イリスの失踪

「今日は、ヴィンセントと出掛けてくるから。

イリスといい子で待っているんだよ」


柔らかくレノの頭を撫でたマーベリックに、レノは笑顔で頷いた。


「はーい、兄さん!

……ヴィンス兄さんとは、しばらく会ってないなあ。元気にしてるかなあ……」

「まあ、ヴィンスも激務だからな。

レノも会えなくて寂しいとは思うが、近いうちに、この家にも顔を出すようにとヴィンスに伝えておくよ」

「うん、ありがとう。ヴィンス兄さんにも、身体に気を付けてねって伝えておいてくれる?」

「ああ、わかった」


イリスが、マーベリックを見送りにぱたぱたと駆け寄って来た。


「いってらっしゃいませ、マーベリック様」

「ありがとう、イリス。レノを頼むよ」

「はい」


マーベリックは、イリスの頭も優しく撫でてから出掛けて行った。


「ヴィンス兄さん、そんなに忙しいんだあ……」


少し寂しそうに、しょんぼりとした様子のレノに、イリスは尋ねた。


「レノ様の2番目のお兄様のことかしら?」

「うん、そうだよ。ヴィンス兄さんね、第1魔術師団の団長をしてるんだ、格好いいでしょう?

……でも、お仕事がすごく忙しいんだって。だから、なかなか……というよりも、ほとんど家に帰って来ないんだよね……」

「そうなの。

……そうね、魔術師団長をしていたら、滅多に家には帰れないでしょうね」


イリスが、多忙なために姿を見ることの少なかった亡き父を思い出しながら呟くと、レノがぱちぱちと目を瞬いた。


「ふうん、そういうものなんだ」

「……けれど、マーベリック様はレノ様とたくさん遊んでくださるから、良かったですね?」

「うん!!

兄さんには、本当に感謝してる。

僕のために、兄さん自身を犠牲にしてるんじゃないかって、心配になることもあるんだけどね……。兄さん、すごく強いから、いっぱい活躍して、もっともっと偉くなることもできるはずなのに、いつも僕のことを優先してくれるんだ」


まだ小さく、いつも無邪気に見えるレノが、そんなことを考えていたとはと、イリスは少し胸が痛くなった。


「大丈夫ですよ。マーベリック様も、レノ様と一緒の時間を楽しんで過ごしていらっしゃるのが、よくわかりますから」

「ほんとに?

……けど、あのね、イリスが来てくれるようになってから、兄さん、それまでよりも楽しそうになったんだよ。

僕と一緒にいれば、兄さんもイリスと一緒に過ごせる訳だから、まあ、いいのかなあ」

「そんなことは……」


レノが楽しげな目付きで、頬を染めたイリスを見つめた。

イリスは軽く咳払いした。


「さて、レノ様。今日は何して遊びましょうか?

この前、街で、マーベリック様に新しい画材道具を買っていただきましたよね。せっかくだから、お絵描きでもしましょうか?」

「うん!」


開いたスケッチブックが、だんだんとレノの絵で埋まっていく様子を、イリスもすぐ横でにこにこしながら眺めていた。レノにねだられて、イリスも一緒に彩色を手伝う。


その時、離れのドアが軽くノックされた。


「はい?」


イリスが扉に駆け寄って細く開けると、そこにはソニアの姿があった。


「あら、ソニア」

「イリス、レノ様宛の注文の品を持って来たっていう方が来ているのだけど。

前に、あなた達が街に行った時にでも、何かレノ様に頼んだのかしら?」

「うーん、特に覚えはないのだけれど、何かしら。

ちょっと、私からその方に聞いてみるわね」

「ありがとう、お願いできる?」

「ええ、勿論よ」


イリスは、レノを振り返って「すぐに戻りますね」とだけ告げてから、庭を通り抜けて、屋敷の玄関の門戸の前まで出て行った。


イリスは、きょろきょろと辺りを見回した。


(あら?

ソニアが言っていたような方は、見当たらないわね……)


いったん屋敷に戻ろうかと、イリスが門戸に背を向けた、その時だった。


(……!)


