舞い上がる風
イリスとケンドールとの間には、あっという間に膨れ上がった高い炎が敢然と立ちはだかり、ケンドールは弾かれるように後ろに飛び退くと、炎の壁を見上げて呆然として呟いた。
「何なんだ、これは……」
イリスは、目の前で自分をケンドールから救ってくれた大きな炎を見上げた。
(もしかしたら……)
ごく小さかったはずの炎が、ほんの一瞬で燃え盛る業火に変わった時、イリスは、その炎を巻き上げる強い風の勢いを感じていた。
そして、イリスは、自分を守るように、包み込むように吹く柔らかな風の存在も感じていた。その風のお蔭で、イリスは炎の熱さや、その外側の激しい風から守られていたのだ。
その時、ふわりとイリスの身体が浮き上がった。懐かしい風魔法の感覚に、イリスの瞳には涙が滲む。そのまま宙を舞ったイリスの身体は、温かで力強い両腕に抱き留められた。
「イリス、遅くなってすまない。大丈夫か?」
どこまでも美しいマーベリックの顔が、心配そうにイリスのことを覗き込んでいる。すぐにしゅっと鋭い音がして、イリスの手足を縛っていた縄がするりと解けた。イリスはマーベリックに、両腕を回して思い切り抱き付いた。
「マーベリック、様……!!」
緊張の解けたイリスの両の瞳からは、ぽろぽろと涙が溢れ落ちる。マーベリックは、まだ少し震えの残るイリスの身体を、両腕に抱えたままでぎゅっと抱き締め返した。
「怖かっただろう。怪我はないか?」
「……はい、大丈夫です」
マーベリックは、まだイリスの手足に赤く残る縄の痕を辛そうに見つめた。
ケンドールは、イリスを抱くマーベリックの姿を認めると、呆然とした様子で呟いた。
「どうして。ヘレナの元に行っていたはずじゃ……」
ケンドールの言葉を耳にしたイリスは、はっとしたように、マーベリックに回した両腕を解こうとしたけれど、マーベリックがそれを許さなかった。再度、その腕に力を込めて、優しくイリスを抱き寄せる。そして、凍り付くような視線でケンドールを見据えた。
途端に、渦巻くような苛烈な風が巻き起こった。イリスが息を飲み、まるで生き物のように激しく舞う風を感じていると、ケンドールの身体は風に巻き上げられて宙に浮き、激しく壁に叩きつけられた。その衝撃で、室内には大きな揺れが走り、天井からはぱらぱらと、細かな瓦礫と埃が降って来る。ケンドールは、壁に背を凭せかけるようにしながら、そのままずるりと崩れ落ちた。
マーベリックが、片の付いたケンドールをちらと見遣ると、室内の風が止み、それと同時に、燃え盛っていた炎の壁も、ふっとその姿を消した。
マーベリックは労るようにイリスを見つめてから、穏やかにイリスに話し掛けた。
「ヘレナという令嬢の元を訪れたのは、ヴィンセントを救ってくれた令嬢への礼が主な目的だったのだが。
……ヴィンスを助けてくれたのは彼女ではなくて、イリス、君だったんだね」
「ヴィンス様、って、もしかして……」
初めに会った時、顔が酷く腫れ上がっていた魔術師の顔が、イリスの脳裏に浮かぶ。
「ああ、大怪我を負っていたところを、君が助けてくれただろう?彼は俺の弟なんだ。
……ほら、ヴィンスもここに来ているよ」
マーベリックに示された視線の先に顔を向けると、にこりとイリスに微笑みかける、懐かしい青い瞳と目が合った。
「やっとまた会えましたね、イリス。
その節は、本当にお世話になりました。
……で、この男ですが、どうしましょうか」
壁際で動かなくなっているケンドールのことを、ヴィンセントは冷ややかに見つめた。
「ま、このまま牢屋行きでしょうね。
彼、騎士団の元副団長でしたか……それがこんなことをするなんて、落ちたものですねえ。
……私としては、イリスをこんな目に遭わせるなんて、風の刃で空中分解でもしてやりたいくらいですけどね」
イリスには優しい眼差しを向けるヴィンセントだったけれど、彼がケンドールを見る鋭く険しい視線には、激しい怒りの色がありありと見て取れた。
「あの、待ってください」
慌ててイリスがヴィンセントを止めると、ヴィンセントはくすりと笑った。
「ま、冗談ですけれどね。
イリス、どうしましたか。何か、言いたいことが?」
イリスは、ぽつり、ぽつりと、言葉を選ぶようにしながら答えた。
「あの、この方……ケンドール様は、私の古い知り合いなのです。
それから、私……ここに連れて来られはしましたが、結局、それ以上何かされた訳ではありません。だから、その……」
「ほう、イリス。
彼を牢屋にまで入れる必要はないと、そういうことですか?」
「ええ。
もう、彼とお会いすることはないようにできればとは思いますが、それさえ叶えば、私はそれ以上は望みません」
ヴィンセントは軽く溜息を吐いた。
「どこまでも人の良いお嬢さんですねえ、あなたは。
……うら若く、か弱いご令嬢を、その手足を縛って攫っておきながら、それでは刑が軽過ぎるような気もしますが。
兄さんは、それでよろしいのですか?」
マーベリックは、軽く苦笑してから頷いた。
「ああ。
……本当は、俺もあの男に対して、最大級の風魔法をぶつけてやりたいくらいの怒りを感じてはいるがな。
だが、イリスがそう言うのなら、イリスの側には二度と近付かないという条件付きならば、イリスの意思を尊重しよう」
「わかりました。
まあ、さすがに勾留と事情聴取は避けられないでしょうから、彼を然るべき局に引き渡しておきますね」
「ああ、頼む」
ヴィンセントは、マーベリックと、その腕の中にいるイリスの姿を微笑ましげに見つめた。
「私がお2人の邪魔をするのは、不粋というものでしょうね。……この後始末はしておきますし、レノも家で待っていることでしょうから、後はどうぞお2人で屋敷に戻ってください。
レノも、イリスが無事に戻るのを心待ちにしていますから」
「では、悪いがお前の言葉に甘えさせてもらうよ、ヴィンス。
さあ、行こうか、イリス」
マーベリックの言葉にイリスが頷いて、ヴィンセントに感謝を込めた笑顔を向けると、ヴィンセントはイリスを眩しそうに見つめた。
「イリス、今度、改めてまたお礼を言わせてくださいね。私があの酷い怪我から助かって、今これほどに回復しているのは、あなたのお蔭です。……またお会いするのを楽しみにしていますね」
「こちらこそ楽しみにしておりますわ、ヴィンス様」
マーベリックがイリスを抱き上げたまま、馬車に向かう様子を見届けてから、ヴィンセントは、つい先程までイリスが捕らわれていた、崩れ落ちそうな廃屋をぐるりと眺めた。
ヴィンセントは内心で呟いた。
(イリスがこんな人目に付かないような廃屋に攫われたのに、無事に見付かったことも、さっき、魔法の属性が認められなかったはずのイリスの前に、突然炎が現れたことも。
やはり、兄さんの言うように、5つの魔法の属性以外にも、何かしらの能力というのは存在するようですね。
……どれ、私も、魔術師団の書庫でも調べてみることにしますか)
ヴィンセントは、また廃屋の中に足を踏み入れると、壁際で首を垂れたままの姿勢で動かないケンドールの側に近付いた。
(……おや?)
ヴィンセントがケンドールの顔を覗き込むと、閉じられたままのケンドールの瞳からは、一筋の涙が流れていた。
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