企み
「イリス。……ねえ、聞いてる?」
離れでレノと2人過ごしていたイリスは、イリスの顔を間近から覗き込んできたレノの言葉に、はっとした。
「ごめんなさい、レノ様。……何だか、ぼんやりしてしまっていたみたいで……」
レノは眉を下げて、心配そうに口を開いた。
「イリス、この前一緒に街に出掛けた時から、何だか元気がないし、顔色も悪いよ。
時々、心ここにあらずみたいな感じになってるけれど、大丈夫?」
イリスはレノの言葉に苦笑した。
「ごめんなさい、これでは、レノ様の侍女として失格ですね……」
レノはぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「違う違う、僕、そういう意味で言ったんじゃないんだ。
……僕の側にいてくれるのは、絶対にイリスじゃなきゃ嫌だし、僕にとって、イリスはすごく大切なんだ。いつもイリスには助けてもらってばっかりだから、僕だって、イリスの力になりたいし、役に立ちたいんだよ。
だから、心配ごとがあったら、何でも相談してね?」
「ありがとう、レノ様。レノ様は本当にお優しいですね」
イリスはにっこり微笑むと、レノのことを両腕でぎゅっと抱き締めた。
街でケンドールに声を掛けられてから、イリスの心を、靄のような不安が覆っていた。その理由に、イリスは自分でも気付いていた。
マーベリックと自分とでは、身分も能力も容姿も、何もかもが違うことはわかっていたはずなのに、それでも、そのことを指摘するケンドールの言葉に、イリスは思いのほか傷付いていたのだ。勿論、レノに対するケンドールの言葉は決して許せるものではなかったけれど、それだけではなく、イリス自身も傷付いたことで、イリスははっきりと、マーベリックに対する自らの想いを自覚したのだった。
(私では、とてもマーベリック様には釣り合わないことはわかっているから、ご迷惑にならないように、この気持ちはそっと胸にしまっておかないと。
ああ、けれど、マーベリック様も、美しいヘレナに心を奪われてしまうのかしら。マーベリック様はいつ、ヘレナの元を訪れるのかしら……)
つい、そんな考えが浮かんで来てしまうイリスの揺れる心を見透かしたかのように、イリスの腕の中にいたレノが、気遣わしげにイリスを見上げた。
「イリス、まだちょっと浮かない顔してる。
……そうだ、気分転換に中庭に出てみない?」
「ええ、いい考えね。早速行きましょうか、レノ様」
レノに手を引かれてイリスが中庭に出た時、イリスは中庭をぐるりと見回すと、そういえば、と、首を傾げてレノに尋ねた。
「レノ様。
……初めて私がこの中庭にお邪魔したときに、レノ様が教えてくださったお友達は、あれからいらしてはいないのでしょうか?」
「ううん、違うよ。
みんなを、この辺りで見掛けることは多いんだけど。でもね、みんな結構恥ずかしがり屋だから、兄さんも一緒だったここ最近は、ずっと静かに、ただ僕たちのことを見ていただけだったみたい。
この前みたいに、みんなが、踊る風や、弾ける水や灯る炎を見せてくれたのは、僕以外の人がいる時では、イリスをここに連れて来た時が初めてだったんだよ」
「そうだったのですか?」
イリスが驚いて尋ねると、レノはこくりと頷いた。
「うん。イリスには、他の人とは違う何かがあるのかなぁ?
