魔術師の問い掛け
部屋のベッドにどうにか男性を横たえたイリスは、急ぎ足でやって来たモリーから薬箱を受け取ると、苦しそうな男性の脇に立って傷口の消毒を始めた。
消毒薬で湿らせた布で顔の傷をそっと拭うと、男性の口からまた低い呻き声が漏れた。
「ごめんなさい。……痛みますか?」
「いや、大丈夫です。助けてくださったこと、感謝します。……お名前を伺っても?」
「私はイリスと申します。貴方は?」
「私のことは……ヴィンスと呼んでください」
「わかりました、ヴィンス様。
では、染みるとは思いますが、もう少しだけ我慢していてくださいね」
ヴィンスが頷くと、イリスは消毒を続けた。所々見受けられる深い傷口には止血をし、必要に応じて器用な手付きで包帯を巻いていく。骨折がないか心配だったけれど、どうやら、酷い状態とはいえ打撲だけで済んでいる様子だった。
「ここは、クルムロフ家でしょうか」
「あら、よくご存知ですね?」
「ええ。あれが目に入りましたので」
男性が指差した先には、部屋の壁に飾ってあった盾があった。盾の中央に描かれた、家紋である飛竜の紋章で気付いたということなのだろう。
イリスは頷いてから、口を開いた。
「ところで、随分と酷い打ち身でいらっしゃいますね。いったい、何があったのでしょうか。……魔物に襲われたのですか?」
「まあ、そんなところですね。
レドツェの森で思い掛けず魔物の大群に遭いまして。仲間を逃した後、自分をその場から魔法で飛ばして難を逃れたのですが……その結果がこれです」
「え……レドツェの森!?
ここからは、かなりの距離がありますよね?」
思わずイリスは驚きに声を上げた。
レドツェの森は、街2つ分ほど離れている。ヴィンスは魔法で自分を飛ばしたと言っていたけれど、余程うまくやらないと、普通に考えたら、打ち所が悪ければ即死だろう。
「……随分と無茶をなさったのですね。お命がご無事で何よりでしたわ。
早くお怪我が治るといいですね」
「ええ、ありがとう。
…………っ?」
その時、突然ヴィンスがふっと笑い出したので、イリスはびっくりして軽く身を引いた。
「……あの、どうなさいました?」
「私、凄い顔をしていますね。まるでどこぞの化け物みたいだ」
ヴィンスの視線の先を追うと、イリスの背後にある壁際の鏡に、原形を留めないほど青黒く腫れ上がったヴィンスの顔が映っていた。確かに、なかなかに迫力のある凄い顔である。
「笑えるほどのお元気があるとは、安心しましたわ」
イリスがヴィンスの言葉に思わずくすりと笑うと、ヴィンスがイリスをじっと見つめた。
「こんな酷い顔の私を見て、怖くはなかったですか?
……よく、私のような男を担いで連れ帰ろうと思いましたね」
驚いたような、感心したようなヴィンスの口調に、イリスは首を傾げた。確かに、相当におどろおどろしいような人相にはなっているけれど、それでも、そこに覗く、2つのサファイアのような涼やかな瞳は、誠実そうに澄んだ輝きを放っていたし、怖いなどとは思わなかった。
「だって、怪我をしていらっしゃるんですもの。治療が必要でしょう?
見た目なんて、関係ありませんわ」
「それはそうなのかもしれませんが。……そうは言っても、貴女のような女性は珍しいと思いますよ」
「そうでしょうか?」
「ええ。出来た方ですね」
「とんでもない。……私には、お世辞は結構ですから」
イリスはケンドールを助けた時のことを思い出して苦笑した。きっと、困っている時に助けられた相手は、本当の姿よりも良く見えてしまうものなのだろう。
一通りの処置を終えると、イリスは薬箱の蓋をぱたんと閉めた。
「何か、消化の良さそうなものでもお持ちしますわね。お腹は空いていらっしゃいますか?」
「そうですね。貴女に手当てをしてもらってようやく人心地ついたら、丸2日間何も口にしていないことを思い出しました」
「丸2日も、ですか!?