イリスは、背後から、急に口元に何か布状のものを押し当てられるのを感じた。つんと薬の匂いがイリスの鼻をつく。


(これ、は……)


イリスの全身から、ふっと力が抜けた。

そのまま意識を失ったイリスの身体を、商人風の服を纏った男が後ろから抱き留めると、口元に薄く笑みを浮かべながら、イリスをその両腕に抱き上げた。


***

「ヴィンス、君は本当に忙しそうだな……」


エヴェレット家からマーベリックを乗せて出た馬車は、途中、魔術師団の拠点でヴィンセントを拾ってから、クルムロフ家に向かっていた。


進み行く馬車の中でさえ、報告書に目を通したり、指示書を書いたりしているヴィンセントを見て、マーベリックは苦笑していた。

馬車の窓から、風魔法でひらりと手紙が運ばれ、ヴィンセントの膝に落ちる。


「ああ、これで、馬車に乗ってからもう3通目ですよ!少しくらい、私のことを休ませて欲しいものです」


ぶつぶつと呟きながらも、かりかりと動かし続ける手を止めないヴィンセントは、視線を書類に落としたままで、マーベリックに話し掛けた。


「ところで兄さんは、これから会いに行くクルムロフ家のご令嬢について、どのようなことを知りたいのですか?」

「そうだな……。

ヴィンス、お前は、幻の能力という言葉は聞いたことがあるか?」

「いえ、それは初耳ですね……」


ヴィンセントは、ようやく手元の書類から顔を上げて、マーベリックを見つめた。


「俺も、詳しい訳ではないが。古い文献を探すうちに、そのような記載があるのを見付けたんだ。失われた能力、なんて呼ばれることもあるようだ」

「ほう……それは興味深いですね」


ヴィンセントの瞳が、きらりと輝く。


「お前も当然知っているように、5つの属性に関する魔法は、どれも目にすることができるものだ。けれど、その幻の能力とやらは、能力を使っても、直接目には見えないらしいのだよ。だが、どうにも謎が多くてな。

俺は、レノの周りで起きる不思議な現象は、レノの何かしらの能力によるものかと勘繰っていたが、推測の域を出なかった。だが、」


マーベリックは、ヴィンセントの、すっかり傷の癒えた身体を眺めた。


「ヴィンスは、その令嬢に助けられた時、湧いてくるような力を感じて、回復力が高まったと言っていただろう?

俺も最近似たような経験をしているが、あれは、偶然で済ませられるような力ではなかった。何かしらの力が確かに背後に働いていたのだろうと、そう感じた」

「なるほど。……それが、その幻の能力だと?」

「まあ、俺にも、まだはっきりとした答えがある訳ではないが。その令嬢の話を聞くことで、何かの糸口が掴めればと、そう考えている」

「それは、レノにも繋がるということですか」

「ああ。目に見えない不思議な力という意味では、共通するように思う。もし、そのような力がどのようなものかや、コントロールの方法などがわかれば、もしかしたら、レノにとっても、もっと日々が過ごしやすいものになるかもしれない」


ヴィンセントは一度頷いた後で、やや間を置いてから、不思議そうに首を傾げた。


「ところで、兄さんは、レノ付きの新しい侍女が、その力の持ち主のような気がしたと、そう仰っていましたね。

……彼女自身、その力の自覚はないようだとは聞きましたが、なぜ、まずは彼女にさらに詳しく聞かなかったのです?彼女からも、何かしら引き出せる情報があるような気もしますが」

「それは……」


マーベリックは、ふいとヴィンセントから目を逸らし、視線を馬車の窓から外に向けた。


「……彼女は、どこか自分に自信がなさそうにしているんだ。彼女は、優しくて思いやり深い素晴らしい女性なのに、それが何故なのかは、俺にもよくはわからないが……。

もしかしたら、辛い経験でも過去にあったのかもしれないと思うと、話を聞く中で、彼女の心の傷に触れてしまわないだろうかと、聞きづらいところもあってな。

最近も時折、悲しげな、不安そうな表情を見せることがあって、心配しているんだ」

「そうでしたか……」

「彼女を傷付けたくはないし、もし、それで彼女を失うようなことがあれば。

レノも、ようやく見付けた心を許せる侍女を失うことになるし、俺も、彼女のいないエヴェレット家が、もう想像できなくてな」

「……兄さんにとっても、彼女は大切な存在だと、そういうことですか」


返事をする代わりに顔を赤らめたマーベリックを見て、ヴィンセントが穏やかに微笑んだ。


ごとごとと石畳の上を通った馬車は、少しずつ速度を落として行くと、やがてクルムロフ家の屋敷の前でゆっくりと止まった。


ヴィンセントは、まだ忙しく書類に目を落としている。


「着いたようだぞ」

「……兄さん、大変に申し訳ないのですが。

あとほんの少しで片が付くので、先に入っていてはいただけませんか?

ほら、屋敷の中から出迎えの方が来たようです。すぐに追い掛けると、お約束しますので」

「お前からこの家の令嬢への礼が、この訪問の主な目的だったはずだが……。

まあいい、わかった。では、先に向かっているよ」

「すみません、兄さん。助かります」


マーベリックが馬車から降り立つと、淡い桃色のワンピースを纏った1人の令嬢が、満面の笑みを浮かべて、屋敷の玄関先から駆け出して来た。

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