第6話 ラブレター


父親とは、愛する娘の為なら何があっても頑張ってしまう生き物なのです。


―――――――――――――――――――――*




 生まれたばかりの娘の顔を初めて見た時、何故か(ああ、この子は大丈夫だ)と思った。

 どうしてそう思ったのか、自分でも分からない。

 ただ一目見た瞬間に、(大丈夫、この子は何があっても自分でちゃんと幸せになれる子だ)という想いが、唐突に自分の中に湧き上がって来たのだ。

 そしてホッとすると同時に、実は自分がこの数か月間、無自覚な不安と共に過ごしてきたのだということに初めて気づき、心の中で苦笑した。


 そうだな。この子自身は大丈夫でも、周りの環境がそれを許さないかもしれない。

 安心するには早すぎる。俺の役目は、そんなことにならないようにこの子を真っ直ぐ真っ直ぐ育てることだ。もしこもの子の人生が曲がってしまったら、それは全部俺のせいだ。

 後になって、こんなはずじゃなかったなんて、絶対に言うもんか。

 そう、心に誓った。


~*~*~*~


 それからの生活は、娘が全てだった。

 真っ直ぐ育つために一番大切なこと。枝葉なんかじゃない、幹でもない。肝心なのは根っこだ。根っこさえしっかりしていれば、どんな嵐が来ても大丈夫。

 そういう育て方をしようと、妻にも相談した。

 妻もこれには完全同意だった。とにかく細かいことは気にしない、99褒めて1叱る、良いものは良い悪いものは悪いと、それだけを教えようということになった。


 その甲斐あってか、娘は本当にまっすぐに育った。

 小学校に上がっても、元気いっぱい。素直で朗らかで、どうだこれが俺の娘だぞと、世界中に自慢したくなるような子だった。

 実際、友達に自慢してみたら「はっはっは。そうやって仲良くしていられるのもせいぜい4年生までだぞ」と笑われた。その時は「冗談じゃない、6年生までは頑張るぞ」と即座に言い返したものだ。

 その宣言は、きっちり守った。そう、6年生までは。


~*~*~*~


 娘は、中学に入るとほぼ時期を同じくして、俺と口をきかなくなった。

 まあ、そういう時期だから。この程度のことは前々から覚悟していたから。大丈夫大丈夫、ほら妻とは普通に会話しているし、こんなの反抗期の内にも入らないよ。

 別に嫌われている訳じゃないのは分かっている。側に寄っても嫌がられることはないし、何かを言えばちゃんと聞いてくれる。ただ、話してくれないだけだ。

 大丈夫、ちゃんと真っ直ぐ育っている。

 と、俺は自分に毎日言い聞かせた。

 だがそれから卒業までの3年間、娘と会話した記憶は、俺の中にはない。


~*~*~*~


 小さな変化が訪れたのは、高校に入った頃。スマホを買い与えたのがきっかけだった。

 休日のある日、俺のスマホに一通のメールが入った。

『大雨すごくて帰れない。駅まで迎えに来て』

 俺はすぐに返信した。『了解』と。

 その日から、娘から度々メールが入るようになった。内容はどうということもない、他愛ないものばかりだ。

 驚いたことに、メールの中の娘は饒舌だった。

 学校のこと、友達のこと、部活のこと。はっきり言ってどうでもいいようなことを、毎日毎日つらつらと書いては送りつけてくる。

 どういう心境の変化なのか。俺は戸惑いつつも娘から届く日記のような報告を楽しみにしていた。

 それに対する俺の返事はほぼ『へー』『ふーん』『了解』という単語だけだった。


 そんなある日、夕食後にテレビを見ていたら、ポケットの中で着信音が鳴った。

 見ると、隣に座っている娘からだ。内容は今見ているお笑い番組についてのこと。

 おいおいいい加減にしろよと娘の方を見ると、娘はスマホを手にしたままチラとこっちを見ただけで知らんぷりをしている。だが、その眼が笑っているのを俺は見逃さなかった。

 よーし、そっちがそのつもりなら。

 俺はさっそく返信を打った。単語ではなく、番組へのツッコミ満載の長文を。

 娘がそれを読んで「プッ」と吹き出した。だが意地でも声は出したくないらしく、口を押えて笑いを堪えている。

 俺はそれを横目で見ながら、ザマアミロと心の中で舌を出した。

 その日を境に、俺のメールはお笑いたっぷりの長文へと変貌した。あの時の娘の笑い顔が忘れられなくて、あいつを如何に笑わせ楽しませるかというしか考えられなくなってしまったのだ。


To 父 From 娘

『担任うざい』

To 娘 From父

『そんな事を言っちゃいけないな。先生とのコミュニケーションがちゃんと取れないのは良くないぞ。

 授業でわからない所を質問してみるとか、自分からコミュニケーションをとってみたらどうだ?

