第9話 魔杯の神様と不死身になった男 #1
ごく平凡なサラリーマンが、ある日、魔神の力で不死身の肉体を手に入れた。
のだけれど……。
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#1
どうしてそう感じたのか、俺自身にも判らない。
会社からの帰り道、通り沿いのアンティークショップのウィンドウに並んでいたそいつを見た瞬間、どういうわけか気になって仕方なくなってしまったのだ。
毎日通っている道なのに、今までそこにそんなものが置いてあることも、この場所にこんな店があったことすらも、気付いていなかったのに。
でも何故か今日に限って、そこに目が行ってしまったのだ。
それは、薄汚れた金属製のタンブラー。
いったい何で出来ているのだろう。灰褐色の鈍い光を放つそれは、銅製のようにも、真鍮製のようにも、あるいはそのどちらでもないようにも見えた。
大きさはどちらかというと小振りで、片手で持つのにちょうどいいくらい。コンビニカフェのSサイズよりもやや大きめといった程度か。
中東あたりから渡って来たものなのだろうか。全体に施された唐草模様のレリーフは異国情緒豊かで、上品でありながらそこはかとない力強さを感じる。
年代物らしく、それなりに錆は出ているが、汚らしさは感じない。
これで酒を飲んだら美味いだろうな。
でも、値段が……。
8万円か。困ったな、金を持って……いるんだよな。
実は、もうすぐ俺の誕生日が来る。今年は自分への御褒美ということで、ゴルフクラブを買うつもりで金を用意してあったのだ。
僅かな間だけでもリッチな気分を味わおうと、財布に入れていたのが間違いだった。
うーん。ドライバーとタンブラー、どちらを取るべきか。俺はショーウィンドウの前に立って、中をじっと覗き込みながら、腕組みして考え込んでしまった。
そして考えながら、こんな下らないことに悩んでいる自分自身に呆れ返っていた。
冷静になれ、俺。以前からずっと欲しかったクラブと、初めて見るこんな小汚いカップを較べる方がどうかしているじゃないか。
それなのに、気付いた時にはもう、レジの前で財布を取り出していた。
30代後半、妻子あり。年収600万。中肉中背。
これと言って取柄のない平凡なサラリーマンだ。
これまで歩んで来た人生の中で一番の自慢といえば、高校時代に入っていたサッカー部が地区大会で優勝した時に、決勝ゴールを自分が決めたこと。
あとは、そうだな。今年10歳になる一人娘の結衣が、世界一可愛いことだ。
そんな特に裕福でもない小市民の俺が、こんな高価なものを衝動買いしてしまうなんて。
~*~*~
「あーあ、買っちまった」
帰宅後、妻と娘が寝静まった後に自室に籠って、バッグから問題のブツを取り出した。
改めて手にしてみると、見た目よりも重量感があって、ずっしりとした重みを感じる。大きさも俺の手にはちょうど良く、表面に刻まれたレリーフの凹凸の感触も相まって、持っているだけで掌に心地いい。
うん、後悔しそうになっていたけど、これは案外いい買い物だったかもしれないな。
などと両手でその手触りを楽しみながら、タンブラーをしげしげと眺めた。
でもよく見ると、けっこう汚れているな。よし、洗ってやるか。
台所に行き、中性洗剤を付けてスポンジで磨く。
あまり乱暴に擦ると、傷がついてしまいそうだ。丁寧に丁寧に、レリーフの溝の部分にこびり付いている汚れも、スポンジの角を使って優しく擦り取っていく。
そうやって磨き上げると、煤けた感じが大分薄れて、透明感のある、というよりも何やら神秘的な輝きを放ち始めたように見えてきた。
へえ、なかなか良いじゃん。よーし、これなら。
俺は部屋に戻り、棚からウィスキーの瓶を取り出した。
ただの酒ではない、この酒は10年ほど前にとある酒屋で見つけた、30年物のアイリッシュだ。
1本3万円という価格は、希少性を考えれば今でも良心的だったとは思うが、かといって妻に正直に言えるような金額ではない。それに自分でも、買ったはいいが今日に至るまでこれを飲む勇気が出なかったくらいだ。
だがついに、このボトルの封を切る時が来た。
机の引出しの中から、ラジオペンチを取り出す。瓶の口には、黒い箔の封印の上から更に細い針金で封が施されているのだ。
さすが高い酒は違うと、感動もひとしお。震える手でペンチを操り、固く結ばれた鋼線を切る。
