出立
イリスは、戸惑いながらも、目の前でじっとイリスに視線を注いでいるヴィンスを見つめ返した。
(ああ、そうか。
こんな侍女服を纏っているのに、モリーにはお嬢様なんて呼ばれていたから、きっと私が誰なのか混乱していらっしゃるのね……)
イリスはきゅっと侍女服のスカートを握った。
「ええと。
私はクルムロフ家の先代の長女に当たります。でも、私には魔法の属性がありませんでしたので……出来ることは身に付けておきたいと、うちの侍女たちに色々教えてもらっていて。それで、動きやすいようにこんな格好をしているのですよ」
「そんなことが……」
少し影の差したイリスの表情に気付いたのか、小声で呟いたヴィンスは、途中で言葉を飲み込んだようだった。
しばし考え込むように視線を彷徨わせてから、ヴィンスはイリスに優しい口調で言った。
「そのようなご事情があったのですね、踏み込んだことを失礼しました。
貴女のお父上……クルムロフ家の先代には、私も昔、お世話になったことがあるのですよ」
「父のことを、ご存知なのですか?」
「ええ。私は、お父上とは魔術師団の所属は違いますが、まだ魔術師団に入って駆け出しの頃に、縁あって助けていただいたことがあるのです。
イリスにも、行き倒れているところに手を差し伸べてもらうなんて、クルムロフ家には助けられてばかりですね」
感謝の気持ちのこもったヴィンスの温かい笑顔に、イリスもつられるように微笑んだ。
「そうだったのですか。
少しでもヴィンス様の助けになっているのなら、嬉しく思いますわ」
イリスは手にしていた薬草粥を乗せた盆をベッド脇の小さなテーブルに置くと、お大事にと彼に声を掛けてから部屋を後にした。
***
部屋に帰ったイリスは、小さな旅行鞄に荷物を纏めた。
クローゼットに並ぶ数枚の簡素な服と、さほど多くない小物の類を概ね鞄に詰め込むと、こぢんまりとしたイリスの部屋は早々に片付いた。
少し寂しい気持ちで住み慣れた部屋を見回していると、乱暴に部屋のドアが開けられた。怒りに顔を赤くしたベラがイリスにがなり立てる。
「イリス!ヘレナに聞いたわよ。
あなた、身元も知れない、ぼろぼろの姿の醜い男をこの家に連れ込んだんですって?」
ヘレナに見られていたのか、と、イリスは小さく溜息を吐いた。
「怪我をなさっているところに、偶然出会したのです。魔術師の方と伺っていますし、お父様のこともご存知だそうですわ。確かにお怪我で顔は腫れていらっしゃいますが、いかがわしい方にはとても見えませんでした。
……私、もうほとんど荷物も纏めました。
彼が回復したらここを出て行きますから、それまでの間だけ、この家に留まらせていただけますか」
ベラは、イリスの言葉の真偽を確かめるように、目を眇めて部屋の中を見回し、ふん、と鼻を鳴らすと、口を開いた。
「こんな時に厄介事を持ち込まないで欲しいものだけれど、まあいいわ。今あの男をここに放り出したまま、あなたがいなくなっても困るし。
……あの男が動けるようにさえなったら、すぐに出て行って頂戴ね?」
「わかりました」
ベラはヘレナの婚約で多少なりとも機嫌がよいのだろう、いつもはねちねちとした小言が多い彼女だったけれど、それ以上のことは言わないままに、イリスの部屋を出て行った。
イリスは、そんなベラの背中を見送ってから、胸元のペンダントをそっと握ると、窓の外を見上げながら跪いた。墨を流したような雲のない夜空に、三日月が白く輝いていた。
ベラやヘレナとは異なり、高価なドレスや宝飾品は買うことのなかったイリスだったけれど、唯一の宝物が、母の形見である、親指の先ほどの赤紫色にきらめくロードライトガーネットのついたペンダントだった。もしもこれが真っ赤な大振りのルビーだったなら、ベラの欲深な視線を浴びたかもしれなかったけれど、ベラは「ふん、ルビーじゃないのね」と、イリスのペンダントを見て興味なさそうに呟いただけだった。
イリスは金の細い鎖の先にある宝石を掌に包み込みながら、心の中でヴィンスの回復を願い祈りを捧げた。
ヴィンスの手当てをしている時も、ヴィンスの回復を心の中で祈っていたけれど、こうして夜ベッドに入る前に、静かに祈りを捧げることが、イリスの日々の習慣だった。
つい昨日まではその身の安全と活躍を誰より祈っていた、ケンドールの名前を思い出さないようにと苦心しつつも、イリスは鼻の奥がつんと痛くなるのを感じた。
