近付く距離

(ああ……幸せ!

こんなに、毎日幸せでいいのかしら……)


イリスは、侍女用の一室のベッドで目を覚ますと、大きく伸びをした。カーテンの隙間からは、明るい陽射しが差し込んでいる。今日も天気は快晴のようだ。


手早く紺色の侍女服に着替え、身支度を整える。箒を持って庭に出ると、まだひんやりと冷たく澄んだ、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


庭の掃き掃除を終えて、今度は屋敷内に戻り雑巾で窓を拭いていると、後ろからソニアのまだ眠そうな声がした。


「イリス、朝早くから精が出るわね!本当に、あなた働き者よね。

イリスはレノ様の担当なんだから、レノ様のお世話以外には、何もしなくたって誰も何も言わないのに」


イリスはソニアを振り返って、にっこりと明るく笑った。


「身体を動かすのも気持ちがいいしね。こんなに恵まれた環境で働かせてもらっているのだもの、これくらいは何ともないわ。レノ様と過ごすのだって、ただ楽しいだけなんだもの。仕事という感じは全然しないわ」

「そう、それならいいんだけど。確かに、すごく明るい、いい表情をしてるわね、イリス」

「ふふ、そうかしら」


イリスにとって、このエヴェレット家で過ごす侍女としての生活は、クルムロフ家で過ごしていた時の環境とは雲泥の差だった。


クルムロフ家でも、モリーのように庇ってくれる使用人も少数はいたけれど、使用人たちは概ね皆がベラとヘレナの顔色を窺っていて、イリスにとっては居心地の悪い思いをすることも多かった。ベラとヘレナは、イリスの顔を見る度に何かしら辛辣な言葉を浴びせたし、当然のような顔をして、使用人以上といっていいほどにイリスのことを都合よく働かせていた。魔術師の娘なのに魔法が使えないなんて……と周囲の者に後ろ指を指されることもあったし、婚約者だったケンドールですら、ヘレナとの仲を深めてからは、イリスに味方してくれることはなかった。イリスはそんな環境にも諦めて、慣れたつもりでいたけれど、それでもじわじわと心が暗く蝕まれていたようだということに、エヴェレット家に来てからようやく気付いたのだった。


エヴェレット家では、レベッカを除いて、誰もイリスが魔術師の娘だったとは知らない。働き者の新入り侍女として、歓迎の眼差しを向けてくれるだけだ。重く沈んでいた気持ちが、解放されてすうっと軽くなり、そしてケンドールに棄てられて傷付いた心も次第に癒えていくのを、イリスは感じていた。


特に、レノと過ごす時間は、イリスにとっては至福の時間だった。イリスを慕い、必要としてくれるレノの存在は、両親を亡くし、ケンドールの心を失ってから、誰からも必要とされない寂しさを感じていたイリスの心を、とりわけ癒してくれた。


(これほど恵まれた環境で、衣食住も保証されて、さらにお給金までもらえるなんて、何だか申し訳ないくらいだわ)


イリスは、そう思いながら、エヴェレット家での侍女としての生活を心から楽しんでいたのだった。


イリスは、一通り朝の掃除を済ませると、レノの朝食の準備をして離れへと向かう。日によっては、レノの希望に応じて一緒に朝食をとり、そのままレノと1日一緒に過ごすというのがお決まりのルーティンだった。


一つだけ、イリスに取ってまだ慣れずにいることは、レノと過ごしていると、マーベリックが時折姿を見せては、一見近寄り難そうな印象とは対照的な温かな眼差しを、レノだけではなくイリスにまで向けてくることだった。


***

「イリス、おはよう」


いつものように、朝食を盆に乗せて離れに向かうと、レノが欠伸をしながらイリスに駆け寄ってきた。


「おはようございます、レノ様」


(ふふ、今日も可愛いわ、レノ様)


にっこりと笑ったイリスは、レノの朝食をテーブルに置いてからレノの頭を優しく撫でた。


その時、部屋の奥からも、低く澄んだ耳触りのよい男性の声が聞こえてきた。


「おはよう、イリス」

「……おはようございます、マーベリック様。

マーベリック様もいらしていたのですね、今、マーベリック様の分の朝食もお持ちしますね」

「イリス、あと2人分の朝食を用意してもらっても?」

「2人分、ですか……?

承知しました、ではすぐにこちらにお持ちしますね」


イリスは軽く頭を下げてから、急いで朝食の準備のために本邸へと向かった。

いつも、レノには彼お気に入りのパンケーキを特別に焼くことにしている。それに、屋敷の者たち全員のために調理されているスープやベーコンエッグ、サラダを添えていた。イリスは同じパンケーキを手早くさらに2人分焼いてから、スープなどのほかの皿も盆に乗せると、早足で離れに戻った。


2人分の朝食をテーブルに調えてから部屋を出ようとしていると、レノがイリスの手を引いた。


「ね、イリス。そこに座って?」


今準備し終えた朝食の前の椅子のところに、レノがイリスの手を引っ張って行く。


「今朝はどなたか、ほかにいらっしゃるのでは……?」


戸惑いの表情を浮かべたイリスに、マーベリックが口を開く。


「いや。それは君の分だよ、イリス」

「でも……」

「イリス、今日は一緒に食べよう?

