第14話 五月の尾瀬にて


『大自然』というお題で何か書けと言われたので、書きました。


―――――――――――――――――――――*




 ゴールデンウィーク明けの尾瀬は、人出も少なく、落ち着いた雰囲気を味わうことができた。


 朝早くに東京のマンションを出発して、関越道を一直線に北北東を目指す。それから山間の街道をひた走り、群馬県側の玄関口である鳩待峠に着いたのが、昼頃。

 閑散とした駐車場に車を置き、リュックを背に山道へと足を踏み入れた。

 初めのうちは林間の登山道を、だが登るのではなく下って行く。道はきれいに整備され、初心者でも気軽に山歩きを楽めるハイキングコースだ。

 木立の間を吹きそよぐ涼風と、名も知らぬ鳥の声。木漏れ日がチラチラと瞼をくすぐる。

 鮮烈な山の空気を堪能しつつ1時間ほどかけて山道を下ると、唐突に木々の連なりが途切れ、目の前に青い空と広大な湿原が姿を現す。

 俺は足を止め、その風景にしばし見惚れた。


 ここに来たのは今回で二度目、前回は大学のサークル合宿でのことだ。あれからもう二十年以上も経っている。

 若く、何も知らなかったあの頃。だが目の前に広がる景色は、記憶の中にある映像とぴたりと合致した。

 ああ、ここは何も変わっていない。

 俺はこんなに変わってしまったのに……。


 大きく息を吸い、それから湿原を縫うように敷かれた木道に、ゆっくりと脚を踏み出す。

 足下には、大きく花開いたミズバショウとモウセンゴケの群生。見渡せば、そちらこちらに丸く茂るヤチヤナギが、緑の野に赤のコントラストを添える。

 空はどこまでも青く、照りつける太陽さえ都会とは違って見えるほどだ。

 ここは何もかもが輝いている。眩しすぎて、涙が出そうだ。


「こんにちはー」


 反対側から歩いてきたハイカーが、挨拶をくれた。


「こんにちは」


 俺は顔を伏せ、呟くように、それでも精一杯の声を返した。

 その後は出会う人もなく、黙々と木道を歩き続ける。見晴の山小屋に着く頃には、もう陽が傾きかけていた。


~*~*~*~


 翌朝早く、俺は山小屋を後にした。

 湿原を横目に見ながら北へ、山中へと向かう。目指すは尾瀬の源流、三条の滝だ。

 深い森の中にも、木道がきれいに敷かれている。おかげで足元に不安はないが、それでも延々と続く長い上り坂は、長い都会暮らしで鈍った体には、相当にこたえる。


 大学を出て、大手建設会社に就職し一心不乱に働き続けた二十年。

 本当に長かった。

 結婚出来なかったのが会社のせいだとは言わない。それは俺の責任だ。

 だが、生活の全てを仕事に費やし、人生をかけて会社に尽くしてきたというのに。たった一度の事故、それも俺がやった訳でもないのに、現場責任者だというただそれだけの理由で全ての責任を押し付けられ、釈明一つ許されず馘首になった。

 結局、俺の二十年は何の価値もない無駄な時間だった。だったら何も知らなかったあの頃、あの場所に戻って、全部なかったことにしてしまおう。


 やがて、腹の底に響く低い騒音が聞こえて来た。

 さあ、もうすぐだ。一歩ずつ、ゆっくりと木道を踏みしめる。進むにつれて騒音は次第に大きくなり、やがて鳥の声も風の音も打ち消し都会の喧騒にも勝る轟音へと変わったころ、俺は崖の上に張り出した展望台へとたどり着いた。

 ああ、やはり何も変わっていない。

 目の前を、毎秒何十tもの水が落差100mの崖を一気に落ち込んでいく。その圧倒的な光景は、二十年前に見た景色そのままだ。


 それから俺は少し戻って藪の中に分け入り、滝の頂上へと達した。

 岩の上から身を乗り出し、崖下を見降ろす。滝壺は水飛沫で白く霞み、間近を通り過ぎる落水の行きつく先を目視することはできない。

 まるで別世界への入り口のようだ。


 そうだ。俺は今から、別の世界へ旅立つ。


 岩の上に座り込んでリュックを下ろし、靴を脱いだ。濡れた靴下の感触が不快だったので、それも脱ぎ捨て素足になる。

 立ち上がると、今度は体中に同じような不快感が走った。神経が昂っているのか、それとも臆病風に吹かれたのか、下着のベタつきがどうにも耐え難い。

 ちくしょう、と俺は小さく吐き捨てながら、衣服を全部脱ぎ捨てた。


 俺は全裸で崖の上に立った。

 ふたたび眼下を覗き、息を飲む。緊張と、肌に直接当たる水滴と風の冷たさに、思わず全身に震えが走る。

 同時に俺を襲ったのは、恐怖でも後悔でもなく、猛烈な尿意だった。

 まさか、こんな時に!

 いや、これはむしろ正常な生理現象だ。寒さと緊張に体が反応したに過ぎない。

 とはいえどうしよう、後ろの藪の中で。

 いや……。


 俺は眼前の滝をしっかりと見据えながら岩の上で仁王立ちをし、そのまま谷底へ向かって放尿を開始した。

 大瀑布とは較ぶべくもない貧弱な水流は、崖下へ達することなく途中で霧となり、滝壺から湧き上がる水煙と一体となって谷間を渡り下流へと流れて行く。

 俺はその様子を見ながら、大声で笑った。


 どうだ、これが俺だ! ざまあみろ! ざまあみろ!


 誰に向けたのでも、何に対してでもない。俺は崖の上から小便を放ちながら、腹の底から笑い続けた。

 ああ馬鹿馬鹿しい。

 でも爽快だ、こんな爽快な気分は初めて……。いや違う、初めてではなく二十年ぶりだ。

 そうだ、俺の二十年は無駄だった。

 だったらそんなものは無かったことにして、またここから始めればいいじゃないか。


~*~*~*~


 帰りの木道で、年配の夫婦者らしきハイカーとすれ違った。


「こんにちは」「こんにちはー」


「こんにちはっ!」


 二人は俺の大声に一瞬目を丸くし、それから「お気をつけてー」と笑いながら去って行った。

 さあ、道はまだまだ長い。しっかりと足を踏みしめて、歩いて行こう。



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