レノの笑顔
イリスの視線の先で、振り向いた少年の顔の右半分は、不思議な光沢を放っていた。
(彼が、レノ様……)
レノは椅子から立ち上がり、レベッカとイリスのところに歩いて来た。そっと、窺うような視線をイリスに向けている。
レノは、彼の身長にしては大きめの長衣を着ていて、顔以外の大半がその服に隠れていた。
近くで彼の顔を見たイリスは、彼の顔の右半分に見える光沢は、彼の皮膚が小さな鱗状のもので覆われているからだということに気付いた。肌色に少し金色を混ぜ込んだような輝きのある鱗は、仄暗い部屋の中でも、微かな光を弾いてきらめいていた。
イリスは、レノに怖さや気味悪さを感じる代わりに、どことなく神々しい印象を受けていた。
(竜神様がいるとしたら、彼みたいな感じなのかしら……)
クルムロフ家も飛竜を家の守護神として祀っているからだろうか、竜のような鱗に一部覆われたレノに、イリスは神聖な感じを受けたけれど、それ以上に、まだ幼いながらも真っ直ぐな瞳をした目の前の彼の様子は、イリスには好ましく映った。
左半分の整った顔立ちはまるで人形のようで、右半分の不思議な鱗で覆われた部分も、神秘的な魅力を放っているように、イリスには思えた。ぱっちりと大きな、澄んだ空のような碧眼には、純粋そうな、そして聡明そうな光が宿っている。
慎重な面持ちでイリスに近寄り、じっとイリスの顔を見上げるレノを見て、イリスはにっこりと笑うと、右手を差し出した。
「私はイリスと申します。
まだ今日こちらに来たばかりの新入りですが、レノ様、これからよろしくお願いしますね」
こくりと頷いたレノは、イリスに応じて右手を差し出そうとしてから、はっとしたように右手を引いた。服の右手の袖口から、金色がかった光る鱗が覗いている。恐らく、右半身全体が同じような鱗で覆われているのだろう。
おずおずと戸惑って、左手を差し出そうか悩んでいる様子のレノに対して、イリスは微笑みを浮かべると、彼が引っ込めようとした右手に構わずそのまま手を伸ばして、レノの右手をそっと握った。イリスは、鱗の固さと鋭い爪の感触を手の中に感じたけれど、レノの手は思いのほか温かった。
レノは、自分の右手を包むように握ったイリスの右手を見つめて数回瞬きをしてから、イリスを再度見上げた。
「……ねえ、僕のことが怖くないの?
大抵、みんな僕のこの皮膚を見ると、気味悪そうに、触りたくなさそうに、手を引っ込めるのに」
「いいえ、ちっとも怖くないわ。きらきらしていて、綺麗だと思うわ」
綺麗、という言葉は、イリスの本心だった。
子供は、大人以上に鋭く本音を察するところがある。イリスは、皮膚のことを気にしている様子の彼に対して、曖昧に言葉をごまかすよりも、正直に感じたことを伝えようと思った。
「……そうかな。
そんなこと言われたの、初めて」
照れたように、嬉しそうに、イリスの言葉にレノが頬を染めて笑う。横で2人を見守っていたレベッカが、レノの様子を見てほっとしたような笑顔を浮かべていた。
(うわ、か、可愛い……!)
くしゃりとレノの顔中に浮かべられた、年相応のあどけない笑みに、イリスはすっかり心を掴まれてしまったのだった。
レベッカがレノをイリスに任せて部屋を出て行くと、イリスはレノに尋ねた。
「レノ様、ご挨拶に伺ったせいでお邪魔してしまいましたが。
先程まで、あの書き物机のところで何をしていらしたのですか?」
「……絵を描いてたの。見る?」
「ええ。是非見せて欲しいわ」
軽い足取りでレノは机に向かうと、その上から数枚の画用紙を手に取り上げた。
少し恥ずかしそうに、手にした画用紙をイリスに差し出す。
「はい、これ」
イリスはレノに渡された画用紙に描かれた絵を見て、思わず称賛の声を上げた。
「わあ……!まるで、生きてるみたい。レノ様、とっても絵がお上手なのね」
「へへ、ありがとう。上の兄さんも、いつも僕の絵を褒めてくれるんだよ」
そこには、宙を舞う竜たちの絵が描かれていた。子供らしい幼さも残るものの、絵からそのまま生きて飛び出して来そうな活き活きとした竜たちは、見事な出来栄えだった。
イリスの手元を覗き込みながら、少し自慢気に胸を張るレノの笑顔もそれは可愛い。
「レノ様、凄いわね……!」
イリスにくっつくように身を寄せて来たレノを、イリスは思わず抱き締めてしまった。
驚かせてしまったかと、慌てて身を引く。
「あ、ごめんなさいレノ様。あんまり可愛かったものだから、つい……」
レノはぶんぶんと首を横に振ると、少し目を伏せた。
「ううん。イリスの腕が温かくて、何だかお母様を思い出しちゃった」
少し寂しげな表情をしたレノを励ますように、イリスは彼の頭を優しく撫でた。
「私ではお母様の代わりとまではいかないでしょうが、私でよかったら、いつでも甘えてくださいね?
