望まない再会

馬車の窓から、流れて行く景色を目を輝かせて眺めるレノを、イリスは微笑ましげに見つめていた。


けれど、時折、レノの表情には緊張が滲む。思い出したように、ふっとレノの顔に影が差す様子を見て、イリスが思わず小さなレノの手を握ると、レノはほっとしたようにイリスの手を握り返した。


マーベリックは、そんな2人に優しい瞳を向けると、フードを被りながら口を開いた。


「レノの外出は久し振りだからな。あまり無理のない程度にと考えているよ。

俺もイリスもついているから、レノ、安心していてくれ」

「うん。

……このフードを外さないようにすれば、多分、大丈夫かなとは思っているけれど。

そうだね。2人がついていてくれれば、安心だね。

あっ、ねえ、見て見て。もう、街が見えて来たよ」


間もなく馬車が止まり、3人はたくさんの人で賑わう街の入口に降り立った。


「レノ、まずどこに行きたい?」

「えーっとね、じゃあ、あそこのお店……!」


マーベリックとイリスの手を引き、軽快な足取りで駆け出すレノの姿につられるように、2人もレノに合わせて走り出した。


***

「街って楽しいところだったんだね……!」


きらきらと目を輝かせるレノの手には、さっきマーベリックに買ってもらったばかりの、新しいスケッチブックと画材セットが入った紙袋が下げられている。


立派な佇まいの店が立ち並ぶ中を、レノの興味のままに回り、レノが特に気に入った画材屋では、レノがマーベリックから買ってもらったプレゼントにはしゃいでいた。


大通りを抜けてから、細い道の両側に立ち並ぶ屋台の間を通り抜ける中で、レノの興味を引いた食べ物も、次々と試しながら歩いていた。


「さっき食べた猪肉の串焼きは、初めての味だったよ。それから、珍しい青い野菜のスープも。


クリームたっぷりのドーナツも、美味しかったなあ……!


あ、ねえ、あの甘そうな果物のジュースも飲んでみたいな。美味しそう、長い列が出来てるね」

「今日は随分と食欲があるな、レノ。

よし、じゃあ次はあの屋台に行こうか……」


イリスはその時、ちょうど今歩いているところのすぐ脇に、ハーブティーや、お茶請けの鮮やかな砂糖菓子が並ぶ屋台があるのに気付いた。


(いろいろとお世話になっているソニアに、お土産を買えたらと思っていたけれど。ここならちょうど良さそうね)


ソニアから、ハーブティーが好きだと聞いていたイリスは、マーベリックとレノに声を掛けた。


「あの、私、すぐそこの屋台で、侍女仲間にお土産を買って行ってもいいですか?

すみません、すぐに追い付きます。あちらのジュースの屋台に向かうのですよね?」

「ああ、もちろん問題ないよ。

ゆっくりお土産を選んでおいで」

「先に並んでるねー!」


軽く手を振って、マーベリックとレノと別れてから、イリスはハーブティーや菓子類の並ぶ屋台で、手早く土産を見繕った。


(ソニアには、このいろんな種類のハーブティーの詰め合わせを。

レノ様、このカラフルなお菓子は好きかしら?マーベリック様も、このハーブティーなら飲みやすいかしら……)


すぐに会計を済ませて、品物の入った袋を受け取ったところで、イリスの背後から、低い声が掛けられた。


「ちょっといいかな?」

「えっ……」


ぐい、と、イリスの手首が強引に引っ張られる。イリスの身体は、あっという間に、屋台の間からその裏側へと引き込まれた。


驚いたイリスが視線を上げると、そこには、あまり思い出したくもなかった、かつての婚約者の姿があった。


「久し振りだな、イリス。元気そうじゃないか」


(ケンドール、様……)


イリスの顔から、すうっと血の気が引いた。

マーベリックとレノと過ごす中でほとんど忘れかけていた、過去の辛い想い出が甦る。


目の前のケンドールは、イリスの記憶していた姿よりも、幾分かやつれているように見えた。

イリスは、掴まれた手首からケンドールの手を振り解くと、思わずじりと一歩下がった。


「……どのような、ご用件でしょうか」


ケンドールは、ふっと口元に笑みを浮かべた。


「そんな他人行儀に、警戒心のこもった目で見ないでくれよ、イリス。君とは、長い付き合いだったじゃないか。

もう一度、君とやり直したいと思って、君を探しに来たんだ」


イリスの頬が、ひくりと引き攣った。


「何を仰っているのですか?

