暗い眼差し
「……ケンドール様、今更どのようなご用ですか?
私たち、婚約解消いたしましたよね。もう、これ以上、クルムロフの家にお越しいただいても困ります。
……それに、そのお怪我。まだ入院されていた方がよろしいのではなくて?」
腕に痛々しく包帯を巻いた姿のケンドールに、迷惑そうに、冷たくそれだけを告げると、玄関の扉を閉めようとしたヘレナに、ケンドールは慌てて言い募った。
「僕は、君に会いに来た訳ではないんだ。
その……イリスが今何処にいるか、それだけ教えては貰えないだろうか?」
ヘレナは呆れたように、目の前で決まり悪そうに立つケンドールに対して目を眇めた。
「あら、そういうことでしたか。
……そうね、ケンドール様にはお姉様の方がお似合いね。
でも、残念だけれど、私もお姉様の行き先は知らないのよ。……興味もなかったものだから」
「そんな……」
表情に隠し切れない失望を浮かべたケンドールを見て、ヘレナは口を開いた。
「もしかしたら、使用人の中には、お姉様の行方を知っている者がいるかもしれないわ。
もし聞きたければ、その辺りにいる使用人たちにでも、好きに聞いてみてくださいな。
……その代わり、今日を限りに、この家には足を踏み入れないでいただきたいのよ。
もし、マーベリック様たちがお越しの際に貴方様がいらしたりでもしたら、目も当てられないわ……」
「マーベリックだって?」
「ええ。
まあ、ケンドール様には関係のない話ですけれど」
そう言いながらも、瞳にどこか優越感を滲ませ、見下すような表情でケンドールを見つめたヘレナを見て、ケンドールは微かに苦笑した。きっと、ヘレナがイリスから自分を奪おうとしていた時にも、ヘレナはイリスに対して同じような表情をしていたのだろうと、そう思ったのだ。
「しかし、どうして、あのマーベリックが……」
思わず呟いたケンドールに、ヘレナは、少し機嫌を直したように続けた。
「ヴィンセント様からお手紙が来たのよ。マーベリック様とヴィンセント様は、クルムロフ家の娘である私に会いに、わざわざこの家にいらしてくださるみたい。
……ケンドール様は、お姉様でも見つかるといいわね」
その言葉を最後に、ヘレナはケンドールに背を向けた。
(もう、新しい男に向かって気持ちを切り替えたのか、ヘレナは。
……まあいい。それよりも、今はイリスのことだ)
ケンドールは、イリスとの付き合いがあった時からクルムロフ家に出入りしていたから、それなりに顔馴染みの使用人もいる。
(しらみつぶしに聞くしかないか……)
ケンドールは、痛む腕を抱えながら、使用人を探して周囲を見回した。
(ああ、イリス、もし君が僕のことを許して、僕の元に戻って来てくれるなら。
……僕は、もう一度やり直せるような気がする)
一方的に残酷な婚約破棄をしたケンドールだったけれど、優しいイリスなら、それも水に流して許してくれるのではないかと、それが、今やケンドールにとって、最後に残された一縷の望みの綱となっていた。
***
「イリス、入るわよー?」
軽快なノックの音が響いてから、ソニアがイリスの部屋のドアを開けた。
「あら、ソニア」
微笑んだイリスに向かって、ソニアは手に持った皿に盛られたクッキーを差し出した。
「さっき、試しに新作のクッキーを焼いてみたのよ。
こんな夜遅くに何だけど、よかったらイリスに試食してもらおうかなって。
……ん、どうしたの?クローゼットの前で難しい顔をして」
首を傾げたソニアに、イリスは困ったように眉を下げて笑った。
「明日、レノ様と、マーベリック様と街に行く予定なのだけれど、着ていく服をどうしようかと思って」
「まあ、マーベリック様とデート!?」
急に目を輝かせたソニアに向かって、イリスは慌てて首を横に振った。
「違うわ。レノ様が街に行ってみたいって仰っていたから、マーベリック様と、私も一緒に付き添って街に行くの、ただそれだけよ。
このお屋敷の外に出るのも久し振りだし、何を着ようか悩んでしまって。レノ様もいるから、動きやすい服の方がいいかしら?
……とはいっても、あまり服を持っている訳でもないし、この、侍女用の紺色のワンピースでもいいかなとも思ったのだけど……」
「だめよ、だめだめ!何言ってるの!!
そんな、せっかくのマーベリック様たちとのお出掛けに、侍女服だなんて。
せっかくの機会なんだもの、うんとお洒落しなくちゃ」
そう言って、手にしていたクッキーの皿を手近なテーブルに置いたソニアは、イリスと一緒にクローゼットの中を覗き込んだ。
「どれどれ。
……そうね、このワンピースなんていいんじゃない?」
ソニアが手に取ったのは、鮮やかな若草色のシルクのワンピースで、イリスが亡き母のワンピースを自分用に手直しした一張羅だった。ウエスト部分には、同色のシルクの大きなリボンがあしらわれている。
「……ただ街に出掛けるにしては、少し派手じゃないかしら?」
「そんなことないわよ、ほら」
ソニアが、ハンガーに掛かった若草色のワンピースを、イリスの身体の前面に当てて、何度も頷いている。
「あなたの瞳の色ともよく合っているし、ぴったりじゃない。よく似合っているわ」
「そうかしら。それなら、このワンピースにしようかしら。
アドバイスありがとう、ソニア」
ソニアは、イリスの顔をじっと眺めてから、その目をきらりと光らせた。
「……そうだ。
明日、これに着替えたら、出掛ける前に早めに私の部屋に寄ってくれない?」
「えっ?
……ええ、わかったわ」
不思議そうにしながら頷いたイリスに、ソニアは楽しそうに笑った。
「ふふ、また明日ね、イリス!