***
翌朝、イリスは朝食の用意をして、ヴィンスの部屋の戸を叩いた。
返って来たヴィンスの声に、部屋の戸を開けると、随分と回復した様子の彼の姿がベッドにあった。
(……よかった)
ベッドで上半身を起こしている、昨日よりも元気そうな明るい目をしたヴィンスを見て、イリスはほっと胸を撫で下ろした。経過は順調のようだ。顔の腫れも大分引いて、顔がひと回りほど小さくなったように見える。
「おはようございます。お具合はいかがですか?」
「おはよう、イリス。大分身体の調子も良くなりました。貴女のお蔭です」
「順調に回復なさっているようで、何よりですわ」
イリスは、用意した朝食を乗せた盆をテーブルに置くと、ヴィンスの身体に巻いた包帯と顔の湿布を変えるためにヴィンスの側に近付いた。腕の包帯を解きかけたイリスの手が、一瞬止まる。
(この方、本当に回復が早いわ。どうしてかしら……)
昨日手当てをした時には、確かに深い傷があったはずのその場所は、傷跡は残ってはいるものの、今ではかなりと言ってよいほどに塞がっているのだ。
(ヘレナが、彼に光の属性の回復魔法を?
……いえ、まだあの子には、回復魔法までは使えないはずだわ)
義妹のヘレナの光の属性は、魔法の5つの属性のうち唯一、技量が高まれば回復魔法も使える希少な属性である。12歳から魔術学院に通っているヘレナに対して、魔法の属性なしのイリスは学院に通うことができなかったので、ヘレナの力量が今どの程度なのかはわからなかったけれど、相当に高度な技術と言われていることからは、まだ難しいように思われた。
イリスは、首を傾げながらも、包帯を巻き直してから、ヴィンスの顔の湿布に手を掛けた。
ヴィンスは、なされるがままに大人しくしている。
(……えっ?)
まだ少し擦り傷の跡や青黒い痣は残っているものの、腫れが収まってきた湿布の下からは、ヴィンス本来の顔が現れ始めていた。
彼本来の肌はごく色白で、きめ細かく滑らかなようだ。小さい顔には、まだいびつな腫れも一部に見られたけれど、よくよく見ると顔の各パーツは整っている。まだ瞼には痣が残るものの、切れ長で睫毛の長い瞳に、ようやく出血の止まった、すっと通った高い鼻筋、まだ切り傷の痕はあるものの、薄く形のよい唇。湿布を貼り替える際に触れた彼の黒髪も、さらさらと柔らかく艶やかだった。まだ怪我で痛々しい様子は残っているとはいえ、青黒い怪物のような外観の下から現れ出て来た、意外にも美しいと思われる様子のヴィンスの顔に、まるで狸にでも化かされたような気分になったイリスは、思わず目を擦ると、慌てて新しい湿布に貼り替えた。完全に元通りの顔になるには、まだ時間が必要だろうけれど、元々は整った顔をしているのだろうと、イリスは困惑を隠せなかった。湿布でヴィンスの顔が半分ほど隠れて、ようやく落ち着いて一息吐く。
(もう、男性なんて、御免だわ。
ケンドール様の一件で、もう懲り懲りだもの……。
私は、これから侍女として働いて、身の丈に合った普通の幸せを見つけるんだから)
一通り包帯と湿布を取り替え終えると、イリスは口を開いた。
「ヴィンス様、終わりましたわ。
想像以上に回復が早くて、驚きました。あの、何か、特殊な薬でもお持ちなのですか?」
世の中には、光の属性の者が力を込めた薬というものも存在すると聞いたことのあったイリスは、興味津々でヴィンスに尋ねた。
「ありがとうございます。
いや、特にそのような薬は使ってはいませんよ。貴女の治療のお蔭でしょう」
柔らかい笑みを浮かべたヴィンスに、イリスは戸惑った。
今まで、ケンドール以外にも、イリスは幾人かの治療を手伝ったことがある。幸運なことに、今までの怪我人も、皆程なく回復してはいたけれど、目の前にいるこのヴィンスという人物の回復の早さは驚くほどで、尋常ではないように思われた。
「いえ、私は簡単な治療しかしておりませんもの。
でも、この様子なら、あと1日か2日あれば、十分に回復なさりそうですね?」
「ええ。
今日ですら、昨日に比べたら信じられないくらいに身体が軽くて、もう動けそうにも思えます。けれど、あと少し、お言葉に甘えさせていただきましょうか」
「はい。ご無理は禁物ですよ」
イリスはヴィンスの回復の早さを不思議に思いつつも、それ自体は喜ばしく思いながら、予想以上に早くなりそうな自らの出立にも思いを巡らせたのだった。
***
「もうすぐ、ヴィンス様の家からお迎えの馬車がいらっしゃるのですよね?
