第5話 炬燵と安酒と優柔不断な3人男女の不確定な未来の話

 ご都合主義な最先端科学へのアンチテーゼ


―――――――――――――――――――――*



「人間原理ってあるじゃん?」


 野田五朗は、何本目かの発泡酒の缶をプシュッと空けながら、炬燵の向かい側に座る西郷秀樹に言った。


「ああ、あるな」


 西郷も同じく、発泡酒をあおりながら答える。


 12月24日、言わずと知れたクリスマスイヴの夜。安アパートの一室で、二人の貧乏学生による酒盛りが行われていた。


 炬燵の天板の上には、発泡酒と缶チューハイにさきいかやらポテチやらの渇きものが数種類、いかにもコンビニで買い揃えましたという風情の宴会セットが並んでいる。

 二人の格好も、片やボサボサ頭にフリースの部屋着と、もう一方も丸々と太った体にヨレヨレのジャージスタイル。

 それらの安っぽさに加えて、酒やつまみの中央にでんと置かれたフライドチキン2本とサンタのマスコットが、男二人きりの侘しさを更に演出していた。


「あれは要するに、この宇宙は人間に都合がいいように出来上がっているってことだよな」

「だな」

「俺はその理論自体が、随分と自分に都合のいい屁理屈だと思うんだ」

「うん」


 擦り切れた畳の上には、既に数本の空き缶が転がっている。

 人間原理などという壮大なテーマを論じている風に見えるが、二人は別に理系の学生ではない。

 野田は商学部、西郷は文学部のどちらも2年生だ。

 つまりはただの酔っぱらいの戯言。何かの本で得た知識を酒の肴にしているだけなのだった。


 野田の熱弁に、西郷はいつものように、ただうんうんと頷くのみだ。

 でも興味がないのではなく、ここから話がどこまで脱線していくのかと、楽しんで聞いている。


「つまりだ、そんなに世の中が都合よくできているなら、何でクリスマスなんてものがあるんだって話だよ」

「ぶはっ。おま、それを言うかよ」


 いきなりの大脱線だった。


「いいか、壁一枚隔てた向こう側にはクリスマスがある。男も女も浮かれ切って、イチャイチャベタベタと不埒な成分を排出している。そこは俺達には住み辛い世界だ。

 そして壁のこちら側には、そんな成分は存在しない。ということはだ、この部屋の中こそが俺達の宇宙ってことだ」

「宇宙は狭いな」

「うん」


 野田は西郷の言葉に素直に「うん」と答え、発泡酒をグビグビと飲んだ。


「で、だ」


 コン、と音を立てて缶を置きながら。


「うん」


「壁一枚の向こう側にいかなる宇宙が広がっているのか、今の俺達にそれを正確に知る術はない」

「玄関のドアを開ければ解るぞ」

「違う。それで解るのは、ドアを開けた後の世界だ。開ける前の世界を知ることはできない。

 何故なら、ドアを開けるまでは世界がどのようなものかは決まっていないからだ」

「あ、それ知ってる。シュレーナントカの猫だ。猫をガスで殺すやつ」

「そう、シュレナントカだ。世界は観測することによって確定する。観測されるまでは、世界は何も決まらないのだ」


「なんかご都合主義的だよな。自分が知らないからって決まっていないなんて、人間原理もそうだけど、最先端の科学は自己中過ぎる」

「でも、現在が全てが決まっているとしたら、未来も既に決まっているってことだぞ」

「それも面白くないな」

「だろ? 現在が決まっていないのだから、未来だって決まらない。

 ドアの外どころか、地球の裏側にいるカップルが今宵エッチをするかどうかも、俺が観測するまでは決まっていないということだ」


「いや、エッチはするだろ。カップルなら」

「何故そう言い切れる」

「カップルだから」

「カップルだからエッチするのか?」

「うん」

「それは猫が死んでいると言い切るのと同じことだぞ」

「いや違うだろ」

「お前は酷い奴だな。そんなに猫を殺したいのか」


 段々と言っていることがおかしくなってきた。大分出来上がってきたようだ。

 それほど酒に強くない野田が、飲むと訳のわからないことをしゃべり出すのは毎度の事なので驚きはしないが、今日はいつも以上のハイペースで発泡酒やチューハイを空けているのを、西郷は見ていた。

