レノの発熱

マーベリックとレノと一緒に、1日の大半の時間を過ごす日々が、イリスの日常になりつつあった。


レノ付きの侍女にでもなることがなければ、決して縁のない男性だっただろうと、イリスがそう感じていたマーベリックだったけれど、彼は、イリスが戸惑うほどに、何故かイリスには甘かった。


マーベリックは、ことあるごとにイリスに柔らかな視線を向けて、温かい言葉を掛けては、頭を時折優しく撫でたりもするので、その度にイリスの胸はどきりと跳ねた。何もかもが自分からは遠い存在だと感じていたマーベリックが、常にイリスに紳士的に、大切に扱ってくれることに対して、イリスは胸が熱くなるのを抑えることができずにいた。

地位が高くなる度、イリスに対する態度が冷たくなっていったケンドールとは対照的に、既に天才の名を欲しいままにしているマーベリックが、まるで繊細な宝物でも扱うようにイリスに接してくれることが、イリスにはまだ信じられないような気持ちだった。ケンドールに受けた心の傷も、マーベリックとレノのお蔭で、イリスにはすっかり過去のことになりつつあった。


つい思ったことが顔に出てしまうイリスが、マーベリックを前にしてその頬をかあっと真っ赤に染めると、彼はそんなイリスの様子を嬉しそうに見つめるものだから、イリスはしどろもどろになってしまう。そんな2人の様子を、レノは歳の割にはませた表情で、楽しげに見つめていた。


ただ、すぐ目前に迫っていたマーベリックの魔物討伐の遠征は、イリスの心に不安の影を落としていた。それは、レノにとっても同じだったようだ。


マーベリックの参加する遠征を翌日に控えた夜、寝間着に着替えたレノは、眠そうに目を擦りながら、離れの部屋の片付けをしていたイリスに近付くと、紺の侍女服の裾を甘えるように引っ張った。マーベリックは、夕食を2人と一緒にとってから、遠征の準備のために自室に戻っていた。


「ねえ、イリス。寝る前に本を読んでもらってもいい?」

「ええ、もちろん。ここの片付けだけ済ませたら、すぐに本の用意をしますね」


手早く片付けを済ませ、レノの元に戻ったイリスは、本棚から数冊、短めの本を見繕うと、ソファーに座ったレノの横に腰を下ろした。本を開いて読み始めると間もなく、レノはうとうとと半分目を閉じて、こくりこくりとその小さな頭が下がり始めた。


イリスはレノに優しく微笑んだ。


「レノ様、きっと、たくさん遊んだ疲れが出ているのでしょう。そろそろ、ベッドに入りましょうか?」

「うん」


ベッドに身体を横たえたレノに、イリスはふわりと毛布を掛けた。けれど、レノは何を思ったのか、再度上半身を起こすと、イリスのことをじっと見つめた。その手には、枕がぎゅっと抱き締められている。


「ねえ、イリス。今日は、僕と一緒に寝てもらってもいい?」


(……わ、天使……!)


上目遣いでイリスを見上げたレノは、イリスにとって身悶えしそうなほどに可愛かった。


どうしたものかと少し躊躇ったイリスだったけれど、レノの心許ない様子の表情を見て、思わずこくりと頷いた。マーベリックが遠征に出ることに、言葉には表せない不安を抱えているであろうレノの心を、少しでも癒せるのならと、イリスはそう思っていた。


「わかりました。

少し支度をしたら、すぐに戻ってまいりますね。眠かったら、私のことは気にせずにお休みになられていてくださいね?」

「やった!僕、絶対に起きて待ってるから」


途端に、輝くような笑顔を浮かべたレノは、イリスに大きく頷いた。


*** 

「レノ様、お待たせしてしまってごめんなさい。さあ、そろそろ寝ましょうか?」


夜着に着替えてガウンを羽織ったイリスは、レノと一緒にベッドの中に入った。小さなレノの体温で、毛布の内側が温まっている。


その時、イリスは、レノの顔が少し赤いことに気付いてはっとすると、すぐにレノの額に掌を当てた。


(……やっぱり、熱があるわ……!)