あまり乱暴にすると瓶を傷つけてしまいそうな気がしたので、ペンチを置き、その後は素手で毟り取った。
でも、やはり気が逸っていたのだろう、尖った切り口で指先を刺してしまった。
「痛てっ! くそ……」
傷ついた人差し指を立てた格好でコルクを抜く。覗き込むように顔を近づけると、えも言われぬ芳香が鼻の奥をくすぐるように漂ってきた。
思わず頬を緩めながら、机の上に置いたタンブラーの中に、トク……トク……トク……とゆっくり注ぎ込んで行く。目分量で、ツーフィンガーくらい。
と、そこにポタリと赤い雫が落ちた。
「あっ!」
なんということだ、指の傷から血がたれてしまった。
「あーあ、せっかくの高い酒が」
俺は指先をしゃぶりながら、左手でボトルを置いた。
まあ、やってしまったものは仕方がない。どうせ自分の血だし、もったいないから珍しいカクテルだと思って味わってしまおう。
『そうじゃ。血酒の味は格別じゃぞ』
その時、どこからか声が聞こえた。
「えっ?」
テレビ? なわけないか。
『なわけ、ないであるぞ』
「ええっ!」
だ、誰だ。どこにいる……。
『ここじゃ、ここじゃ』
「ここって……」
それは、俺のすぐ目の前だった。
「な、なんだこれ……」
いつの間に現れたのか、机の上に小さな人形が立っていた。
『人形などではない、我は、神なり』
「神様?」
んな馬鹿な。
『馬鹿とはなんじゃ、無礼な奴め』
て、まさか。もしかして俺の心を読んでいるのか?
『そういうことじゃ。なにしろ我はこの国の言葉なぞ知らぬによって、貴様の心を直接読まねば話もできぬ』
体長20cmほどのその人形は、神様というよりも、アラジンと魔法のランプに出てくる魔神のような恰好をしていた。
いや、言われてみれば確かに人形にしてはリアルすぎる。随分と年寄りで貧相な感じだが、この中東っぽい服装は、もしかして……。
『その通り、この杯を依り代としておるのじゃ』
「やっぱり」
『こうして姿を現すのは、何百年ぶりのことであろうかのう。いやあ、暇じゃった』
魔神様は、そう言いながら両手を上げて伸びをした。なんだろう、随分と軽いな。
「何百年ぶりって、どうしてまた今頃になってお出になったんです?」
とりあえず、話しかけてみる。
神様なんてそう簡単に信じられるものではないが、こうして目の前に出て来られてしまった以上は、むやみに否定するわけにもいかない。
なぜなら、こいつの存在を否定したら、同時に俺の正気まで否定しなければならなくなってしまうからだ。
『どうしてとは? たった今契約したばかりではないか』
「契約?」
『そうじゃ。我を求める者は、極上の酒と己の血をこの杯に捧げなければならぬ。それによって我は現世に姿を現し、その者に力を与えるのじゃ』
極上の酒と、己の血……。そうか、そういうことか。
やらかしたーっ!
『ところで貴様、名はなんと申す』
「はあ、田伏洋太と言います」
『洋太か、うむ。
洋太よ、喜ぶが良いぞ。貴様が得たのは、望む物を何でも手に入れられる力じゃ。ただし』
「はい、もう結構です。そんな力なんかいりません」
俺は手を挙げて、次の言葉を遮った。
魔神と契約だなんて、嫌な予感しかしない。ここできっぱり断っておかないと、どうせロクでもないことになるに決まっている。
『なっ、何を言うか! 貴様、この力を使えば世界を己が物にすることも不可能ではないのじゃぞ!』
「えー、だって力を与える代わりに魂をよこせとか言うんでしょ?
俺は今が一番幸せなんです。世界なんて、欲しくもない物のために魂を差し出すなんて、割に合わない」
俺には、愛する妻と娘がいる。それに25年ローン付きの建売とはいえ、狭いながらも庭と自分専用の個室まである一戸建てを手に入れているのだ。
既に男の夢を達成したこの俺に、これ以上の幸せなんか、世界のどこにだってあるはずがない。
『勘違いをするでない。魂はいただくが、世界を与えるのに貴様一人の魂程度で足りるわけがなかろう。いただくのは他の命じゃ』
「どういうこと?」
『つまり、貴様が他者の命を奪って、我に捧げるのじゃ』
えーっ?!
「ちょっと待って。じゃあ、俺に人殺しをしろと?」
『その通り。その対価として儂が貴様に与えるのは、不死身の体じゃ』
「不死身?! てててことは、不老不死?!」
ちょっとこれは、凄すぎるけど……。
『いや。我は戦の神、寿命までは操れぬ。我が与えることができるのは、どれほど傷ついても死なぬ天下無敵の肉体のみじゃ』
え? 不老不死じゃなくて、ただ頑丈なだけ?