 俺なんか、学生時代には先生を質問攻めにしてこっちがウザがられるほどだったぞ。

 「奥さんとはどこで知り合ったんですか?」とか。

 「最初のキスはどうでしたか?」とか。

 「プロポーズの言葉は?」とか。 』


 結局、高校の3年間も娘は一言も口をきかなかった。それどころか、俺の方から話しかけることさえなくなってしまっていた。会話は全てメールだ。


 娘は大学生になり、上京した。

 でも、特に寂しさは感じなかった。俺達の文通(文通と言って良いのか?)はその後もずっと続いていたからだ。


To 父 From 娘

『今日、ゼミのコンパだったよ。

 居酒屋に初めて行った。あ、お酒は飲んでないからね。つまみとか料理とか色々あってちょー美味しかった。

 居酒屋楽しい。また行きたい』

To 娘 From父

『居酒屋楽しいよねー。今度家に帰ってきたら、パパが連れてってあげるよ。

 駅前にたくさんあるから、よりどりみどり赤信号だよー』

To 父 From 娘

『オヤジギャグは許すけど、パパはやめろ。キショい』


 俺は幸せだった。

 あの日が来るまでは……。


~*~*~*~


 その日、仕事から帰ると、何故か玄関に娘の靴があった。

 あれ? 今日は何かあったっけ。メールでも特に何も言ってなかったよな。

 まあいいや、久しぶりにあいつの顔が見られる。

 と、少しウキウキしながらリビングへ入ると、そこで俺を待っていたのは、床に額を擦り付けるようにして土下座をしている、娘の姿だった。

 えっ……?


「お父さん、ごめんなさい!」


 娘が叫ぶ。顔を上げたその目は、涙で真っ赤に染まっていた。

 その声に、俺は言葉を失った。

 数年ぶりに耳にする、俺に向けた娘の肉声。それが、「ごめんなさい」だと?!


 右手から鞄が滑り落ちる。全身から力が抜け、膝がガクガクと震えだした。

 いったい何があったんだ。いやだ、いやだ、娘のこんな顔は見たくない。こんな言葉を聞くために、俺は何年も我慢していたんじゃない。

 いや違う! そんなことを気にしている場合か!

 目の前で娘が泣いている。ならば、俺のやることは一つじゃないか。


 俺は娘の肩を掴むと、「どうした、何があった。大丈夫だ心配するな。俺がちゃんとしてやるから」と声を掛けた。

「ありがとう、お父さん」

 そうだ、娘のためなら俺はなんでもする。人生の全てだってくれてやる!


 それから娘は、話し始めた。

 その内容は、だが俺の想像をはるかに超えるものだった。


 実は、娘は俺とのメールのやりとりを、某小説投稿サイトにずっと投稿していたというのだ。

 しかもそれが評判になり、大人気作品になっているという。

 慌ててそのサイトを見せて貰ったら、娘の言う通り沢山のコメントが寄せられている。それも『お父さん最高』『面白い』『こんなお父さんが欲しい』と、ほとんどが俺に対する賞賛の声だった。

 そりゃそうだろう。だって俺のメールは娘を楽しませる為に考え抜いて打ったものばかりだ。一つひとつが俺の自信作と言っても過言じゃない。

 でも、だからって、それを他人様に見せるなんて。


「お前なあ」

「ごめんなさい」


 また、ごめんなさいだ。

 俺は溜息をつきながら、まあいいかと心の中で独り言ちた。

 つまりこれは、こいつを楽しませようと俺が書いたものを、こいつは存分に楽しんでくれたってことだ。だったら本望じゃないか。

 そう笑いかけようとした俺に、娘はもう一度「ごめんない」と言った。

 一冊の本を差し出しながら。


「え?」

「実は、出版されることになってしまいました。これがその見本版です」


 顔から血の気が引いた。まさか、いくらなんでも……。


 娘が涙ながらに「ごめんなさい」と言った本当の理由が、実はこれだった。

 小説サイトで評判になったのが出版社の目にとまり、オファーが来たのが半年前だそうだ。

 それからあれよあれよという間に話が進んでしまい、見本版が出来上がって来たのが、今日のこと。

 そして出版社の人からこの見本を手渡されながら「お父さんは何とおっしゃってましたか?」と聞かれて初めて、この俺に一言も相談していなかったことに気づき、慌てて家に帰って来た。

 というのが事の真相だった。


「何でもっと早く言わなかったんだよ!」

「だって、そんなことをしたら、メールの内容がそればっかりになっちゃうじゃん。連載が止まっちゃうもん」


 えっと、つまりそれはプライベートよりも仕事を優先させたってことなのかな。と妙に納得してしまう社会人な俺だった。


~*~*~*~


 そして今、俺の眼の前にその本がある。

 頁をめくると、俺と娘の数年間に及ぶやり取りがすべて、赤裸々に書き出されている。

 なんだろうな。自分の書いたものなのに、活字になると知らない他人が書いたもののように見えてしまう。

 そして他人の目で読んでみて、初めて気づく事がある。

 自分ではずっとただのお笑い文のつもりでいたけれど……。


 なんだこいつ、こんな恥ずかしい文章を照れもなく書きやがって。こんなの、どう読んでもラブレターじゃねえか。いい歳して頭おかしいんじゃねえか?

 って、俺だよ俺。何なんだこの羞恥プレイは。


 俺は頭を抱える。

 来週には、これが全国の書店に並ぶのだ。

 参った。いくら娘のためとはいえ、こんな歳になって、自分が数年にわたって書き連ねたラブレターを全国に公開しなきゃならないだなんて。


 うん、娘はちゃんと自分で幸せになった。俺は娘のために自分の人生をくれてやると言った。全て予定通りだ。

 でも……。


 こんなはずじゃなかった。

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