柔らかな唇
「……眠ったみたいだな」
レノを起こさないようにとの気遣いからだろう、低く抑えた声で、マーベリックがイリスに囁いた。
「……そうですね。
先程、薬湯もしっかりと飲んでくださったので、きっとよく眠れると思います」
イリスも小声で答えると、すうすうと規則正しいレノの寝息を聞きながら、可愛らしいレノの寝顔を横から眺めた。
イリスと同じように、レノの寝顔をしばらくじっと見つめていたマーベリックが、ゆっくりと口を開いた。
「さっき、レノが、俺の遠征後に街に出掛けたいと言っていただろう?」
「ええ」
イリスが頷くと、マーベリックは遠くを見るような目をして呟いた。
「レノのその言葉を聞いて、驚いたよ。
レノにとっては、それはとても特別な、勇気のいることなんだ」
「……そうなのですか?」
「ああ。
昔、レノが街に出掛けた時に、魔物と間違えられて、襲われかけたことがあるんだよ。俺が、ほんの少しレノから目を離した隙のことだった。
たまたま旋風が巻き上がって、レノに襲い掛かろうとしていた者たちの目に砂が入ったお蔭で、レノは逃げることができ、事なきを得たが。下手をしたら、レノは大怪我をしていたか、あるいは最悪、命を落としていただろう」
「まあ、そんなことが……」
イリスはレノの気持ちに思いを馳せて、心がぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。街中をただ出歩いていただけで、魔物と間違えられるなんて、しかも側にいた人間から襲われそうになるなんて、どれほど恐ろしかったことだろう。
「……それまでも、レノがその外見から心ない言葉を投げ掛けられることはあったが、その時までは、レノもぐっとこらえていたんだ。だが、その一件は、レノにとっても相当に堪えたみたいでな。それ以降、すっかりレノはこの離れに閉じこもるようになってしまった。
だが、ここが、彼にとって守られた、幸せな空間かというと、そういう訳でもなかった。レノは、知らない多数の人と会うことを怖がるようになったし、今までは、頻繁に熱を出したり、体調を崩したりしていたんだ。だから、レノ専属の侍女を雇うことにしていた。
……なのに、そんなレノ付きの侍女たちですら、レノのことを怖がったり、気味悪がったりする始末だ。次々と辞めて替わっていく侍女たちを、半ば諦めたような目で眺めるレノを見て、俺も心底辛かったよ。代われるものなら、レノと代わってやりたかった。
そんな時に、ここに来てくれたのが君だ。君が来てから、レノは変わった。彼のあんなに明るくて、幸せそうな顔を見たのは、今までで初めてかもしれない。街に行きたいと言えるくらいに前向きになってきたのも、きっと君のお蔭だろう。
……改めて、俺からも礼を言わせてくれ、イリス」
マーベリックの輝きの強い瞳が、レノ越しに、イリスをじっと見つめる。
その視線に絡め取られて動けなくなりそうだと思いながら、イリスは、彼の美しい瞳に見入っていた。
(……あっ)
レノに握られたイリスの右手の上に、マーベリックの左手がそっと重ねられたのがわかった。温かな彼の左手に、そっと力が込められる。イリスの身体が、びくりと跳ねた。
イリスは、何だか夢を見ているような気がして、目眩がしそうな感覚のまま、どうにかマーベリックに口を開いた。
「いえ。私こそ、このエヴェレット家に来させていただいてからというもの、毎日が恵まれていると感じます。レノ様は、いつも可愛い笑顔を見せてくださるし、それに、すごくお優しくて。
……つい先程も、レノ様の体調が早く良くなるようにとお祈りしていたら、マーベリック様の遠征時の無事を祈って欲しいと、ご自分は熱で苦しいはずなのに、むしろマーベリック様のことを心から心配していらっしゃいました。……本当に、素敵な弟さんですね」
「……そんなことがあったのか」
マーベリックは、優しい眼差しをレノに向けてから、改めてイリスに視線を戻した。
「君は、レベッカの前の勤め先で一緒だったそうだね?」
「……はい、そうです」
自分の身元がわかってしまっただろうかと、一瞬ひやりとしながらも、イリスは頷いた。
「レベッカには、俺も信頼を置いているんだ。歯に衣を着せない彼女が、イリスのことは掛け値なしに褒めていたから、期待してはいたんだが、……それでも、君は俺の想像を遥かに上回っていた。
君のことを、レノもどうしても離したくないようだね?もう寝入っているというのに、こんなにしっかりと、君の手を握って。
……レノの気持ちは、俺にもよくわかる」
「……いえ、そんな……。
マーベリック様にも、いつも優しくお気遣いいただいて、とても感謝しています」
また顔中に熱が集まったような感覚になったイリスに、マーベリックは優しく微笑みかけた。
「いつも、ありがとう。おやすみ、イリス」
「……おやすみなさい、マーベリック様」
けれど、イリスの右手に重ねられたマーベリックの左手が離れる気配はなかった。
(これで、眠れるはずないわ……!
