第16話 ステーキハウス デ プリュイ

 何度もすみません、警告です。

 絶対にお食事前には読まないでください。

 あと、鬱が苦手な方もなるべくお控え下さい。


―――――――――――――――――――――*



 その男が店にやってきたのは、7月の初め。

 いつまで続くとも知れぬ長雨で客足も減り、気が滅入る日々の続いた木曜日の晩だった。


「予約した湧坂ですが」

「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」


 駅前のビル地下にある、ステーキハウス。店内は全て鉄板のあるカウンター席になっていて、料理人が目の前で肉を焼き、客に提供するスタイルだ。

 私は東京で3年ほど修行を積んだ後、春からこの店で働いていた。


 地元に戻れば、いつかはこういう日が来るかもという気はしていた。

 だが予約表に見覚えのある名前を見つけた時、予想していたほど動揺しない自分に密かに安堵したのは、実は無自覚な動揺の裏返しだったのかも知れない。

 9年ぶりに見る男の顔が、どこか疲れていて昔のような輝きを失っているように見えたのも、きっと私の目の方が曇っていたせいだろう。

 少なくともそいつは、連れの若い女性には満面の笑顔を向けていた。


 かつては、私にもそんな笑顔をくれたね。

 何も知らない高校生だった私に。初めての愛も、快楽も。

 最後は憎悪にまみれた顔で、膨らみかけた私のお腹を蹴ってくれたけれど。


「では、始めさせていただきます。まずはサーモンから」


 隣の女性を蕩けるような笑顔で見つめるこいつは、私のことにはまるで気付いていない。そうよね、あの頃とはずいぶん変わってしまったもの。


 この男に蹴られたせいで赤ちゃんを流産し、高校をやめてから何年も家に閉じこもっていた。

 立ち直るきっかけをくれたのは、東京のお店のオーナーである叔母だ。幼い頃からとても可愛がってくれて、あの事件があった後もずっと気にかけてくれていた。

 実家に戻りたいと言った時にはとても心配してくれたけど、お母さんにも恩返ししなくちゃいけないからと告げたら喜んで送り出してくれた。

 叔母には言葉で言い尽くせないほど感謝している。もちろん、私が一番辛い時にずっとそばで見守ってくれていた、母にも。


 私は男の顔を上目遣いに見つめながら、ピンク色の肉片を二つ、熱く焼けた鉄板の上に置いた。

 ジューッという音と共に、汚れなき肉片が灼け爛れていく。

 私はその上にペッパーミルを掲げた。視線の先に座る男の、ちょうど首のあたりと重なるようにして、両手に力を込めてギュッギュッと絞る。

 そして隣の女性にも、ギュッギュッと。

 香ばしく焼けたサーモンを二人の皿に乗せ、その上に少量のイクラを散らした。

 大丈夫、私は冷静だ。


「わあっ、美味しそう」


 女が無邪気な声を上げる。


「どうぞ、御召し上がり下さい」

 生を全うすることなく理不尽に奪い取られた、親と子の命を。


 次は車エビ。

 生きたままのそれを鉄板の上に放り投げ、素早くステーキカバーで蓋をする。

 私の手の下で2匹の小さな者は力の限りに暴れ、生きながらに焼かれる苦しみを、声なき断末魔と共に全身で訴える。

 だが、救いの手は来ない。

 私は蓋を取ると、力尽き命果てた屍体の上からフライ返しの背を押し付け、死者に更なる灼け傷を負わせた。

 ナイフで首を落とし、皮をはぎ、赤剥けとなった肉を男と女の皿に乗せる。

 大はしゃぎでそれを頬張る二人に、私もニッコリと笑いかけた。


「では、お肉に移らせていただきます。本日は、近江産黒毛和牛のヒレステーキでございます」


 分厚い肉の塊を2枚。鉄板の上に乗せると、小さく飛び散る油と共に、屍肉の灼ける臭いが立ち昇る。

 熱せられた生肉がその表面に赤い血を滲ませる。私は頃合いを見て、肉を返した。

 焼け爛れた肉の表面。

 再び立ち昇る臭気。

 私はブランデーを浴びせかけ、罪なき命を更なる煉火で押し包んだ。


「わあっ」


 立ち昇る火炎に、女が目を輝かせる。

 ダイジョーブ、ワタシはダイジョーブ。


 男の肉にナイフを突き立て、真っ二つにする。滴り落ちる血に目もくれず、切り刻む。入念に、入念に。

 そして女の肉も同様に、相手の顔を見据えながら、何度も何度も刃を通す。

 一口大に切り刻んだ肉片を皿に取り分けると、二人は我先に箸を伸ばした。

 一片の罪の意識も見せることなく。


「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」

「有難うございます。またお越し下さいませ」


 帰りがけ、満足そうに微笑む女に私は丁寧に頭を下げた。

 ダイジョーブ、ダイジョーブ……。


「はい、ぜひ。ねっ?」


 女が隣の男を見上げる。男は私には目もくれず、女に笑いかけた。


「うん、今度は3人でかな?」


 え?


「馬鹿ぁ、お肉はすぐには無理でしょう? 当分はミルクよ」


 お腹に手を当てながら、甘えた声を漏らす女。

 マサカ……。


「あの、もしかして?」

「ええ、4か月になります」


 幸せ一杯の笑顔。

 ダメ……。


「そうですか、おめでとうございます」


 イッテハダメダ……。


「はい、ありがとうございます」


 ダメ……ッ!


「お大事になさって下さいね。彼に蹴り殺されないように」

「え?」


 虚ろな笑みを浮かべる私の言葉に眉をひそめる女と、その隣で驚愕に目を見開く男の顔を見較べながら、私は後悔した。



 ナアンダ、モットハヤクイッテヤレバヨカッタ……。


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