 そしてその理由も、よく分かっている。


「ふう」


 と、西郷は溜息を吐いた。


「地球の裏側のカップルじゃなくて、すずのことが気になるんだろ?」

「む……」


 その一言で、野田は口を噤む。


「お前だって、気になってるくせに」

「そりゃあ……」


 広末すずは、二人とは中学以来の友人だ。

 何故ということもないのだが何故か、妙に気の合うこの3人は中学高校とずっと連れ合ってきた。そのうえ、大学まで一緒だ。

 すずは、明るく物怖じしない性格で、男女を問わず誰とでも気さくに言葉を交わす。だがその反面、恋愛には疎いようで、これまで浮いた話などはまるで聞かれなかった。

 野田と西郷にしても、どちらかがすずと付き合うということもなく、それでも3人がお互いを想う気持ちは、友情と呼ぶに相応しいものだった。


 では。

 この二人は彼女を女として見ていなかったのか。


 そんなことは全くない。

 むしろ彼女を大切に思う気持ちが強すぎて、しかも二人とも互いの気持ちがよく分かっていて、それ故にこそ、牽制なのか自縄自縛なのか自分達でもよく分からない状態に陥っていたというのが真相だ。


 いつかはどうにかなるのかも。

 自分とこいつのどちらがすずと付き合うことになっても、きっと半分は嬉しくて半分は辛いのだろうな。

 そんな想いを胸に秘めながら、この数年間を過ごして来た。

 そこに二人の油断があったのだとしても、それを責めることができる者は少ないだろう。


 すずに男が出来たと知らされた時、二人の脳裏にあったのは、後悔と怒りと、そして諦めと祝福だった。


「だけどさあ、よりによってあの男爵だぜ?」


 野田が、力が抜けたように炬燵の上に突っ伏す。


「それがどうした! 男爵だろうが伯爵だろうが、すずがいいってんならいいんだろ!」


 西郷は西郷で、自然と声が高くなるのを抑えることが出来ない。

 男爵とは、学内でも有名なナンパ男のことだ。

 『男爵』などと大層な名で呼ばれてはいるが、別に華族の家系というわけではなく、ただの綽名だ。要するに、ジャガイモのような風貌なのだ。

 そんな容姿のくせに何故それほどまでにモテるのか。理由は簡単、とにかく女性に対してマメなのだ。

 分かりやすく言えば、女好きのお笑い芸人と同じタイプだ。

 悪い男ではない。気さくで話も上手く、男女問わず誰とでもすぐに仲良くなる。

 その意味では、すずと相通じる部分すらあると言える。


 これでイケメンだったら、周りの男達の嫉妬は相当なものだっただろう。

 だがその憎めない風貌と明るい性格を武器に次々と女性を落としていく実力は、世のモテない男共に『男は顔じゃない』という希望すら抱かせる。

 ある意味、確かにいい男だった。


 だからと言って、自分達の大切な娘がヤリチンの餌食になるのを黙って見ていた訳ではない。

 二人そろって『あいつだけは止めておけ』と何度も忠告はした。

 だが残念なことに、恋する乙女の頭部にはそれを聞く耳が付いていなかった。


「色々と噂があるのは聞いてるけどさあ。でも、あいつだって結構可愛いとこあるんだよ?」


 頬を染めて上目遣いにそんなことを言われると、『俺達が聞いたのは噂じゃなくて、本人の自慢話だ』などという言葉も出し辛くなってしまう。

 そんなことだから駄目なんだよ、と今頃になって自分を責めても後の祭り。

 本日只今、すずはかの男爵様とクリスマスデートの真っ最中なのであった。


「もう9時か。そろそろエッチを始めた頃かな」


 西郷が時計を見て呟く。


「止めろ。殺すぞ」

「諦めろ。猫はもう死んでいる」

「いいや、そんなことはない。観測できない事象は不確定だ」

「つーか、付き合い初めてもう1ヶ月だろ。とっくにやってるっつーの」

「知らん。俺は何も聞いてないからそれも不確定だ」