マーベリック様は、余裕なのかもしれないけれど……)
そう思いながらも、イリスはどうにか瞳を閉じると、レノとマーベリックの温かな体温に誘われるように、いつしか深い眠りの中へと落ちていった。
***
窓の外から聞こえる鳥の囀りに、イリスが目を覚ましたのは、もう朝陽が離れに差し込む時間になってからだった。
慌てて上半身を起こすと、もうマーベリックの姿はそこにはなかった。
(今日から、遠征に出発なさると仰っていたものね……)
けれど、マーベリックに重ねられた手の感覚ははっきりとイリスの右手に残っていて、イリスはそっと、その感覚ごと自分の右手を抱き締めるように、胸の前にぎゅっと右手を押し当てると左手で包んだ。
レノの顔色は、赤みも取れて、もう随分と良くなっている。そっとレノの額に触れると、すっかり熱も下がっていたので、イリスはほっと胸を撫で下ろした。
イリスが手早く侍女服に着替えて身支度を終えた時、レノが起き上がって目を擦った。
「イリス、おはよう。
えっと、兄さんはどこ……?」
きょろきょろと室内を見回すレノに、イリスは優しく答えた。
「マーベリック様は、昨夜は確かにレノ様のところについていてくださいましたよ。
……もう、今日が魔物討伐の遠征への出発の日ですから。きっと、今はご準備をなさっているのでしょうね」
ちょうどその時、遠慮がちにドアがノックされた。レノが寝ていたら起こさないようにとの気遣いが感じられる、そのノックの主は、やはりマーベリックだった。そっと扉が開けられ、マーベリックの顔がドアの隙間から覗く。
「あっ、兄さん!!」
高く嬉しそうな声を上げて、レノはマーベリックのところに飛んで行くと、勢いよく彼に抱きついた。そんなレノの身体を、マーベリックも笑顔で抱き締め、そしてひょいと抱き上げる。
レノの額をこつんと自分の額に当てたマーベリックは、にっこりとレノに笑い掛けた。
「すっかり、熱は下がったみたいだな。本当によかった。
これで、俺も安心して出発できるよ」
「兄さん、絶対元気に帰って来てね!!
魔物なんて、すぐにやっつけちゃってね」
「ああ、そうだな。早く街にも一緒に出掛けたいしな。
レノも、イリスと、元気に待っているんだよ」
「うん!」
マーベリックはレノの額に軽くキスをすると、レノを地面に下ろして、もう一度抱き締めた。
そんな2人の様子を、イリスも微笑ましげに見つめていた。
「……イリス」
マーベリックが、今度はイリスに視線を向ける。昨夜のことを思い出して少し気恥ずかしかったものの、イリスはマーベリックに駆け寄って、精一杯の言葉を紡いだ。
「マーベリック様、どうかご無事で。
マーベリック様のご無事を、心よりお祈りしておりますわ」
「イリス、ありがとう。
レノのことを、よろしく頼むよ」
そう言ったマーベリックは、イリスの瞳を覗き込むようにしてから、イリスに顔を近付けると、そっとイリスの白い額に唇を落とした。
(ひゃあっ………!!!???)
思わず額を押さえて、ぶわっと顔中が真っ赤になったイリスの瞳を再度楽しげに覗いたマーベリックは、2人にひらひらと手を振ってから、離れの扉を出て行った。
イリスは、あまりの動揺に、惚けたように動けなくなっていた。
(い、今のは、いったい何!?
……レノ様にも、同じことをしていたのだもの、マーベリック様にとっては、きっと単純な挨拶以上の何物でもないのよね。
そうよ、きっとそうに違いないわ……)
イリスはそう自分に言い聞かせながらも、まだ動けずに固まったままでいた。マーベリックの背中が見えなくなるまで大きく手を振り続けるレノの横で、柔らかな感触の残る、マーベリックの唇が触れた額を押さえながら、イリスはマーベリックの後ろ姿をじっと見送っていた。
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