第13話 ファーストドライブ
そこにいない人を、すぐ傍に感じることができる。それは、幸せなことなのかもしれない。
―――――――――――――――――――――*
父が亡くなって、一週間が経った。
何日も続いた葬儀もようやく一段落し、今日は弔問に訪れる人もない。
母と二人だけの、久しぶりの静かな休日。ほっとすると同時に、慌ただしさに紛れていた悲しみが体の奥からジワジワと滲み出してくる、そんな日曜日の午後だった。
「そろそろ、遺品の整理とか始めた方がいいんじゃない?」
以前より少しだけ広くなってしまったリビングで、母の湯呑にお茶を注ぎながら声を掛ける。
「そうね」
母は仄かに立ちのぼる湯気を見つめたまま、言葉少なに答える。
「慌てることもないし、ゆっくりやるわ」
「うん」
私も一言だけ。
俯いたままの母から視線を外し、窓の外を見ると、カーポートにポツンと佇む一台のスポーツカーが目に入った。
「あの車も処分するの?」
私の言葉に、母も顔を上げて庭に目をやる。
「だって、もう乗る人がいないもん」
「BMWの……、何だっけ?」
「さあ? 何だっけ」
仕事人間の父が、50歳の誕生日に自分への御褒美だと言って買った、真っ赤なオープンカー。
納車直前まで母にも内緒だったというあの車が初めて我が家に来た時、私と母はそのスパイ映画にでも出てきそうなフォルムと、これまで目にしたことのない、子供みたいにはしゃぎまくる父の姿に、怒りを通り越して呆れ果てた。
「まあ、好きにすればいいんじゃないの?」
車に興味のない私達には、あんな派手な外車のどこが良いのかさっぱり判らない。
「理解できないものは否定もできないわ」と、母が溜息と共に漏らした一言のおかげで、父は家庭内裁判を免れた。
その事実を、果たして本人は知っていたのだろうか。
それからというもの、父は休日の度にこの不似合いな車でドライブに出かけて行った。イヤよ恥ずかしいと文句を言いながらも、どこか嬉しそうな母を連れて。
そっか、もうあの背中を見送ることはないんだな……。
思い出に浸っているのだろうか、母もじっとその車を見つめている。
「処分しちゃうなら、最後に一回だけ運転してみようかな」
「うん……」
~*~*~*~
「Z4だ」
乗り込もうとしたら、唐突に母が言った。
「え?」
「そうだ、Z4だよ。ほらここに書いてある」
「あっ、ホントだ」
ボディの後部に、銀色に輝く『Z4』の文字。こんなに大きく書いてあるのに、今まで気付きもしなかった。
母と違って、私はほんの数回くらいしか同乗したことがない。
理由は単純、イヤだから。
なにしろこの車ときたら、信じられないほど乗り心地が悪い。初めて助手席に乗った時には、あまりの轟音と振動に5分で降りたくなった程だ。
赤色なのは、まあいい。オジサンには不釣り合いでも私はまだなんとか我慢できる。
でもオープンなんて無理、周りの視線に耐えられる自信がない。
父に開けていいかと聞かれた時も「絶対やめて」と本気で睨んだ。
そんな、私にはちっとも魅力的でない車の初めての運転席に座った感想は……。
「低過ぎて前が全然見えなーい」
「シートを上げればいいじゃない」
母は簡単に言うが、目一杯上げても大して変わらない。
エンジンを掛けたらいきなりドウンッ! と爆音が響いて、心臓が止まるかと思った。
ボンネットが長すぎて感覚が掴めない。ハンドルは重い。アクセル固い。なのにブレーキだけはちょっと踏んだだけでガツンとくる。
「なにこれ運転し辛い!」
「うん、お父さんも慣れるのに半年かかったって言ってた」
「ええーっ」
門までのたった5メートルをやっとのことで辿り着き、道路に出ようとしたらワイパーが動いた。
「えっ、えっ?」
「あはは、それお父さんもよくやってたよ。外車はウィンカーとワイパーが逆なの」
「先に言ってよ!」
それでも何とか路上に出て、バイパスへと向かう。
ノロノロ運転のはずなのに、車高が低いせいか地面がグングン迫って来てスピード感がハンパない。まるでレーシングカーに乗っているような気分だ。
「怖い怖い怖い怖い……」
「運転しながらブツブツ言うのはやめて。で、どこ行くの?」
「わかんない。車に聞いて」
私はハンドルにしがみつくのが精一杯。
「ねえ」
「何?」
「屋根開けてよ」
「どうやって!」
「その辺のボタンで」
「その辺って。走りながら開けたりして大丈夫なの?」
「お父さんはちゃんと停めてやってたよ」
「だからそういう事は先に言って!」
運よく、通り沿いにコンビニがあった。
駐車場の隅に停めて、思わずホッと一息。それから、それらしい絵が描いてあるボタンを恐る恐る押してみる。
バコッ! と音を立てて屋根が外れた時には、思わず悲鳴が漏れた。けど……。
「わあっ……」
ものすごい解放感だ。晴れ渡る空に日差しが眩しい。
駐車場を後にし、再び路上へと戻る。
意を決してスピードを上げると、風が一気に車内へと流れ込んで来た。
吹き抜ける風の音とお腹の中まで響くエンジン音のハーモニーが、不思議な心地良さを奏でる。
なんだろう、このずっと聞いていたいような、ずっと昔から聞いていたような安らぎと懐かしさ……。
そうか……、お父さんの声だ。
いつしか母も黙り込んで、じっと前を見つめている。
チラリと覗いたその横顔が少し幸せそうに見えたのは、気のせいだろうか。
「ねえ、お母さん?」
「何?」
「この車……。私、貰っていいかな」
「……うん」
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