温かな腕の中
(わっ。マ、マーベリック、様……!?)
イリスは、マーベリックの温かく大きな掌に自分の手が包まれている感覚に、鼓動が早くなって眩暈がしそうだった。しかも、なかなかマーベリックが手を離してくれる気配はない。
そっと手を引いてみたけれど、意外にもイリスの手はしっかりと握られていて、なかなか抜けなかった。
「あ、あのう、マーベリック様」
「何だい?」
「その、手を……」
「ああ。イリスの手は冷んやりしていて気持ちがいいな」
「……!?」
マーベリックの予想外の言葉に、そろそろ放してください、と頼もうとしたイリスの言葉は、喉元まで出かかったところで飲み込まれた。
「え、ええと、そうでしょうか」
思わず間の抜けた答えを返してしまい、イリスの顔はますます真っ赤になった。そんなイリスを振り返った、美麗なマーベリックの口元には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。
たいした距離もないはずなのに、やたらと胸がうるさくて、長く感じた離れまでの道をイリスがようやく最後まで辿り着くと、レノが玄関先で2人を待ちわびていた。
「兄さん、イリス!
早く早く。今日は外で遊ぼう?」
自然な動作でイリスの手を放したマーベリックは、レノに優しく笑い掛けた。
「そうだな、今日は天気もいいしな」
「イリスも、もちろん来てくれるよね?
イリスの仕事は、僕と遊んでくれることだもんねー」
レノがイリスに、にっと笑う。小悪魔のような、悪戯っぽいレノの笑みも可愛いけれど、そんな正論を言われてしまうと、イリスにも逃げ場がない。せっかくなのでお2人で……とも言えなくなってしまう。
なかなか手強い兄弟だわ、とイリスは内心思いながら、レノにこくりと頷いたのだった。
***
会った当初は、あまりに能力も容姿も完璧なマーベリックを前にすると、どうしても緊張が解けなかったイリスだったけれど、3人一緒に虫捕りをしたり、かくれんぼをしたりしながら、明るい陽射しの下で過ごす時間は、思いのほか楽しかった。同じようにレノを大切に思う者同士だからか、レノを介すと、イリスはさほど気後れをせずに、マーベリックともごく自然に話すことができた。
マーベリックがいる時は、2人の邪魔をしないようにと、イリスは気を遣って場を外すようにしていたのだけれど、レノにはそれがずっと不満だったようだ。
ようやく3人で遊べたことに満足しているらしい、レノの咲くような笑顔を見て、イリスの心も温かくなった。
レノが木登りを始めたのを、木の下から見守っていたイリスは、すぐ横で同じくレノを見守っていたマーベリックに話し掛けた。
「レノ様、元気ですよね。私では体力が追いつかないくらいです」
「そうだな。急に体調を崩すこともあるが、最近は元気な日が多くて、安心しているよ。レノの体調が悪い時に、仕事で家を空けなければならない時ほど、心配なことはないからな」
ひょいひょいと身軽に木を上っていくレノを、優しい眼差しで追うマーベリックを見て、イリスの胸の奥はじわりと熱くなった。
(ほんとうに、弟思いの優しい方ね、マーベリック様って。
……自分のことより何より、レノ様を大切に思っていらっしゃるのね)
「あの、マーベリック様のお時間は、今は大丈夫なのですか?」
「……もうじき、大規模な魔物討伐の遠征に参加することになっている。それなりに長期になりそうだ。
まあ、それでも、ヴィンセントのように魔術師団に属して、四六時中魔物の対応に追われるのに比べれば、たいしたことはないがな。
だから、出発までの時間は、できるだけレノと過ごしたいと思ってね」
「そう、でしたか……」
マーベリックの身を案じて、イリスの顔が曇った。イリスの父も、長期の魔物討伐の遠征中に亡くしている。いくらマーベリックが天才と呼ばれているとはいえ、危険と隣合わせであることには違いなかった。
「マーベリック様のご無事を、心からお祈りしておりますね」
心の籠もったイリスの言葉に、マーベリックは微笑んで頷いた。
「ああ、ありがとう。その間、レノのことを頼むよ」
2人が談笑する横で、するするとレノが器用に木から下りて来た。
「ねえ、次は追い掛けっこをしよう?