時間もたっぷりありますし、これから一緒にたくさん遊びましょうね」
レノはにっこりと笑うと、早速というようにイリスの手を引いた。
「ね、僕の描いた竜、あれは、僕の友達なんだよ。僕のところに、よく遊びに来てくれるんだ。
今日も庭に来ているかなあ……?」
(あ、これがもしかすると、レノ様のうわ言って聞いていた……)
イリスはレベッカの言葉を思い出したけれど、レノの瞳には知的な輝きがあり、とてもうわ言を言っているようには見えなかった。
イリスはレノの言葉に頷くと、そのまま彼に手を引かれて、離れの脇にある、背の高い木々に囲まれた中庭へと向かって行った。
レノは嬉しそうに、中庭を囲む木のうち、一番高い1本の木のてっぺんの辺りを指差した。
「あ、いたいた。
ほら、薄青色をしたのが、あそこで翼を広げているでしょう?」
「……」
イリスは、レノの視線の先に目を凝らしたけれど、残念ながら、そこには何も見えなかった。
レノをがっかりさせてしまうだろうかと、少し眉を下げながら、イリスはレノに答えた。
「レノ様には見えるのね。残念だけれど、私には見えないみたい。
よかったら、そこにいる竜がどんな様子をしているのか、私に教えてもらえるかしら?」
「うん、いいよ!
えっとね、大きさはイリスの背の3倍くらいかな。目は真っ赤なルビーみたいで、身体は空みたいな薄青色の鱗で覆われてるんだ。
それから、そこに小さい金色のも来てるよ……」
楽しげに話すレノの言葉に、イリスはにこにこと頷きながら聞いていた。彼が嘘を言っているようには、聞こえなかった。
レノは、小さくあっと声を上げてから目を輝かせた。
「ねぇ、みんな、イリスのことも気に入ったみたいだよ。歓迎してるみたい。ほら、見てて……」
レノが指差した辺りから、突然、びゅうっと小さな風の渦が立ち上がる。中庭の木々に咲いていた花の花弁が、ふわりと風の渦に舞い上がると、レノとイリスの元に運ばれてきた花弁が2人を包むように舞った。
「……っ!?」
驚いたイリスの周りで、まるで風が意志を持っているように、花弁を軽やかに宙に舞わせている。
(いったい、何が起こっているのかしら……)
続いて、中庭の中央にある池からは、内側から立ち上るような水飛沫が高く上がり、陽光を弾いてきらきらと輝いた。飛沫の中に、小さな虹が浮かんでいる。
夜の庭を照らすためだろう、離れの外側に配置されていた複数のランプにも、シュッと音がしたかと思うと、次々と火が揺らめいて明るい炎が灯り始めた。
「うわあっ……!」
興奮に、イリスは頬に熱が集まるのを感じた。まるで、目の前でイリュージョンが繰り広げられているようだ。
イリスはレノの手をきゅっと握ると、にっこりと笑いかけた。
「あなたのお友達、素敵ね。凄いわね……!」
「ね、そうでしょう?」
嬉しそうに微笑み返したレノと一緒に並んで、イリスは目の前の夢を見ているような不思議な光景を、うっとりと見つめていた。
***
マーベリックは、ヴィンセントと乗り込んだ帰りの馬車が動き出すと、横に並んで腰を下ろすヴィンセントに口を開いた。
「ヴィンス、さっきお前が言い掛けていたこと、あれはどういうことだ?」
「前に、兄さん、レノには何か不思議な力があるんじゃないかって、そう言っていたでしょう?レノには生まれた時に、何の魔法の属性も認められなかったけれど……光・火・風・水・土以外にも、もしかしたら、一般に知られていないだけで、この国には他の魔法の属性とか、何かしら別の能力もあるんじゃないかって。
兄さんもご存知の通り、クルムロフ家の先代は魔術師団長まで務められた方です。けれど、私がお世話になったクルムロフ家のご令嬢は、その魔法の能力は受け継がなかったようで、レノと同じように、魔法の属性は有していないと仰っていました。
……でも、解せないのです」
「何がだ?」
「彼女に出会い、手当てをしてもらってから、驚くほどに身体の回復が早いのですよ。
今の私を見ている兄さんからは信じられないかもしれませんが、私があの家に運び込まれた時、私の身体はかなり酷い状態でした。こんな、2日程度で動けるような軽い怪我ではなかった。それは、私も今までに何度となく深手を負ったことがあるからわかります。