……兄さんも、僕が1人でみんなとここで遊んでいた時に、みんなが起こした、ちょっと変わった現象を見掛けて、驚いたことはあったみたいだけどね。
あっ、ちょっと待ってね」
中空で視線を止めたレノに、イリスは目を瞬いた。
「……ね、イリス。僕の友達の、一番小さな金色の竜が、イリスに聞きたいことがあるみたい」
「ええ、何でしょう?」
レノが中空に目をやりながら、言葉を続けた。
「イリスの首にかかっている、その赤紫色の宝石の付いたネックレス。
見たことがあるって、そう言ってるんだ。昔、大好きだった人が身に着けていたんだって。あと、この前、僕たちと一緒に街に出掛けた時のイリスが、その人にそっくりに見えたって。
……イリス、その人のこと、何か知ってる?」
「……もしかしたら、お母様のことかしら……」
イリスは大切そうに、胸元に輝く赤紫色の宝石にそっと触れた。
「このネックレスは、私のお母様の形見なの。
それに、この前、レノ様たちと街に出掛けた時に着ていた服も、お母様が昔着ていたワンピースだったのですよ。
だから、私がお母様に似ているように見えたのかもしれませんね」
「そうかあ、イリスのお母さんかぁ……。
うん、そうみたいだね。会えなくなって、寂しかったって言ってるから」
イリスは、優しく、そして美しかった母のことを、遠い記憶の中から思い出していた。まさか、亡き母のことを、目に見えない神秘的な存在が知っているなんて、とても不思議な感覚だった。
「その金色のお友達は、まだ小さいのかしら?
私のお母様が天に召されたのは、もうずっと昔のことなのだけれど」
「竜はね、僕たち人間よりも、ずっと寿命が長いし、成長するにも時間がかかるんだって。
それに、イリスも、お母さんによく似てるねって、イリスのことも好きだって、そう言ってるよ」
「あら、それは嬉しいわ」
微笑んだイリスの前で、ふわっと、小さな炎が、花を象るように現れた。
ふわり、ふわりと、小さな炎でできた花が、次々と目の前に浮かび上がって来る。
「わ、綺麗ね……!」
幻想的な炎の花が咲いては散っていく様子を、イリスが夢中になって眺めていると、横でレノが嬉しそうに笑った。
「よかった、イリス、ちょっと元気が出たみたいだね」
「ええ、とっても!
そのお友達に、ぜひお礼を伝えてくださいね」
「うん。……この子も、イリスを励ましたかったみたいだよ。
これからもよろしく、って」
「こちらこそ、ぜひ仲良くしてくださいね」
イリスは、何も見えない中空に向かって、けれど確かにその神秘的な存在を感じながら、にっこりと笑いかけたのだった。
***
「いい加減にしてくださいませんか、ケンドール様。
私、この家にはもう来ないで欲しいと、そう言ったはず……」
苛立った様子で、ケンドールを家から追い返そうと、そこまで言い掛けたヘレナは、目の前にふらりと立つケンドールの様子が以前とは随分違っているのを見て、ぎょっとして思わず一歩下がった。
暗い顔をして、服は薄汚れ、うらぶれた雰囲気を漂わせているケンドールからは、隠し切れない酒の臭いがしている。その瞳には、若干の狂気とも取れるような色が浮かんでいた。
(何なの、彼。怖いわ……)
ヘレナはごくりと唾を飲み込んだ。彼を下手に刺激しない方がいいと、そうヘレナの本能が告げていた。
ヘレナは、喉元まで出掛かっていた辛辣な言葉を飲み込むと、多少の距離を取りながら、ケンドールに対して作り笑顔を浮かべた。
「何か、私にご用でも?」
「ああ。君に、いいことを教えてやろうと思ってな」
「それは、どのような?」
「イリスのことだよ。彼女、今はエヴェレット家にいるんだ」
「エヴェレット家って、あの、マーベリック様とヴィンセント様の……」
驚いた様子のヘレナに、ケンドールはにやりと笑った。
「ああ。それに、イリスはマーベリックから、特別大切にされているよ」
「イリスお姉様が……?」
「そうだ。イリスはマーベリックの末弟の世話係として、あの家で働いている。相当、マーベリックに気に入られているようだよ。僕のこの目で見たんだから、間違いはない。
……いくら君でも、イリスがいたらマーベリックを手に入れるのは難しいだろうって、そう伝えに来たのさ。
はっ、君だって、誰の心でも捕らえるなんてことはできないってことさ」
(振られた私への当て付けに来たのかしら?