兄さん相手じゃ敵わないから、イリス、僕を捕まえて!」
「わかったわ、レノ様。でも、私も容赦はしませんよ?」
キャッキャと高い声を上げて庭を逃げて行くレノは、年相応の活発な男の子という感じで、イリスはそんな彼の様子に嬉しくなった。少し前まで塞ぎがちだったなど、今のレノを見ていると、とても思えなかった。
それはそれで嬉しいものの、遊びに付き合う身としてはなかなか大変でもある。
(速いわね、レノ様……)
イリスも全力で走って追い掛けているのに、レノにはなかなか追い付かない。
ようやく池のほとりにレノを追い込み、息を上げたイリスがレノに手を伸ばした時、レノはひらりとイリスから身を躱した。
勢いをつけてレノに手を伸ばしていたイリスは、運悪く、足元の石に躓いてしまった。バランスを崩したイリスの身体は、池の水面に向かってぐらりと傾いた。
(……あ、いけない。落ちる……)
陽光を弾く水面がイリスの目の前に近付いた時、びゅうっとイリスの周りで風が渦巻いた。思わずぎゅっと目を閉じたイリスは、身体がふわりと浮き上がるのを感じた。
「え……!?」
そのまましばらく宙を漂った後、イリスの身体は、優しく2本の腕に抱き留められていた。
恐る恐るイリスが目を開けると、イリスの顔を、宝石のようなアイスブルーの瞳が間近から覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
「……!!」
驚きと戸惑いに急に高鳴ったイリスの胸は、大丈夫とはまったくいえなかったけれど、イリスは何とか、マーベリックに無言でこくこくと頷いた。
一見華奢なマーベリックの腕は予想外に力強く、そしてイリスを抱き留める腕の温かさがイリスに伝わってきて、イリスは自分の身体中が恥ずかしさに熱を帯びるように感じて、思わず目を伏せた。
「イリス、ごめんね。大丈夫!?
ちょっと、調子に乗り過ぎちゃった……。
兄さんが風魔法をかけてくれて、よかったよ」
(これが、マーベリック様の風魔法……)
申し訳なさそうな表情で駆け寄って来たレノに、イリスは慌てて首を横に振った。
「いいえ、私がうっかりしていただけだもの。
あの、マーベリック様、助けてくださってありがとうございます。私なんて、風魔法を使っていただくのに値するほどの者でもないのに……」
「……」
マーベリックが少し口を噤んだので、イリスは少し不安になって、伏せていた視線を上げてマーベリックを見つめた。彼の澄んだ目は、じっとイリスを見つめたままだ。
「……イリス。君は、俺たちにとって大切な女性だよ。
だから、自分に対して『なんて』などという言葉は、今後使わないで欲しい。いいかい?」
穏やかな口調でそうイリスに告げたマーベリックは、イリスの答えを促すように、イリスを両腕に抱いたまま、じっと待っていた。
イリスは、両の瞳にじわりと涙が湧き上がって来るのを感じた。
クルムロフ家では、ベラやヘレナに、聞き飽きるくらい、あなたなんて、と言われ続けて来たのだから。
「……はい」
イリスがそう答えると、マーベリックは柔らかく微笑んで頷き、ようやくイリスをそっと地面に下ろしてくれた。
イリスの身体を下ろす直前に、マーベリックの両腕にぎゅっと力が込められ、抱き締められたような気がして、イリスは動揺で足元が覚束なくなった。
マーベリックの両腕が離れても、イリスからは、その温かな彼の腕の感覚も、そして、胸の奥底に帯びた熱も、そのまま消えることはなかった。
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