……私との婚約を破棄して、ヘレナと婚約なさいましたよね」

「ヘレナとはもう別れたよ。僕には君しかいないと、ようやく気付いたんだ」


イリスはすぐに首を大きく横に振った。


「もう、終わったことですから」


ケンドールの眉がぴくりと上がり、瞳に暗い色が浮かんだ。


「マーベリックのことが好きになったのかい、イリス?

……彼に少し親切にしてもらっているからって、勘違いしない方がいい。

彼の風魔法は僕も見たことがあるが、……彼は別格だ。天才中の天才だよ。それに、飛び抜けた彼のあの容姿。

そんな彼が、魔法すら使えない君のことを、本気で相手にするとでも?」


口を噤んで、少し青ざめて俯いたイリスに、ケンドールは畳み掛けるように言った。


「ねえ、僕にしておけって。


マーベリックが君に親切なのは、君があの子供の世話をしているからだろう?

僕も耳にしたことがあるよ、マーベリックが、末弟をそれは可愛がっているって。

僕も、さっきフードの陰にちらっと見えたけど。あの化け物みたいな姿の彼の末弟を、君が面倒見ているから、だからマーベリックは、君のことを……」

「やめてください!」


ぱしり、という乾いた音が響いた。

ケンドールは、呆然とした様子で、今しがたイリスの掌を受けた左頬を指でなぞった。


イリスの両の瞳からは、抑え切れない怒りが溢れていた。


「私のことなら、何を言われても構いません。

でも、レノ様のことをそんな風に仰るなんて、どうしたって許すことはできないわ。


どうか、お引き取りを。

……もう、私の前には、二度とそのお姿を見せないでくださいね」


イリスは、心がどこまでも冷え切っていくのを感じた。自分との婚約破棄を告げられた時よりも心が凍って、目の前に立つケンドールが、まるでまったく知らない他人のように見えた。

これほど心ない物言いなど、決してしたりはしなかった、昔出会った頃の彼は、もうどこにもいなくなってしまったのだろうと、イリスは改めて感じていた。


ケンドールに背中を向けて駆け出したイリスに、ケンドールは、その顔を悔しげに歪めて言い放った。


「はっ、何だよ、イリス。君は調子に乗っているのだろう。

マーベリックだって、君よりもヘレナを選ぶに決まっているさ。マーベリックは、ヘレナに会いに訪れる予定だそうだ」


(……マーベリック様が、ヘレナに会いに……?)


イリスの胸が、どくん、と嫌な音を立てたけれど、イリスはそのままケンドールを振り向かずに、彼の元から走り去った。


人通りの多い、屋台の並ぶ通りに戻り、少し先の屋台の前で、まだ列に並んでいたマーベリックとレノの姿を見つけた。

レノがイリスに手を振っている。


「イリス、こっちこっち!」


早足で駆けてきたイリスは、少し息を上げながら答えた。


「お待たせしてしまって、ごめんなさい」

「ううん、大丈夫だよ。まだ順番待ちをしているだけだし」

「……イリス。顔色が悪いようだが、大丈夫か?

何かあったのかい」


マーベリックが、イリスの顔を覗き込む。

イリスは慌てて首を横に振ると、無理矢理、彼の前で笑顔を作った。


「いいえ、何でもありませんわ。

……ほら、もうすぐ順番ですね。レノ様はどのジュースになさるのですか?」

「えっとね、僕は……」


先ほどまでとは異なり、青白い顔に必死に笑みを浮かべているイリスのことを、マーベリックはじっと心配そうに見つめていた。

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