第3話
うるさいなぁ。誰よ、病院内で全力ダッシュしてる奴は。
「遥!」
あ、この声は……樹だ。
「遥!」
ガラッと勢いよく扉が開き、私に向かって渾身の笑顔を向けながら樹が駆け寄ってきた。そして、横にある小さな小さなベッドを覗き込む。
「ああ、かわいい。赤ちゃん、かわいいな。」
「私と、あなたの赤ちゃん」
「ああ、かわいい。」樹はそれしか言わなかった。
「樹。あんまり見ると情が湧くよ。」
「いいんだ。今しかしてあげられないだろ、良い父親。」
「すぐにこの子と別れるんだよ。別れなきゃいけないんだよ。」
「いいんだ。俺は別れないから。」
「何言って、」
「遥。」樹が私に向けたまっすぐな視線と、私が樹に向けた厳しい視線がぶつかった。「大丈夫だ、遥。」
「今から動ける?一緒に行きたいところがあるんだ。」
「今すぐ?どこ行くのよ。」
「歩いて十分くらい。」
「遠いなあ」
「分かった。俺がおぶるから。職場の人にベビーカー借りてきた。三人で行こう。俺が遥をおぶってベビーカーを押して行くから、心配いらない。」
樹はあまりに真剣で、無下にもできないと思った。この人だいぶバカだから、そんなやり方が簡単じゃないことが分からないんだろう。樹の言うとおりにしよう。何を言っても、この調子じゃ樹は聞く耳を持たないだろうから。私なら、そのくらいは分かる。
彼の背中は私より一回りは大きい。私に左手を添えて、右手一つで赤ちゃんを押して行く。
途中、看護師さんとすれ違った。彼女はにっこり笑って、私たち家族をスルーした。あの人、絶対何か勘違いしてる。まさか私たちが逃げるなんて思ってもないんだろうな。今から三人で出掛けて、そしてその後は、フェードアウト。
「俺、遥とこの子のこと、職場の先輩に相談したんだ。」
背後にいる私にもはっきり聞こえるくらい、大きな声で語り出した。
「一番最初は遥に赤ちゃんができたって分かった時だ。ブン殴られたよ。『お前何やってんだ!最低だな!』って。そんなこと、さすがの俺にだって分かるって思ってた。」下手な芝居を挟む。「『男の不始末のせいで一生苦しむのは女の子の方なんだぞ!』って。」
そのとおりだよ。当たり前じゃない。
「本当は俺は分かってなかったんだ。遥がどれだけ苦しむことになるか。もしかしたらってことを全く考えてなかった。先輩の言うとおりだ。俺は最低なんだ。遥をこんなに辛い目に合わせて、俺はこの子の父親として失格だ。
だから俺は考えたんだ。なんとか俺たちが一緒に暮らしていける方法がないかって。本当はもっと早く遥に言うべきだったと思う。こんなタイミングでごめん。
実はな、山下建設で事務員を一人採用しようっていう話があるんだ。」
山下建設とは、樹が働いている会社の名前だ。
「男しかいないしみんな頭悪いし、書類仕事ができる人が欲しいんだ。遥ならできるよな。簿記持ってただろ。」
「うん。高校のうちに取ったけど。」
「だよな。それで、先週班長に言ったんだ。俺、いい人を知っているから紹介しましょうかって。今から行くんだよ、班長と先輩たちが待ってるから。」
「今!?樹さ、タイミング考えなよ。」
「本当にごめん。あんなに大きいお腹じゃ動けないかと思って。」
「産んだ後の方が動けません。当然でしょ。」
樹のテンションが下がったのが分かった。
そのまま二人とも黙ってしまった。
星が綺麗だ。さっきこの子が生まれた時と変わらず、やっぱり綺麗だ。
樹の背中の上で、私は濃紺の空を見上げた。
この子、めっちゃいい日に生まれてきたね。大きくなったら、あなたが生まれた日の夜空は快晴で星が輝いていたんだよって伝えてあげたい。
「遥、ここだよ。」
木造のボロいアパートに着いた。
「ちょっと手離すね。」
樹は赤ちゃんにそう言って、右手でインターホンを押した。
「班長。樹です。」