「あーあ、俺達の未来はどうなるんだろう。教えて、ド〇エモン」


 西郷はそう言ってチキンの隣に立つサンタを摘まみ上げた。


 コン、コン……。とその時、ドアをノックする音が聞こえた。


「ん?」


 コン、コン……、ともう一度。

 六畳一間、家賃3万円の安アパートにチャイムなどという高級なものは付いていない。炬燵に入ったまま振り返れば、そこはもう玄関だ。


「誰だよこんな夜中に。新聞の勧誘だったらブッ飛ばしてやる」

「宅配便じゃねーの? 赤い服着たトナカイ便の」

「それなら許す」


 野田は「よっこいしょーいち」と古すぎるギャグをかましながら立ち上がると、フラフラと玄関の方へ歩いて行った。


「へいへーい。少々おマッチ一本火事の元ーっと」


 もとより鍵など掛けてもいない。ノブを捻りガチャリとドアを開ける。

 次の瞬間、野田は目を丸くして声を洩らした。


「へ……?」

「こんばんは」

「はい、こんばんは」


「秀樹ーっ!」


 玄関から響く野田の声に、西郷は炬燵に突っ伏したままポテチに伸ばしていた手を止めた。


「んな大声出さなくたって聞こえるよー」

「あのさーっ、やっぱ猫は生きてるっぽいぞーっ。

 ドアを開ける前から生きてたのか、ドアを開けた瞬間に生きてることになったのか。俺にはわかんねーや」

「何言ってんだ」


 そして顔を上げた西郷もまた、思わず「にゃーっ」と声を発した。

 ドアの外に立っていたのは、サンタならぬ赤いコートを着たすずだった。


「私にもビール」


 炬燵に入るなり、すずはそこら中に転がっている空き缶をジロリと睨み付けながら、不機嫌そうに言った。


「ビールなんて高級なもんはありません。発泡酒かチューハイならあるけど」

「じゃあチューハイ」

「はい、どうぞお嬢様」


 野田がまだ開けていない缶をひとつ、差し出す。


「冷えてるやつっ!!」


 だがすずはバンッ! バンッ! と炬燵の天板を叩いて大声を上げた。

 西郷が慌てて冷蔵庫に走る。


「早くーっ!」


 バンバンバンッ! と天板を数回叩いた後、今度は口をへの字に結んで窓をじっと睨み付けたまま、動かなくなる。


「お、お待たせしました」


 西郷がおずおずと缶を差し出すと、すずは前を向いたままそれを受け取り、一気に飲み干した。


「ゲプッ」


 ダンッ、と空き缶を天板に叩き付け、再び窓を睨む。


「なんかあった?」

「今日はデートじゃなかったの?」


 二人が恐る恐る声をかけると、すずはそれでも姿勢を変えずに、ボソリと告げた。


「あいつ……。他に女がいた……」


 野田と西郷は顔を見合わせ、それから声を揃えて。


「「だから言ったでしょ!!」」


「うるさい」

「「うるさいじゃねーよ」」

「うるさい、うるさい!」

「「じゃなくて。こっち向けよ」」

「うるさい!うるさい!うるさい! ステレオで言うな! こっち向けって、どっち向けばいいのよ、もおーっ!」


 正面を向いたまま、目に涙を滲ませてすずは喚く。

 その時になって、野田と西郷は漸く気付いた。すずはただ怒って顔を背けているのではなく、恥ずかしくて二人の顔を見られないのだと。


「あーあ」


 野田が浮かしていた腰を下ろし、炬燵の中に足を潜り込ませる。

 西郷も息を吐きながら布団の下に足を突っ込むと、そこにあったすずの膝が触れた。その微かな温もりに何故かホッとして、思わず声を漏らした。


「何をやってんだか」


 すずは黙って次なるチューハイの缶に手を伸ばし、プシュッと空けた。


「それ、冷えてないよ」

「いいよ、別に」


 そしてまたもや一気飲み。


「ゲプッ」


「で、何があったんだ?」


 落ち着いたところで西郷が再び声をかける。


「あいつと食事して、お酒飲んで。で、次の店に行こうって外に出たら、知らない女が立ってた」