兄さんがいると、イリス、いつも遠慮してすぐに行っちゃうんだもの。もうイリスの分も用意してあるんだもの、いいでしょう。ね?」


レノとマーベリックは、示し合わせたような視線を交わし、明るく悪戯っぽい笑みを浮かべている。

そんな様子に、イリスもついくすりと笑った。


「わざわざ、お気遣いくださったのですね。では、お言葉に甘えて」


そうして、イリスも2人に混ざってテーブルを囲んだ。レノの楽しげな様子に、マーベリックも目を細めている。


(もう、男性にはしばらく関わりたくないと思っていたし、マーベリック様のこともつい避けがちになっていたけれど……)


目の前の2人の様子を見ながら、イリスは思った。


(……冷静になって考えてみたら、マーベリック様のような雲の上のお方が、目立たない単なる侍女の私に何かを思うはずもないもの。レノ様のためを思って、レノ様付きの私にも親切にしてくださっているだけだし、気にし過ぎることもないわね)


そう思うと、イリスは気持ちが随分と楽になった。


レノは、朝食のパンケーキを見てにっこりと嬉しそうに笑った。


「兄さん、イリスのパンケーキはふわふわで絶品なんだよ」

「あ、レノ様、パンケーキ冷めてしまっていませんか?私のと交換しましょうか」

「ううん、大丈夫。でも、イリスのも一口ちょうだい?」


レノがさっとフォークを出して、ひょいとイリスの皿からパンケーキを切り取ると、ぱくりと口に放り込んだ。


その様子を見て、マーベリックとイリスは顔を見合わせると、同じタイミングで吹き出した。


「レノ様、私の分もお好きなだけ召し上がって構いませんからね」

「……レノ、お前は、イリスには随分甘えるんだな」

「へへっ。でも、本当に美味しいんだよ?兄さんも食べてみて」


マーベリックも目の前のパンケーキを口に運んだ。


「ほう、これは美味いな」


驚いたように呟いたマーベリックに、イリスは頬を染めた。


「お口に合ったなら、よかったです」


自分の作ったものが喜んでもらえるというのは、やっぱり嬉しいものだ。


和やかに朝食が終わり、イリスが皿を重ねた盆を運ぼうとしていると、横からマーベリックが、イリスの手元から一つ盆を取り上げた。


「俺も手伝うよ」

「いえいえ!さすがに、そこまでしていただく訳には……」

「その方が早いだろう。レノも早く君と遊びたがっているからな」

「……すみません、ありがとうございます」


両手に盆を乗せ、マーベリックと連れ立って本邸に戻る道すがら、マーベリックはイリスに向かって柔らかな笑みを向けた。


「君がここに来てくれてからというもの、レノの表情が明るくなったよ。前は、塞ぎ込むことも多かったんだがな……。

君には、本当に感謝している」

「いえ。レノ様は素直で優しくて、一緒にいると、私の方が癒されていますわ。

本当に、可愛い弟さんですね」

「はは、そうだろう?」


マーベリックが、心から嬉しそうな笑みを顔中に浮かべている。普段は、あまりに整っているが故に、冷たい印象も受けるマーベリックの顔だったけれど、大きく笑うと、まるで少年のようなあどけなさも見えた。マーベリックの笑みが、イリスの中で、くしゃりと笑うレノの笑みと重なる。


「マーベリック様、笑顔がレノ様にそっくりですね……」


思わずそう呟いたイリスを、マーベリックははっとしたように見つめた。

今まで、マーベリックとヴィンセントは美しいが、レノは化け物のようで醜いと、レノを見た者たちには影に日向に囁かれていたのだ。レノを爪弾きにして、ヴィンセントと2人、美形兄弟と言われることを、マーベリックは何より嫌っていたし、レノと似ていると言われたことなど、今まで一度もなかった。


(イリスは、レノのあの姿も、自然に受け止めているんだな。

レノの純粋で優しい本質を理解して、愛してくれているのがよくわかる)


レノのことを嬉しそうに話すイリスの表情は、マーベリックにとっても好ましく、とても愛らしく見えた。


盆に乗せた皿を運び終えて、イリスはマーベリックに微笑むと頭を下げた。


「お手を煩わせてしまいましたが、ありがとうございました。これだけ片付けてから、また離れに戻りますね。

マーベリック様は、先にレノ様のところに戻っていてくださいね」


洗い物をしようとイリスが袖をまくろうとしていると、横からソニアの驚いた声が聞こえた。


「まあ、イリスに、マーベリック様!」


ソニアはイリスに駆け寄ると、イリスに興奮気味に囁いた。


「……ね、イリス、これくらい片付けておくから、マーベリック様と一緒に戻って。

こんなの、初めて見たわ……!」

「えっ」


マーベリックは、ソニアの言葉ににっこりと笑うと、戸惑っているイリスの手を取った。


「では、イリスは借りていくよ。レノも待っているからな」


困惑気味にソニアを振り返ったイリスだったけれど、ソニアはイリスにぱちりとウインクを返している。


マーベリックの手は大きく温かく、想像以上に滑らかだった。イリスは頬に血が上るのを感じながら、彼に手を引かれるままに、レノのいる離れへの道を戻って行った。

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