イリスは慌ててベッドから飛び起きた。


「レノ様、大変!お熱があるようです。お身体がお辛かったのではないですか?

すぐに、薬などを用意して来ますね」


急ぎ足で調理場に行き、薬草を鍋に入れて煮込みながら、氷を小さなボウルに入れて水を注いでいたイリスに、その焦りの隠せない表情に気付いたレベッカが駆け寄って来て話し掛けた。


「イリス、どうしたの?レノ様に何か?」

「ええ、レノ様、熱があるみたいなの。すぐに、薬湯と、氷水とタオルを持って離れに戻るわ」

「まあ、それは大変……」


レベッカは心配そうに眉を下げた。


「レノ様に申し訳ないわ、私がもっと早く、レノ様の体調の変化に気付いていたら……。

今夜はいつも以上に寂しそうな、甘えた様子をしていたのも、きっと熱のせいだったのね」


唇を噛んだイリスに対して、レベッカは首を横に振った。


「いいえ、それは、イリスのせいではないと思うわ。

……レノ様が、マーベリック様がご不在になさる直前に体調を崩すことは、これまでもよくあったのよ。きっと、精神的なものもあるのでしょうね。

今晩、レノ様についていて差し上げることはできるかしら?」

「ええ、勿論よ」


足早に離れに戻ったイリスは、赤い顔でふうふうと息をするレノの額に、氷水に浸してから絞った冷たいタオルをそっと乗せた。


レノが薄く目を開く。


「イリス、ありがとう。おでこが冷たくて、気持ちいい」

「レノ様、私がついていながら、お熱に気付くのが遅れてしまって、ごめんなさい。

……薬湯を用意してあるのですが、飲めそうですか?」

「うん、大丈夫。飲めるよ」


額に乗せたタオルをいったんイリスが手に取ると、レノは上半身を起こして、時間をかけて薬湯を飲み干した。

またベッドに身体を横たえたレノの額に、イリスは再度冷やし直したタオルを乗せた。


瞼を閉じたレノを見て、イリスはそっとベッドサイドから離れると、窓の外を見上げて膝を折り、胸元に光る赤紫のペンダントにそっと触れると、頭を下げてその瞳を閉じた。


(どうか、レノ様の熱が下がって、風邪が早く治りますように。

マーベリック様が、遠征中、ご無事で過ごせますように。魔物討伐が成功して、マーベリック様が早くレノ様の元に帰って来れますように……)


イリスが胸の中で祈りを捧げていると、後ろから、レノの弱々しい声が聞こえた。


「イリス、何をしているの?」


イリスは振り向くと、レノに向かって微笑んだ。


「あら、まだ起きていらっしゃったのですね。

レノ様が早く良くなるようにと、そう祈っていたのですよ」


レノは、赤い顔のままでじっとイリスを見つめた。


「ね、イリス。

お祈りをするなら、兄さんの安全もお祈りしてくれる?」

「勿論です。しっかりと、マーベリック様のご無事もお祈りしておきましたからね」

「よかった、ありがとう」


(ご自分の体調の悪い時に、マーベリック様の心配をするなんて。レノ様、何て優しくていい子なのかしら)


イリスの感動を知ってか知らずか、イリスの言葉にほっとしたような笑みを浮かべたレノは、イリスのことを手招きした。


「ねえ、イリス、こっちに来て。

僕の横に来て欲しいな……でも、僕の風邪を移しちゃうかな?」

「いえ、私のことなら心配いりませんから。

今まいりますね」


イリスがレノのベッドサイドへと戻った時、部屋のドアがガチャリと開いた。

美しい顔を少し翳らせ、表情に焦りを浮かべたマーベリックの姿が見える。


「兄さん!来てくれたんだね」


ぱっと明るい表情になって口を開いたレノに、マーベリックは頷いた。


「ああ。さっき、レベッカに会って、レノの熱のことを聞いてな。

それで、慌てて飛んで来たんだ」


イリスは申し訳ない思いで、マーベリックに頭を下げた。


「私がレノ様の体調の変化に気付かなかったせいで、すみませんでした」

「いや、君のせいじゃない。レベッカからも聞いたかもしれないが、レノが、俺が家を空けるタイミングで体調を崩すのは、今に始まったことじゃないからな。それに、ここ最近、これほどにレノの調子が良かったことの方が、珍しかったくらいだ。