お姉様なんて、私の相手になんてならないとは思うけれど。それでも……)
ヘレナは、口ではそう言いながらも、イリスとの復縁が叶わなかったのであろう、悔しさをその表情に滲ませているケンドールの姿を、改めて眺めた。
これほどまでに様子が変わるとは、相当の衝撃を受けたのだろう、と想像してみると、イリスを探しに行って、マーベリックに大切にされている彼女を目撃したのだろうと考えれば、彼の言葉には、否定できない真実味があった。
ケンドールが徐に口を開いた。
「疑問なんだが、なぜマーベリックにヴィンセントまで、君のところに来るんだい?」
「……ヴィンセント様が、助けられたお礼を言うためにですって」
「他人事みたいだな。君が彼を助けたんじゃないのか?」
「いいえ?
もしかしたら、お姉様がヴィンセント様を助けたのかもしれないけれど。クルムロフ家の令嬢に会いたいって仰っているのはあちらですし、今は私しかおりませんからね」
当然のようにそう話すヘレナに、ケンドールはふっと笑みを漏らした。
「……君も大概だな。
で、どうしてマーベリックまで?」
「それが、よくわからないのよ。
君のお蔭で特別回復が早かったようだ、君には何か特殊な能力があるんじゃないか、なんて、ヴィンセント様からの手紙に書いてあったの。今までにもそのようなことはなかったか、何か心当たりはないかって。
……マーベリック様も、どうやらそのことについて聞きたいのですって。
光魔法の使い手である私に、それを聞くならわかるけれど、お姉様に、そんな力がある訳ないじゃない?ありふれた魔法の属性ですらも、どれも認められなかったお姉様に。
ケンドール様も、そう思いませんか?」
「……。
……もしかしたら……」
突然、ケンドールが高笑いを始めた。ヘレナはぎくりとしながら、更に一歩後退った。
ケンドールは笑いを止めないままで、目尻に滲む涙を拭いながら、ヘレナに答えた。
「そうか、面白い。実に面白いよ。
……僕も、改めてイリスが欲しくなった」
(……この方、何を言っているのかしら?
でも、障害になるものは、できる限り排除しておきたいわ。それなら……)
「ねえ、ケンドール様。
マーベリック様とヴィンセント様がこの家にいらっしゃる日を、知りたいですか?」
「それは、どういう……?」
ヘレナは、口元に薄い笑みを浮かべた。
「その日であれば、少なくとも、マーベリック様も、ヴィンセント様も、エヴェレット家にはいらっしゃらないということですよ。
……私の言いたいことが、おわかりですか?」
ケンドールの瞳が、ヘレナの言葉に暗く輝いた。
「ああ、よくわかったよ。
で、それはいつなんだ?」
「ええ、それはね……」
ケンドールはヘレナの返答に頷くと、すぐにくるりと踵を返した。
(もしかしたら……いや、きっと、これは)
ケンドールは、高鳴る胸を抑え切れずに、自分の腕に巻かれた包帯を眺めた。
昔、イリスと婚約していた時も、騎士団の仕事で深い傷を負ったことはそれなりにあった。
けれど、少なくとも今に比べれば、何故だか回復が早かったのだ。
それだけではない。身体の中から湧き上がるような力によって、身体の切れも攻撃力も、いずれも今より格段に高かったと言えた。
(荒唐無稽な話にも思えるが。
ヴィンセントのあの手紙に、以前に目の前で見た、マーベリックの神がかった風魔法。
……俺の経験に、あの2人のことまで考え合わせれば、確かに辻褄が合う。
あの力の鍵は、イリスだったと、そういうことか)
ケンドールは、隠し切れない笑みをその顔に浮かべた。
(イリス、君が、あのマーベリックと想い合っていたとしても。
それでも、どんな手を使ってでも、君さえ取り戻すことができれば、僕は……)
イリスには口さがない言葉を掛けていたけれど、ケンドールは、本当は気付いていたのだ。マーベリックがイリスに向ける温かな視線は、たった一人の愛しい女性に向けるそれに他ならないということに。
ケンドールは、頭の中で来たる日の算段を付けながら、その瞳に暗い光を宿していた。
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