扉が左にスライドし、三十代半ばくらいの日焼けした男性が現れた。この人が班長なのね。思ったより若い。
「こないだ言った、いい人です。」
「木戸遥です。」
「噂の遥ちゃんか。聞いてたとおりかわいいな。」
「ちょっと、やめてくださいよ。」私ではなく、彼が班長に突っ込んだ。
「じゃあ、木戸さん。会社の話をするから中に入ってくれ。樹は別の部屋で娘の面倒見とけ。」
「ういっす。」
私は奥の部屋に連れていかれ、樹は手前の部屋であるリビングで座布団に腰かけた。座布団はそれを敷いたところで意味があるのかないのか分からないくらい薄かった。
「樹の上司の、新田といいます。
聞いてますよ、木戸さんの話は。何でも、樹の将来の奥さんだそうじゃないですか。」
「将来の奥さん!?なんですか、それ。」
「あれ、違うんですか。会社内の噂なんて、やはり所詮は噂でしたか。
それはそうと、おめでとうございます。
木戸さんがどう思ってらっしゃるかは分かりませんが、あいつはいい父親になると思いますよ。実は彼女に赤ちゃんができてしまったんだって聞かされた時は驚きましたがね、今では納得です。
ご存知ですかね。樹が同僚たちに子供の名前をどうしたらいいか訊いて回ってたんですよ。」
「そんな、全く知りません。」
「そうでしたか。余計なこと言っちゃったかな。樹くん本人から話した方がいいでしょうからね。私からは黙っておきましょう。」
「あの、今日は娘の話をしに来たわけではなかったと思いますが」
「すみません、また脱線してしまいました。
木戸遥さん。あなたをうちの事務員として採用したいのです。」私は新田さんの黒い瞳を見つめた。
「我が社はね、実は社員の五割が中卒、三割が施設育ち、あとの二割が障がい者なんです。今は書類仕事を出来る人員が私だけなんです。三ヶ月前まではもう一人いたんですが、あいにく寿退社してしまいまして。
一応私だけでも仕事自体は成り立っているので大丈夫なんですが、樹が心配してくれましてね。今思えば、あいつは始めから木戸さんを紹介するつもりだったのかもしれませんね。」
「そういうことでしたか。」
表情筋に力を入れて、私は言った。
「私、喜んで入社させていただきます。明日からですか。」そして顔面に笑みを貼り付けた。
「明日なんてとんでもない!ゆっくり休んで下さい。今まで苦労なさったんでしょ。お友達の家を転々としていたとか。会社の寮に空いてる大部屋がありますから、そこを三人で使ってください。今日から使ってください。」
「あ、ありがとうございます……」
この人、親切にしすぎ。絶対いつか痛い目に遭う。信じる者は、足元をすくわれるんだから。
「じゃあ、明日から木戸さんは山下建設の社員ということで、よろしくお願いします。今日は二人でゆっくり過ごしてください。子供の名前、一緒に決めるんでしょ。」
二人で一緒に?樹は何も言ってなかったよ。
でも分かる。彼は赤ちゃんのことをそれだけ考えていたんだ。だから「俺は別れない」なんて言い出したんだ。点と点が線で繋がるように、私は分かった。樹はずっと言い出せなかったのかもしれない。
なんでこの班長はよく知ってるのに私に話してくれなかったのかって思えるけど、そんなことは関係ない。たぶんこの新田さんのことを樹は信頼してるんだ。この人を私以上に信頼してるんだ。
「木戸さん?」
「あ、すみません。ボーッとしてて」
「いや、そうじゃなくて。大丈夫ですか?泣いてらっしゃいますよ。」
「え、?」
そっと右手で顔に触れると、小さな水滴に気付いた。ねえ、樹。私はなんで泣いてるの?
「樹呼びますね。」
「おい、樹!」ドアから顔だけを出して、新田さんは言った。
「はい!」
「こっち来い。じゃあ、私はこれで。」
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