それは、さぞかし空腹でいらっしゃることでしょう。急いで準備をしてまいりますね」
「……色々と申し訳ありませんね。恩に着ます」
律儀に頭を下げたヴィンスに笑みを向けると、イリスは早足で部屋を後にした。
(やっぱり、薬草粥が良いかしら。すぐに作って持って行かなくちゃ。
早く、あの痛々しい傷が治りますように)
イリスは、そう頭を巡らせながら、ケンドール以外にもその身を慮ることのできる相手が一時的にであれ現れたことが、少し嬉しくなった。
以前ケンドールが怪我をしているところに出会ってから、彼との時間を重ね、婚約して最近に至るまでは……彼から一方的な婚約破棄が言い渡されるまでは、いつだって、彼の身の無事を、そして彼の活躍を、イリスは心から祈っていたのだ。
そんな風に想える相手がいただけでも、自分は幸福だったのだろうと、イリスはそう自分に言い聞かせていたのだったけれど、大怪我をしたヴィンスを前にして、イリスは自分でも誰かに必要とされていることに、そして彼の回復を祈りながら過ごせることに、自分も救われるような思いがしていた。母の生前に、自分ではない誰かのために祈ることを教えられてからというもの、心静かに人の為に祈りを捧げる時間は、イリスにとって心穏やかに過ごせる数少ない時間だったのだ。
彼の回復だけ見届けたら、すぐにこの家を出なければならないだろうけれど、彼の回復までは家に置いてもらおう、そうイリスが思って調理場のドアを開けようとした時だった。
調理場に面した廊下の向こう側から、イリスの姿を認めたモリーが、早足でイリスの元へと走り寄って来た。
「モリー、さっきはどうもありがとう。
少し調理場を借りてもいいかしら?」
「ええ、もちろんですよ、お嬢様。
先程の方に、ですか。よければ私がつくりましょうか?」
「いえ、いいのよ。作るのは簡単な薬草粥だけだし、モリーの手を煩わせるまでのこともないわ」
「左様でございますか。
……ところで、先程の方はどなただったのですか?どなたか、高名なお方なのでしょうか」
イリスは男性のことを思い返しながら首を傾げた。
「ヴィンス様と仰っていたわ。
かなりの魔法の使い手のようにはお見受けしたけれど、それ以上はわからないわ」
「ヴィンス様、ですか。うーん、ちょっと存じ上げませんねぇ。
もしかして……いや、もしそうなら、さすがにあんな所に倒れてらっしゃるなんてことは。
でも、あの上着を見る限り……」
ぶつぶつと口の中で何かを呟いているモリーと連れ立ってイリスは調理場に入ると、薬草粥の準備を始めた。香りの良い、干した薬草の束を戸棚から取り出していると、モリーが眉を下げ、心配そうに、イリスに一歩近付いてから声を落として囁いた。
「ところで、お嬢様。
……お嬢様がこの家を出て行くというのは、本当なのですか?」
イリスは一瞬口を噤んでから、力なく笑った。
「ええ、そうよ。ケンドール様から、私との婚約は破棄されて、彼はヘレナと結婚することになったの。入婿という形で、この家に来るのですって。……私がここに居座る訳にはいかないわ」
「まあ、何てことでしょう!
ケンドール様も、ヘレナ様も、何て恥知らずな。それに、この家を継ぐのは、本来ならお嬢様のはず……」
イリスの答えに憤慨して、怒りの滲んだモリーの声に、イリスは首を横に振った。
「もう、いいのよ。私のことは。
考えてみたら、この家に私が居続けたとしても、『魔法の使えない魔術師の娘』という不名誉な呼ばれ方をするだけだわ。それなら、平民に混ざって働いた方が、私も幸せかもしれないと、そう思ったの。
せっかく、侍女として働けるくらいの知識は身に付いたのだから、できれば侍女としての勤め先でも見付かるといいのだけれど……」
「お嬢様。お嬢様が本心からそのようにお考えなら、勤め口のご紹介はできるかもしれません」
「モリー、本当に!?
お願いできるなら、とっても助かるわ。これからどうしようかと、ちょうど困っていたところだったの」
イリスがぱっと顔を輝かせてモリーの両手を握り、ほっと安堵の表情を浮かべた様子に、モリーも優しく微笑んだ。
「お嬢様、レベッカを覚えていらっしゃいますか?そう、お嬢様を庇おうとして、あの底意地の悪い女主人に楯突いたために解雇された、当時の侍女長です。
彼女が今勤めている先のお屋敷で、侍女を募集しているそうなのです。
……ただ、多少の訳ありみたいで。口の固い人が条件だそうで、今までにも何人かの侍女が立て続けに辞めているようなのですが。
お嬢様、それでも構いませんか?」
イリスはすぐに頷いた。
「ええ、構わないわ。私には選べるような選択肢がある訳でもないし、それにレベッカがいるというだけでも安心ね。
懐かしいわ……。彼女、元気にしているのかしら?」
「はい、ついこの前に会いましたが、相変わらずぴんぴん元気にしていましたよ。
お嬢様のことを、どうなさっているかと今でも心配していましたから、お嬢様に会えるなら、きっと喜ぶと思います。
ただ、お嬢様が侍女として働くことに賛成するかどうかは、わかりませんが……」
「それは、私が説得するわ。
ヴィンス様が回復なさったらすぐに、私はこの家を出ようと思っているの。それまで、待ってもらえるかしら?」
「ええ、それは私から申し伝えておきましょう」
「ありがとう。ではモリー、お願いね。
それから、もう1つお願いがあるの。私のこと、この家の娘としてではなく、ただの1人の侍女として扱って欲しいと思っているの。レベッカから、もしもお嬢様と呼ばれたら困ってしまうし、他の使用人たちから気を遣われても気まずいわ。私からレベッカにも説明するけれど、できれば、私の出自については、その家の誰にも黙っておいて欲しいと、そう伝えておいてもらっても?」
「はい、承知いたしました。
他にも何かお嬢様のためにできることがあれば、遠慮なく仰ってくださいね」
励ますようにイリスの肩を叩いたモリーが、持ち場に戻るために調理場を去ると、イリスは薬草粥を煮込みながら、ようやく自分の未来に光が見えて来たことに感謝したのだった。
***
「ヴィンス様、お待たせしました。
簡単ですが、薬草粥をお持ちしましたわ」
イリスが部屋に入ると、ベッドに横たわっていたヴィンスが上半身を起こした。
「ご親切にありがとう、イリス様」
「私のことはイリスと呼び捨てで構いませんわ」
柔らかな物腰で腰の低いヴィンスだったけれど、よく見ていると、何気ない所作にも品があり、貴族階級でも位の高い人物のように思われた上、年上であろう落ち着いた様子の彼に、イリスはそう言って微笑んだ。
「では、お言葉に甘えてイリスと呼ばせていただきますね。
……私も助けていただいた身で、何なのですが。
単刀直入に伺いますが、イリス、貴女は何者なのですか?」
「……は?」
イリスは、深い海を映すような青色の瞳を鋭く光らせたヴィンスの言葉の意味がわからず、しばし固まってから、その目を瞬いたのだった。
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