……具合はどうだ、レノ。苦しいか?」


レノは首を小さく左右に振った。


「ううん、大丈夫。今までと比べたら、それほど辛くはないんだ。

……でも、今晩は兄さんにも側についていてもらっても、いいかなあ?」

「ああ、構わないさ」

「やった!

……じゃあ、さ。

兄さんには僕の右に、イリスには僕の左に来てもらえる?」


レノのベッドの横、それぞれ右と左に立ったマーベリックとイリスを見上げてから、レノは、ベッドの上、自分の両脇をぽんぽんと叩いた。


「そんな所に一晩中立ってはいられないでしょ?

さ、2人ともベッドに入って?」


マーベリックとイリスは、レノの言葉に思わず顔を見合わせた。レノのベッドは、大人用のダブルベッドほどの十分な大きさがあったから、2人がベッドに入る余裕自体には問題はなかった。けれど、さすがに困惑の表情を浮かべたイリスを見て、マーベリックがレノに諭すように穏やかに言った。


「俺は構わないが、ほら、イリスが困っているだろう?」

「だって、兄さんが遠征に行く前の今日くらい、2人とくっついていたいんだもの……」


そう言って、拗ねた様子で頬を膨らませたレノを見て、イリスは自分に言い聞かせた。


(マーベリック様が私に優しいのは、私がレノ様付きの侍女だから。そうでなければ、私は彼にとって、視界にすら入らない存在のはずだわ。

……これからしばらくマーベリック様と会えないレノ様の、たまにしか聞けない可愛い我儘だもの。こんな時くらい付き合えなくて、どうするの)


イリスは、勇気を出して言葉を絞り出した。


「わ、私なら、大丈夫です。

……では、私、レノ様の左に入らせていただきますね。

マーベリック様は、どうぞ、私のことは空気だとでも思っていてください」


マーベリックが、イリスの赤く染まった頬を見て、ふっと可笑しそうに口元を綻ばせた。


「わかった。イリスがいいなら、それでいい。

……これで、いいんだな?」


マーベリックが、レノの身体の右側に身体を横たえた。イリスも、戸惑いながらも、身体をレノの左側に滑り込ませる。

レノがマーベリックとの間にいるとはいえ、レノを挟んで至近距離に横たわっているマーベリックのことを思うと、自然とイリスの鼓動は速くなった。


「やったあ!

2人とも、あったかい。

……兄さんもイリスも、僕の我儘を聞いてくれて、ありがとう」


満足気に微笑んだレノは、イリスの右手を彼の小さな左手できゅっと握ってから、再度口を開いた。


「ねえ、兄さん、イリス。

僕、兄さんが魔物討伐の遠征から帰ったら、3人で街に出掛けてみたいな」

「……街に、かい?」


少し驚いた様子のマーベリックの声に、レノは頷いた。


「長いこと、ここに籠もってばかりで、家の外には出ていなかったから。

……兄さんとイリスと、色んなお店を見たり、珍しい食べ物を食べたりできたら、きっと楽しいだろうなと思って」

「わかった、約束するよ、レノ。

遠征から帰ったら、一緒に街に出掛けることにしよう。イリスも、ついて来てくれるかい?」

「ええ、勿論ご一緒させてください」

「えへへ、やったあ。2人とも、ありがとう。楽しみに帰りを待ってるよ、兄さん」


にっこりと嬉しそうに笑ったレノは、目を閉じると間もなく、穏やかな寝息を立て始めた。

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