗り出し、怒気を含んだ目で私を睨み付けた。
―――*―――*―――
♯4
その後も、私と陽介の関係は変わらず続いた。
仕事は順調なようで、大きな取引をまとめたとか、得意先に可愛がられているとかの自慢話の合間に、全部君のおかげだよと私のご機嫌を取ることも忘れなかった。
うん、教育の成果ね。
私も店ではジリジリとランキングを上げ、それに伴って戦いはより苛烈なものとなって行った。
無理をしすぎたのか、最近体調が思わしくない。彼と過ごす休日が唯一の心の支えだった。
でももう少し、あと一歩でトップテンに入ることが出来る。
はずだったのに……。
「ユリカちゃん、ちょっといいかな」
その日、私は突然店長室に呼ばれた。
「ユリカちゃん、急で悪いんだけどさあ。君、他の店に移ってもらうことになったから」
「えっ……。ど、どうしてですか?」
「いやもちろん、君が一生懸命やってくれてるのは判ってるよ。でもねえ、一生懸命やり過ぎちゃったっていうか」
歯切れの悪い口ぶり。そしてふてくされたように横を向いたままの顔。
こんな店長を見るのは、初めてだった。
「どういうことですか?」
「君さあ、亜李侏ちゃんの太客の酒田さんに、ちょっかい出したでしょ?」
「そんなことしてません!」
亜李侏さんは、ここのNO1ホステスだ。私にも優しくしてくれて、時に彼女のヘルプとして同席することもある。
まさか、その時に?
「うんうん、ユリカちゃんがそんなことする娘じゃないのも知ってるよ。
でもさ、その坂田さんが君のことを気に入っちゃったらしくて、指名変えしたいって言ってきたんだよね」
なんてことを……。私は顔から血の気が引くのを感じた。
クラブにおいて、本指名はプロポーズにも等しい重大な意味を持つ。もちろんそれは店側の暗黙のルールであり、客には何の義務もないのだが。
このような店に出入りする客の心得として、そういったしきたりを尊重するのは常識だったはずだ。それなのに……。
「亜李侏ちゃん、カンカンに怒っちゃってさあ。このまま君を店に置いとくなら、自分が全部の客を連れて出て行くって」
無理もない、私だって同じ立場になったらそう言うだろう。
NO1の逆鱗に触れた者は排除されて当然。仕方ない、また新宿に戻って一からやり直すしかないか。
「で、次の店なんだけどさ。ちょうどここが人手が足りなくてね。池袋なんだけど」
そう言って差し出された紙切れを見て、私は言葉を失った。
その店は知っている。系列店には違いないが、そこは高級クラブでもキャバクラでもなく、本番ありのピンサロだった。
「わかってると思うけど、逃げたって無駄だからね。どこまでも追いかけろって言われてるから」
言ったのは、亜李侏か。
どうやら私は、勘違いをしていたらしい。NO1の武器は、矜持だけではなかった。爪も牙も、ちゃんと持っていた。
そしてそれは普段は巧妙に隠していても、歯向ってくる者に対しては容赦なくふるわれるのだ。
ただ排除するだけでは済まされない、あからさまな報復だった。
「……わかりました。今日は体調が悪いので、お店休んでいいですか?」
私はうなだれたまま、店を後にした。
夕暮れ時の人混みの中をトボトボと歩きながら、私はメールを打った。
『会いたい』
もはや頭の中には、彼の顔しか浮かんでこなかった。
意外なことに、すぐに返信が返ってきた。
『ちょうどよかった。俺も話したいことがあったんだ』
『じゃあ7時に。私のマンションで』
陽介に会える。私は今夜だけは思い切り甘えてしまおうと、嫌なことを全て頭の隅に追いやって、彼を迎える準備に没頭した。
―――*―――*―――
#5
「いらっしゃい」
彼は部屋に入ると、コートも脱がずに強張った眼で私を見た。
「どうしたの?」
「実は今日、専務に娘さんを紹介したいって……、言われたんだ」
「えっ、すごいじゃない。おめでとう!」
「だから……」
「本当にすごい。今まで二人で頑張ってきた甲斐が、ううん、全部あなたの努力の結果よ」
「別れて欲しいんだ」
「え……?」
そんなの、当たり前じゃない。私はただあなたを応援してあげたかっただけで、愛していたわけじゃない。
むしろあなたを馬鹿にしていた。見栄っ張りで、我儘で、プライドだけで中身は空っぽのコンプレックスの塊。
そんなあなたが必死に頑張っている姿に、私はどれほど励まされたか。
だから、あなたが私のもとから旅立とうとするのなら……。
「嫌……」
自分の口からこぼれ出た言葉に、私は愕然とした。
「いやよ、絶対に別れない。あなたはもう、私のものよ」
「何を言ってるんだ。初めからそういう約束だったじゃないか。
いいか、うちみたいな同族企業では、上に行くには経営者一族の身内になるしかないんだ。
そして専務は社長の弟だ。つまり俺を一族に迎えてもいいって、この俺を、認めてくれたってことなんだぞ」
「それがどうしたのよ! 一族って言っても、社長になれるわけじゃないんでしょ? 給料だって私の稼ぎよりもずっと少ないじゃないの!」
嘘よ。私は、こんなことを言いたいんじゃない。
「そういう問題じゃない! 俺という存在が社会に認められたってことなんだ!」
「あなたを認めてあげたのは私の方が先でしょ!
そうだ、そんな会社辞めちゃいなさいよ。これからは私がお世話してあげる。あなたはずっと好きなことをしていればいい、お金は全部私が出してあげるわ!」
違う、違う! こんなの私の言葉じゃない!
「ふざけるな! そんなことできるわけないだろ!」
「ふざけてるのはあなたよ! 私がこれまで、どれ程あなたに尽くしてきたと思ってるの!」
「ま、まあ落ち着け。そうだよ、君はずっと俺を応援してくれてたじゃないか。
どうしたんだ、君はそんなことを言う人じゃないだろう?」
「赤ちゃんが……出来たの」
「なっ!」
どうしてそんな言葉が出てきたのか。でも口にした瞬間に、私は確信した。
そうだ、そうに違いない。最近の体調不良もきっとそれが理由だったんだ。
「ふざけるな……」
「そうよ、私がずっとあなたを応援してあげる。だからこれからは、三人で。ねっ?」
「ふざけるなーっ!」
叫び声とともに、彼の両手が私の頸に掴みかかってきた。
「俺は、明るい世界に行くと決めたんだ! あんな薄暗い山奥なんかに、縛り付けられてたまるか!
ずっとお前が嫌いだった。お前を利用することで、俺はあの土地に復讐しているつもりだったんだ。
やっと逃げられると思ったのに、やっと光の差す世界に行けると思ったのに!
どうして俺を追いかけてくるんだ!
どうして見逃してくれないんだ!」
暗く霞んでいく視界の中で、彼は声を上げて泣き叫んでいた。
そうか。私はずっとあなたのことを同志だと思っていたけど、あなたにとっての私は、逃れたい過去そのものだったのね。
だったら、もっと早く逃げてしまえばよかったのに。こんなことをしたら、もうどこへも行けなくなっちゃうよ。
「馬鹿……」
その言葉は、彼に向けたものだったのか。それとも自分への後悔だったのか。
ああ、お月様が見える。
狐が哭いている。
寂しいよう……
悲しいよう……
って……。
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