「なんだつまんない。そんなものが、何の役に立つのさ」
『何を言う。戦場においてこれ以上のものがあると思うのか。
良いか、不死身の貴様を害することができる者などどこにもおらぬ。対して貴様は敵を屠り放題じゃ。屠れば屠るほど、その魂が貴様の力となるのじゃぞ。
すなわち、貴様こそ天下唯一の無敵の戦士! どうじゃ、素晴らしかろうが』
「いや、そもそも戦わないし」
『なんじゃと?』
「あのね、現代の日本に戦場なんかないの」
『なければ作ればよかろう。
男に生まれた以上、天下を求めずしてなんとする。我が力を貸してやるがゆえ、遠慮せず殺して殺して殺しまくるがよいぞ』
「ふざけんな、この悪魔め」
『貴様! 言うに事欠いて、神たるこの我に向かって悪魔とは何事じゃ?!』
ああ、うん。言ってから気付いた、さすがにこれは失礼だったか。
『あんな小物と一緒にするでない! 我の方がずっと大勢殺しておるぞ!』
て、そっちかよ。
「とにかく、俺は人殺しなんかごめんなので」
『そんなこと言わずと。どうじゃ、試しに一人くらい殺ってみぬか? きっと楽しいぞ?』
んなわけあるか。
あーあ、なんか神様とかどうでも良くなってきたな。もはや敬語を使う気にもならないや。
「ねえ、どうしてそんなに俺に人殺しをさせようとすんの?」
『我の食糧じゃから』
「はい?」
『じゃから、我は人の魂を喰ろうて生きておるのじゃよ。それがないと、生きてはおられぬ』
「やっぱり悪魔じゃねえか」
『悪魔はやめい、気分が悪いわ。魔神くらいならまだ我慢できるが』
妙なこだわりだな、まあいいけど。
『だいいち、貴様ら人間にそこを責められるいわれはないぞ。貴様らとて、他の生き物の命を喰ろうて生きておるではないか。
我にとっては人も獣も変わらぬ。すなわちこれ、自然の摂理なり』
うーん、ちょっと納得。でもなあ……。
「食わなかったら、どうなっちゃうの?」
『餓えて、しまいには消えてしまう。
ほれ、見てみよ。もう数百年もの間一人の命も喰ろうておらぬゆえ、こんなに小さくなってしもうた』
「じゃあもう、そのまま消えちゃってよ」
『そんな、殺生な!』
いや、あんたさっきからずっと、俺に殺生しろって勧めてただろ。
『こんな小さな体では、貴様に与える命もせいぜい1回分くらいにしかならぬ』
「1回分って、つまり1回死んでも生き返るってこと?」
『まあ、そんな感じ。腕をもがれようが、首を落とされようが、あっという間に元通りじゃ。どうじゃ、お得じゃろ?』
言い方が軽いな。
『ちなみに、貴様にはもう不死の力を与えておる』
「えっ!」
『すでに血酒による契約は成立しておるでな。いやあ、それにしても先程いただいた酒は格別じゃった。あんな美味い酒は初めてじゃ』
そりゃそうだろ、なにしろ3万円もしたんだから。と、タンブラーの中を覗くと。
「あっ、空っぽ!」
『うむ、美味しくいただいたぞ。ではもう一杯、替わりを頼む』
「ふざけんな! 俺が10年も我慢していた酒を先に飲みやがって! 誰がお前なんかにやるか!」
俺はそう言いながら瓶を取り、直接口を付けてラッパ飲みした。
「う、うめえ……」
口の中一杯に広がる、かつて経験したことのない芳醇な香り。これが、30年プラス10年の味か。
『ええのう、ええのう、我も欲しいのう』
「やかましい、お前なんかこれで充分だ」
俺は棚から、いつも飲んでいる1本960円の安ウイスキーを取り、タンブラーに注いでやった。
『ほほう、これはこれでなかなか……。うむ、悪くない』
気に入ったのか。安上がりな神様でよかった。
タンブラーを覗くと、酒が杯に浸み込んでいくように見る見る減っていく。なるほど、確かに飲んでいるな。
『ういー、ええ心地じゃ。久しぶりの酒は効くのう』
ストレートだしな。水割りにでもしてやった方が良かったかな。
「気に入ってもらえたなら良かった。どうだ、もう一杯いくか?」
『……』
返事がない。って! 寝てるし!
「弱っ! こいつ、神様のくせに酒弱っ!」
いや、神様だからって酒に強くなくてはならない決まりはないけど。
「おーい」
と声をかけるも、その体は次第に薄れていき、ついには消えてしまった。
なんなの、こいつ。
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