「うわ」

「修羅場だ」

「それでその女とあいつがケンカを始めて。私は訳わかんなくてボーッと立ってたら、女が大声あげて泣き出して。いきなり引っぱたかれた」

「「えっ」」

「だから……」

「「だから?」」

「頭にきたから、グーで殴り返した……」

「「……」」


「ねえ。これって、正当防衛だよね?」

「いやいやいや」

「さすがにグーはマズいでしょ」

「何でよ! パーよりグーの方が弱いじゃん!」

「そういう問題では……」

「まあいいや。それから?」

「知らない。後ろ向いて、真っ直ぐここに来た」

「なるほど……」


 野田と西郷は顔を見合わせ、それから発泡酒とチューハイの缶を差し出した。


「「まあ、飲みなよ」」


 すずは、二つを見比べてから今度は発泡酒を手に取り、一気に飲み干した。


「ゲプッ」


「チキン食べる?」

「ポテチもあるよ?」


 二人の男が甲斐甲斐しくご機嫌を取ろうとする。それを見つめる眼から、涙が溢れ出してきた。


「ううー……っ」


 野田と西郷はすずの泣き顔を見ながら、辛いような嬉しいような、複雑な気分に陥っていた。

 まあ本音を語れば、辛さ2に対して嬉しさ8くらいの割合ではあるが。


「あ……、あんたらのせいだからね」

「なんでやねん」


 思わず関西弁になる野田である。


「だってそうでしょ! 私に彼氏ができないのは、あんたとっ! あんたがっ!」


 2人の男を交互に指さし、


「いっつも私の側にいるからでしょっ!」


 発泡酒とチューハイを3杯。いや、その前に既に飲んでいると言っていた。

 赤い顔は泣いているせいではなく、単に酔っぱらっているだけなのかも知れない。


「そりゃまあ……」

「そうかも知れないけど……」

「私だって彼氏欲しいもん! クリスマスは素敵な彼と過ごしたいもん! なのにあんたらのせいで誰も私を誘ってくれなくて!

 声をかけてくれたのは、あいつだけだったんだもんっ!」


 バンバンと炬燵を叩きながら喚き散らす。

 それを言われるとただただ項垂れるしかない、情けない男2人であった。


「この際はっきり訊くけど」


 涙とアルコールで真っ赤に染まった眼で男達を睨む。だが2人は俯いたままだ。


「あんたら、私のこと好きでしょ?」


「「えっ?」」


 思わず顔を上げる。その瞬間に鬼のような視線をモロに見てしまい、上げた顔を引きつらせた。


「えっ? じゃないよ。どうなの?」

「えっと……」

「それは……」

「私はあんたらのこと、好きよ。そっちはどうなの?」


「……す、好きです」

「……お、俺も……好きです」


 再び俯きながら。


「じゃあ、責任取って」

「責任って……」

「どうすれば……」

「どっちでもいいから、私の彼氏になって」


「どっちでもいいって!」

「んないい加減な! どっちかにしろよ!」

「それを私に決めろっていうの?!」

「「俺達に決めろって言うのかよ!!」」


 睨み合う3人。


「おっ、俺は……。すずのことを大切に思っている」


 と、野田。


「お、俺だって。世界で一番すずが好きだ」


 西郷。


「でも……」

「だから……」

「すずの気持ちを一番に考えたい」

「お前の気持ちを無視して、俺達が勝手に決めるなんて……」


「御託はいいのよ。で、どっちが私のヴアアージンを奪ってくれるの?」


 血走った目で、二人をジロリと睨み付ける。

 その言葉にゴクリと唾を飲み込み、視線を交わす野田と西郷。


 扉は開かれ、猫が無事なことはたった今確定した。


 だが果たして、その先の未来は……。


 決まっているのだろうか、いないのだろうか。




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