……でも、何というか……。あの家にいる時、不思議に身体の内側から湧いてくるような力に、身体が癒されていくのを感じました。これは私の直感ですが、恐らく、これはあのご令嬢によって、何らかの力が働いたのではないかと思われます。まあ、それが何かは、今のところわからず終いですけどね。
レノの周りでも、確かに幾度も不思議なことが起こっているでしょう?レノに言わせれば、私たちには見えないけれど、レノには見える存在がいるとのことでしたが。
……何かをはっきりと確信したとは言い難いですが、今までは半信半疑だった兄さんの言い分も、あり得ない話でもないのかと思ったと、そういうことですよ」
「そうか……」
考え込むような様子をしたマーベリックの横で、馬車の窓から、ヴィンセントの膝にひらりと一通の手紙が落ちた。風魔法により届けられたもののようだ。
ヴィンセントは、すぐに手紙を開くと、小さく溜息を吐いて苦笑した。
「やれやれ、久し振りに家に戻りたかったのですが、そうもいかなくなってしまったようです。動けるのなら戻って来いと、お声が掛かってしまいました。魔術師団の拠点に立ち寄ってもらっても構いませんか?」
「それは構わないが。ヴィンス、まだ身体は本調子ではないだろう。大丈夫なのか?」
「残るのはかすり傷程度で、すこぶる体調は良いですよ。それに、団長としての責任もありますしね」
「……お前にばかり、すまないな」
少し歪められたマーベリックの顔を、ヴィンセントはじっと覗き込んだ。
「……私には、兄さんの方が心配です。
私はこれで良いのですよ。人並みに名誉欲も、権力欲もありますし、父さんと同じように魔術師団長になるのは、幼い頃からの夢でしたから。だから、いくら忙しくても、私は今の生活を気に入っています。
でも、兄さんには、私などよりもずっと優れた能力があるのに、レノのことを慮るばかりに、ご自分の可能性を諦めてはいませんか?
兄さんの加勢が得られるだけで、どの魔術師団も諸手を挙げて歓迎します。今のように、大規模な魔物討伐の際に招ばれるという働き方も、まあよいのかもしれませんが、私には勿体ないように見えますよ。いくらでも、兄さんなら上を狙えるのに」
「いや、これは俺が選んだことだ。何も悔いるところはない」
「……そうですか。なら良いのですが」
ヴィンセントを途中の魔術師団の拠点で下ろし、その後馬車はエヴェレット家に向かった。
馬車では、ヴィンセントの言葉を頭の中で繰り返しながら思案顔を浮かべていたマーベリックだったけれど、馬車が家に着くとすぐに、レノのいる離れへと向かった。
マーベリックにとって、帰宅したらまずレノの元に顔を出すのが習慣になっている。特殊な身体つきに生まれついた弟が、寂しく過ごしていないかどうかは、いつでもマーベリックの心を占めていた。
離れに籠ってしまっているレノが、少しでも幸せに、笑顔で過ごせるようにと心を砕いてはいたけれど、それは今までもなかなか難しかったし、まだ光が見えてはいなかったのだ。
けれど、ふいに風に乗って聞こえてきた、子供の高い笑い声に、マーベリックは驚いて、離れの前で足を止めた。
(あれは、レノの声だ……)
離れに入る代わりに中庭に回り込み、木蔭から様子をそっと覗くと、久しく見たことのないような屈託のない笑顔で、レノがはしゃぎ声を上げていた。その横には、レノににっこりと微笑みかけている、侍女服に身を包んだ優しそうな少女の姿が見える。
(つい最近、またレノ付きの侍女が辞めたと聞いていたが、新しい侍女だろうか……)
控えめな雰囲気ながらも、月の光を散らしたような淡い金髪の少女の、その穏やかで温かな翠色の眼差しは聖母のようにも見えた。
しばらく、無言でその様子をじっと眺めていたマーベリックは、ふっと口元に笑みを浮かべてから、静かにその場を後にしたのだった。
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