第15話 益子リカ17歳。走る!
実は私、ジョギングが趣味なんです。
某マラソン大会で高橋尚子さんと手を繋いでゴールしたことがあります。
―――――――――――――――――――――*
「むー、これはちょっと厳しいかな」
パジャマ姿の少女が、床の上の目覚まし時計を見下ろしながら呟く。
時計の針が指しているのは、午前7時39分。校門が閉まるのが8時20分だから、あと41分しかない。
自宅から学校までは電車で3駅、距離にして遥か10kmの彼方だ。
今から電車で行くとしたら、駅まで走って5分と電車に揺られること20分に更に走って10分の合計35分。これならまあ、なんとか間に合う。
た・だ・し。
都会と違って、この地方では電車は30分に一本しか通らない。
次の電車はギリキリ5分後。これに乗ろうと思ったら、今すぐパジャマのまま外に飛び出さなければならない。
うら若き乙女にそんな真似が出来ようはずもないし、その次の電車を待っていたら完全に遅刻だ。
なぜこんな時間まで寝過ごしてしまったのか、何故目覚ましのベルが鳴らなかったのか、そんなことを考えている暇はない。
というか、理由ならとっくに分かっている。
寝過ごしたのは、深夜の特別番組「朝まで荒らしにしやがれ」を最後まで見てしまったせいだし、ベルが鳴らなかったのも、実は鳴らなかったのではなく鳴ったと同時に寝ぼけた自分が投げ捨てたに決まっていると、ベッドの棚の上にあったはずの目覚ましがドアの前に転がっているのを見た瞬間に理解した。
「うん、のんびりしている場合じゃないな」
少女はパジャマを脱ぎ、更に下着まで脱ぎ捨てて全裸になると、ストレッチを始めた。
「んっ……、んっ……」
いつもなら時間をかけてじっくり行うのだが、今日は1分間だけ。体を目覚めさせる程度で済ます。
次にトイレ。これを忘れると後で取り返しのつかないことになってしまう。
ストレッチのおかげでお腹も朝から絶好調、2分で済んだ。
それからは大急ぎ。顔を洗い歯を磨いて、下着と制服と財布とスマホを奇妙な形をしたリュックに詰め込む。
教科書は入れない。そんなものは、ずっと学校に置いたままだ。
小振りな胸にニップレスを貼り、パンツも穿かずにランニングウェアの上下を直接身に付ける。
これも2分で完了。
既に家族は出かけてしまっていて誰もいない台所に行き、野菜ジュースを一杯。
ストレッチやトイレもそうだが、いかに時間がなかろうと決して欠かしてはならない手順があるということを、彼女は知っていた。
支度を終えると、玄関を出て庭の隅にある犬舎へ向かう。
「おはようコータ、今日もお願いね」
バタバタと嬉しそうに尾を振るハスキー犬の背中にリュックを固定し、外へと連れ出す。
リストウォッチを確認。7時47分を示していた。
「よし」
ストップウォッチモードに切り替え、両手で頬をパンパンと叩いて気合を入れてから、スタートボタンを押した。
ピッという電子音が響くと同時に、少女と犬は道路を蹴る。
県立三戸橋高校陸上部2年、10000mランナー益子リカの戦いが、今始まった。
リカは家を出ると、駅とは逆の方角へ向かった。
少し遠回りになるが、2・300mも走れば郊外へ出る。そこからは信号もない農道をほとんど一直線に、学校の近くまで行けるのだ。
リカは通いなれた住宅街の道を、何の迷いもなく走り抜けた。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
タッ、タッ、タッ、タッ
「はっ、はっ、はっ、はっ」
タッ、タッ、タッ、タッ
弾むような息遣いと、それにシンクロする安定したストライド。
白いスポーツシューズが力強くアスファルトを蹴り、短い髪が軽やかに風に揺れる。
真っ直ぐ前を見据えるその目に映るのは、地平線まで続く一本道と、青い空。
そして果てしなく広がる稲穂の海。