こんな時間にクッキーを食べて、明日吹き出物でも出たら大変ね。これはいったん、下げておくわね。
じゃ、おやすみなさい」
「あら、せっかく持って来てくれたのに、ごめんなさいね。ソニア、おやすみなさい」
ソニアの背中を見送ってから、イリスは少し浮き足立った気持ちでベッドに入った。
明日を楽しみにして、にこにこしていたレノの様子が目に浮かぶ。
(レノ様と、このお屋敷の外に出るのは初めてね。レノ様が、過去の辛い記憶を乗り越えられるような、そんな楽しい1日になるといいのだけれど。マーベリック様もいらっしゃるし、きっと大丈夫よね……)
レノの明るい笑顔を願いながら、イリスは眠りの中へと落ちていった。
***
「ほら!!
やっぱりね。……イリス、あなたはいつも化粧っ気がないけれど、私、前から、あなたはすごく素材がいいと思っていたのよ。きっと、薄化粧だけでも映えるだろうなって。
ね、鏡を見て。どうかしら?」
ソニアは、イリスを前にして満面の笑みを浮かべている。
「え、嘘……」
鏡の向こう側には、驚きに目を見開いた、清楚な魅力の輝くように美しい少女が映っていた。
(これが、私……?)
軽く白粉をはたいた滑らかな肌は透き通るように白く、上向きにした長い睫毛は、元々切れ長のイリスの目をさらに大きく見せていた。ほんのりと染まる頬に、薄らと紅を差した唇が瑞々しい艶を放っている。
いつもは下ろしている金髪も、サイドが丁寧に編み込まれていた。
イリスは、驚きに目を瞬きながら、ソニアを見つめた。
「何だか私、ソニアに魔法をかけてもらったみたいね。まるで、自分が自分じゃないみたい」
「せっかくのマーベリック様とレノ様とのお出掛けだもの、魔法がかかったくらいじゃなくっちゃね!でも、イリス、これはあなたの魅力を引き出すように、少しお化粧しただけ。間違いなく、これはイリス自身の美しさよ。
私も、腕が鳴ったわ。……今日は、楽しんでいらっしゃい!」
「うん。どうもありがとう、ソニア」
恥ずかしげに微笑んだイリスの肩を、ソニアがにっこりと笑って軽く叩いた。
早足で屋敷の階段を下り、屋敷の外に出て来たイリスに、レノが大きく手を振っている。
「あ、イリス!兄さん、イリスが来たよ」
「お待たせしてしまって、ごめんなさい」
「ううん、僕たちもちょうど、今来たところだよ」
慌てて2人の元に駆け寄ったイリスに、レノがぴょんと抱き着いた。レノは、イリスの顔を見上げると目を輝かせている。
「うわっ、今日のイリス、特別可愛い……!」
「ふふ、レノ様、どうもありがとう」
レノの小さな温かい身体を、イリスは軽く抱き締めた。レノは大きなフードの付いた、身体全体を覆う程の長さのあるマントを身に付けていた。白い生地に、金色の縁取りが映えている。
「イリス、まるでお姫様みたいだよ。
……ね、兄さん?」
イリスがマーベリックを振り返ると、今日はレノと揃いの白いマントを身に付けているマーベリックは、少し目を見開き、無言で口元を押さえていた。
「あら、マーベリック様とレノ様、お揃いなんですね。素敵なマント、お2人ともよくお似合いですわ。
……あの、私、あんまり街に行くには相応しくない格好でしたでしょうか?」
心配そうに尋ねたイリスに、マーベリックは首を横に振った。
「いや、とても良く似合っているし……綺麗だよ。
街行く者に、イリスの姿を見せるのが惜しいくらいだ」
「兄さんが動揺するのも珍しいね。顔が赤くなってるよ?」
にやっと笑いながら、大きなフードをひょいとその頭に被ったレノをフード越しに撫でてから、マーベリックは、頬を染めたままでイリスをじっと見つめた。その瞳に熱が籠っているような気がして、イリスの頬もほんのりと熱を帯びる。
「では、早速出発しようか。
屋敷の外に馬車を着けてある。レノ、街までの景色も、馬車から楽しんで行くといい」
「うん!」
「……さ、イリスもおいで」
優しくイリスの手を取ったマーベリックに、イリスも、そっとマーベリックの手を握り返した。
***
「嘘だろう……」
ケンドールは、はっとするほど美しくなったイリスが、マーベリックと親しげに手を繋ぎ、もう1人の子供と一緒に馬車に乗り込む姿を見て、呆然と唇を噛んでいた。
ケンドールは、しばらく前から、エヴェレット家の大きな門戸の外から内側を覗き込んで、イリスが姿を現すのを待っていたのだ。
さすがに、エヴェレット家の者にイリスに取り次ぎを頼んでも、イリスが応じてくれるとは思えなかったから、直接イリスを見つけて話し掛けようと、その機会を窺っていたのだった。
ケンドールがイリスの居場所を聞き出すのは、簡単ではなかった。クルムロフ家の侍女長のモリーは知っている様子だったが、その瞳には怒りが込められ、ケンドールがいくら頼み込んでも、頑として口を割ってはくれなかった。たくさんの使用人たちに聞いてもイリスの行方については首を横に振られ続けたものの、最後に尋ねた御者がようやく、ケンドールの包帯で巻かれた腕を気の毒そうに見ながら、イリスを馬車でエヴェレット家まで乗せて行ったことを教えてくれたのだった。
(あんなに綺麗になって、僕でも今までに一度だって見たことのないほど、嬉しそうな笑顔を浮かべて。
どうしてだ、イリス……)
ケンドールの瞳から希望の光が消えると、ふっと暗い影がその顔に宿った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます