マーベリックの視線

レノと庭で過ごしているうち、いつしかあっという間に陽が落ちて、辺りに薄闇が下り、肌寒くなってきたことにイリスが気付いたのと、レノが小さくくしゃみをしたのが同時だった。


「くしゅん」


イリスは、慌てて自分の肩にかけていたストールを外すと、レノにふわりと被せた。


「レノ様、ごめんなさい。すっかり冷えてまいりましたね。そろそろ離れの中に入りましょうか」

「うーん、もっと遊んでいたいけど……。

楽しいと、時間てすぐに過ぎちゃうんだね?」

「そうね、私も同じことを考えていたわ。

でも、レノ様が風邪でも引いてしまったら、元も子もないですから。しばらくベッドで動けなくなっても困るでしょう?

また明日、一緒に遊びましょうね」

「はあい」


離れに戻り、室内に灯りを燈すと、遊び疲れた様子でソファーに寝転がったレノに、イリスはにこりと笑い掛けた。


「たくさん遊んで、少しお疲れのようですね。

これから、夕飯の支度をしてまいりますから、少し待っていてくださいね」


頷いたレノを背にして、イリスは本邸の方に向かって行った。


ちょうど裏口から屋敷に入ったところで、聞き慣れたレベッカの声が聞こえた。


「あら、イリス、今戻ったのね。

レノ様の様子は、どうでしたか?」

「レノ様、とっても可愛くて。遊んでいたらあっという間に暗くなってしまったわ」

「まあ、それは嬉しい報告だわ。

今まで、逃げ帰るように離れから戻って来る侍女も多かったから……」


(あんなに、素直で可愛いのに……)


レノのことを思って表情に影の差したイリスの肩を、レベッカは元気付けるように叩いた。


「これから、イリスがレノ様をたくさん笑顔にして差し上げればいいのよ。ね?


さて、そろそろ、お夕食をレノ様のところにお持ちして欲しいと思っているのだけれど、いいかしら。


まだ、屋敷内はそれほど案内していなかったわね。これから調理場に行って、お夕食を離れまで運んでもらったら、その後で、これからの仕事に備えて、一通り屋敷内を案内しましょうか」

「ええ、どうもありがとう」


2人が調理場に入ると、ちょうど鍋の火を止めた若い女性に、レベッカが声を掛けた。


「ソニア!紹介するわね。こちら、今日から入ったイリス。レノ様の担当よ」

「初めまして、イリスと申します」


イリスが頭を下げると、ソニアが、そばかすの散った顔に人の良さそうな笑みを浮かべた。


「まあ、あなたが次のレノ様担当なのね!

私はソニアよ、よろしくね。

……脅す訳じゃないけど、今までレノ様を担当した侍女は、みんな長くは続かなかったのよねえ。イリスは頑張ってね!


お食事をレノ様にお持ちするのよね?もう夕食の準備はできているから、お皿によそって貰えるかしら」

「わかりました」


頷いたイリスに、レベッカが笑い掛けた。


「ソニアはここではもうベテランだから、わからないことがあれば彼女に聞くといいわ。


私もしばらくこの辺りにいるから、また戻ったら声を掛けてちょうだい」

「はい」


イリスが盆にレノ用の料理を盛った皿を乗せて準備をしていると、ソニアが興味津々と言った様子でイリスに尋ねた。


「ねえ、イリスは、もうマーベリック様にはお会いした?」

「いえ、まだお会いしてはいませんわ」

「あ、私には敬語じゃなくていいから。歳も割と近そうだし、遠慮は要らないからね?私のことはソニアって呼んで」

「ありがとう、ソニア」


イリスがにこりと笑うと、ソニアがうっとりとした調子で続けた。


「……マーベリック様、もの凄く綺麗なお顔をしていらっしゃるのよ。それはもう、信じられないくらいに。いつもはフードを目深に被っていらっしゃるから、あまりお顔を近くで見る機会もないのだけれどね。

末の弟のレノ様のこと、とても可愛がっているから、もしかしたら、他の使用人よりもマーベリック様に会う機会も多いかもね。ふふ、役得だと思うわ。

次男のヴィンセント様もお美しいのだけれど、お仕事が余程お忙しいらしくて、ほとんどこの家には帰ってらっしゃらないのよ」

「……ソニアは、レノ様のことを知ってる?とっても素直でいい子なのよ。私は、レノ様の側で彼のお世話ができたら、それで十分だわ。いつか、マーベリック様にもご挨拶できればとは思っているけれど」

「それはいい心がけね!

……レノ様、ほとんど離れに籠りきりだから、残念だけど、ちらっとお見掛けしたことくらいしかないのよ。

でも、イリスみたいな子が来てくれて嬉しいわ。あなたなら、長く続きそうな気がする。今までのレノ様付きの侍女には、どこから噂を聞きつけたのか、マーベリック様にお近付きになりたくて来たような人も多かったみたいなのよ」

「まあ、そうだったの……」

「あ、ごめん、つい話し込んじゃって。イリスの邪魔をしちゃったわね。

冷めないうちに、レノ様のところにお夕食を持って行って差し上げてね。また、改めてゆっくりお話しましょう?

それに、何かわからないことがあれば、いつでも聞いてね」

「ええ、また是非。ありがとう、ソニア」


話しやすい雰囲気の、親切そうな侍女仲間のソニアの存在を嬉しく思いながら、イリスはレノの夕食を乗せた盆を持って、急ぎ足で離れへと向かって行った。


***

イリスが離れのドアをノックすると、中からどうぞとレノの明るい声が返って来たので、イリスはそっとドアを開けた。


「レノ様、お夕食をお持ちしましたよ……」


そう言って微笑んだイリスは、レノの横にもう1人、男性がいることに気が付き、はっと固まった。

レノは、にっこりと嬉しそうにイリスに笑い掛けると、隣に座る男性に話し掛けた。


「イリス、ありがとう!

……兄さん、彼女がイリスだよ。今日、いっぱい一緒に遊んでもらったんだよ」

「それは良かったな」


優しい微笑みをレノに向ける男性の、驚くほどに整った容貌を見て、そしてレノの言葉を聞いて、イリスは彼が誰かを理解した。


テーブルの上にレノの夕食を乗せた盆をいったん置くと、慌ててイリスは男性に向かって頭を下げた。


「初めてお目に掛かります、マーベリック様。今日からレノ様付きの侍女になった、イリスと申します」

「そうか。イリス、レノをよろしく頼む。

……それから、今日はレノと一緒に夕食をとりたいと思っているんだ。すまないが、俺の分の夕食もこちらに用意してもらうことはできるだろうか」

「はい、勿論です。すぐにご用意してお持ちしますね」


今はレノと話していたからか、フードを被ってはいないマーベリックは眩しい程に美しく、イリスは戸惑って思わず目を伏せた。


その時、レノが、何かを思い付いたように、嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。


「そうだ、イリスも一緒に夕食を食べない?

僕、イリスもいてくれたら嬉しいな。

ね、兄さん、いいでしょ?」


イリスはレノの言葉に、慌てて首を横に振った。


「いえいえ!

せっかくの、ご兄弟水入らずの時間なのですから、私がお邪魔をするには及びませんわ。

それに、私はこれから、今後のお仕事のために、お屋敷の中を侍女長に案内してもらう予定なのです。

ですから、レノ様のお気持ちだけ、ありがたくいただいておきますね」

「……そっか、残念。

また今度、イリスの都合が良い時に一緒に食べようね?」

「ええ、レノ様。ありがとうございます。

……では、マーベリック様のお夕食だけ、すぐにお持ちしますね」


一礼してから、ぱたぱたと出て行くイリスの背中を、マーベリックはレノと見送った。

マーベリックは、鋭い視線でイリスを観察していた。


(……今までと、真逆だな……)


マーベリックが今までに出会った侍女たちは、マーベリックに会うと喜色を浮かべ、何とか彼に近付こうと苦心している様子が窺えたけれど、レノには、どこか怯えたような視線や、耐えるような視線を向ける者が多かった。

けれど、たった今離れを出て行ったイリスは、レノに対しては心からの温かな笑顔を向けていたのに、マーベリックからは恥ずかしげにすいっと視線を逸らせてしまった。

夕食の誘いも、今までの侍女たちならば、恐らく喜んで乗って来ただろう。……ただし、レノが夕食に侍女を誘ったのは、これが初めてだったけれど。まだ出会ったばかりだというのに、レノがすっかり心を開いてイリスに懐いている様子に、マーベリックは内心驚きつつも、心が温まる思いだった。


(……イリス、か。興味深いな)


少しして、イリスがマーベリックの夕食を離れに運び、食卓の準備を終えてから部屋を出ようとしていると、マーベリックがイリスに声を掛けた。


「イリス、ちょっと待って?」

「……はい?」


マーベリックの声に振り返ったイリスのところに、彼が立ち上がってゆっくりと近付いてきた。立ち上がるマーベリックの仕草も優雅で、イリスはどぎまぎとしていた。


イリスの目の前に立ったマーベリックは、ふわりとイリスの髪に触れた後、イリスに視線の高さを合わせるように少し身を屈めた。アイスブルーの澄んだ瞳が、イリスをじっと見つめている。


「これ、君の髪に付いていたから」


マーベリックの指先には、一枚の白い花弁が見えた。きっと、イリスがレノと中庭で過ごしていた時に髪に付いたものだろう。


(うわあっ。ち、近いっ……!)


イリスは、あまりに美麗な顔が間近に見えることに、顔中にかあっと血が上るのを感じながら、急いでぺこりと頭を下げた。


「あ、すみません。

わざわざ取ってくださって、ありがとうございます……!」


真っ赤な顔で部屋を出て行くイリスを見て、マーベリックは楽しげな笑みをその口元に浮かべていた。


レノが、マーベリックを見上げて首を傾げた。


「兄さんも、イリスのことを気に入ったの?」

「……レノ、どうしてそう思うんだい?」

「だって兄さん、いつも、女の人には、話し掛けられてようやく、必要最低限を話すくらいじゃない。なのに、イリスには自分から話し掛けてたし。

……それに、あれくらいの花弁なら、兄さんの風魔法で吹き飛ばすことだって簡単でしょう?

それなのに、わざわざイリスの髪から、手で取ってあげてるんだもの」


マーベリックは、レノの問いかけに答える代わりに、その顔に笑みを浮かべたまま、レノの頭をそっと優しく撫でたのだった。

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