9月も下旬のこの時期、穂先は既に膨らんでいるが、葉の色はまだ青みを残していて黄金色と呼ぶには少し早い。
リカはリズミカルな呼吸を繰り返しながら、風に混じる夏の残り香を楽しんだ。
うん、今朝は調子がいい。
爽やかな朝の空気と初秋の柔らかな日差しのもと、自然とペースが上がる。
その隣には、リュックを背負ったコータが軽やかな足取りで並んで駆けていた。
リカにとって、コータは単なる荷物係ではない。
人間のリカにはギリギリのハイペースの走りも、天性のランナーであるハスキーには余裕だ。
ましてやコータはただの飼い犬ではなく、毎日のようにリカと一緒にこのコースを走っているランニングのエキスパート。
この長距離をリカの思い通りのペースで走ってくれるコータは、実に優秀なペースメーカー、というより専属コーチとさえ言いたくなる程の頼れるパートナーなのだった。
長い田んぼ道を愛犬と共に走り切り、再び市街地へと入る。
学校まであと2km。
ふと前方を見ると、一台の自転車が走っているのが目に入った。
大きめのスポーツバッグをリュックのように両肩に掛けた男子が、のんびりとペダルを漕いでいる。同じクラスの桜井遥斗だ。
リカは追いついたところでその後頭部をパンッと叩き、声を掛けた。
「何してんのよ桜井、遅刻するよ!」
「痛てっ……。て、益子! お前こそ何してんだよ!」
「何って、いつもの朝練に決まってるでしょ」
「いつものじゃねえだろ! 30分も遅いじゃねえか!」
「あんただってこんなに遅いじゃないの。何してたのよ」
「何って……、昨夜は遅くまでテレビ見てたから」
「それってもしかして、朝まで荒らし……」
「あ、お前も見てたんだ」
嬉しそうにニヤける桜井。それを見たリカは何故か嫌な気分になった。
「先に行くよ!」
リカがダッシュすると、桜井は慌てて後を追った。
「ちょ、待てこら! おま、速すぎだろ! コータも、ストップ!」
だがコータは、桜井の言葉を無視して平然とリカの隣を駆け続ける。
桜井も必死にペダルを漕ぐが、付いていくのがやっとだ。リカはチラリと後ろを見て、更にペースを上げた。
残り1000m。ラストスパート!
街中を飛ぶように駆け抜け、最後の角を曲がると校門は真正面だ。
残り200m。
門の前では、教師がこちらを見ながら腕時計をチョンチョンと突いている。
まだ間に合う。残り100m。
リカの両側から桜井の自転車とコータが前に出ようとする。どちらもゴールを目の前にして本気を出して来たようだ。
負けるもんか。残り50m!
教師が校門にかざすように手を上げるその前を、一人と一台と一匹が駆け抜ける。
三者同時にゴールイン!
「はあっ! はあっ! はあーっ! 間に合ったあー!」
「ああ、おかげ様で俺も間に合ったよ。あんがとなー」
リカが地面にヘタり込む隣で、桜井もハンドルに体を預けて荒い息を吐く。
そこへ教師がやって来た。
「おいお前ら、間に合ったじゃないだろ。そんなとこで休んでないで、早く教室へ行け。ああ、その前に益子はちゃんと着替えろよ」
「はーい」
リカは尻尾を振りながら顔を舐めてくるコータを抱きしめるようにしながら、リュックを外した。
「バイバイ! 車に気を付けて帰るんだよー!」
足取りも軽く家路につくコータに手を振り、リカはリストウォッチを覗いた。
33分28秒59。非公認ながら自己最高記録更新だ。
でも……。
「あーあ、なあんで本番になるとこのタイムが出せないのかなあー。大会でこれが出来ればインターハイも夢じゃないのになあ」
「何でって、お前自分で気付いてなかったの?」
「えっ、あんた理由を知ってるの? 教えて、お願い!」
掴みかからんばかりに迫って来るリカに半ば呆れながら、桜井はあっさりと告げた。
「だって、大会の時はコータがいないじゃん」
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