私はこれから出掛けてしまうので、ヴィンス様をお見送りできず残念なのですが……」
ヴィンスに出会った2日後の昼下がり、ヴィンスの家の者が、もう問題なく動けるまでに回復したヴィンスを迎えに来ることになっていた。
ちょうど入れ違いになるように、イリスがこれから向かう、レベッカの勤め先への馬車の準備ができたとモリーに聞いて、イリスはヴィンスに別れの挨拶を告げにやって来たのだった。
打撲の痕だらけでほとんど動けなかったヴィンスの身体は驚くほどに癒えているようで、イリスがこの家に連れて来た時からは別人のように、滑らかな動きをしていた。まだ痣が残っており、湿布で一部隠れているとはいえ、誠実そうな、端正ですっきりとした顔立ちも現れていた。
イリスは、目の前の元気そうな彼の様子に嬉しくなり、微笑みを浮かべてから小さく一礼した。
「かなり回復されたみたいで、本当に良かったです。
もう、あのようなお怪我をなさることがないようにと、願っておりますわ」
「イリス、貴女のお蔭です。あの時貴女に会っていなかったら、私はどうなっていたか、わかりませんでした。
……また、改めてお礼に伺いますね」
心からの感謝の込められたヴィンスの言葉だったけれど、イリスは最後に慌てて首を横に振った。今日を限り、イリスがこの家に戻ることはないのだ。お礼に来られたとて、もうイリスは彼と会うことはない。
けれど、下手にこれからの自分の身の振り方を説明して、人の良さそうなヴィンスに哀れまれることも避けたかった。
「いえ。困った時は、お互い様ですから。お役に立てたなら良かったですが、もうお気遣いなく。
そのヴィンス様のお気持ちだけ、ありがたくいただいておきますね」
「本当に、ありがとう。イリス」
最後にヴィンスから差し出された手と握手を交わしてから、イリスは小さな手荷物一つを抱えて、新たな勤め口へと向かう馬車に乗り込むために歩いていった。
***
イリスを乗せた馬車とすれ違うように、一台の立派な馬車が、クルムロフ家の前に到着した。
きびきびとした動きで、馬車から降り立った、長く黒いローブに身を包んだ男性が家の前へと向かう。
つい先程イリスを見送ってから、そのまま玄関前で掃除をしていたモリーに、その男性は声を掛けた。
「失礼。
弟のヴィンセントがこちらで世話になったと聞き、迎えに来たのだが。弟はいるだろうか」
「はあ」
目を引く大きな馬車の突然の到着に戸惑っていたモリーは、目の前の男性がローブのフードを後ろに外した姿に、目を奪われてしばし固まった。そこには、彫像ですら色褪せて見えるのではないかというほど、信じられないような美しい顔が現れたからである。光を弾くような艶のある黒髪に覆われた、抜けるような白い肌をした小さな顔には、言葉をなくすほどに美しい造形のパーツが完璧に配置されていた。彼が身に纏っているローブにも、金刺繍の星が見える。モリーは、男性の言葉を一度頭の中で反芻してから、素っ頓狂な声を上げた。
「ええっ!?
ヴィンセント様って、まさか、あのエヴェレット家の……。
ということは、貴方様は、マーベリック様……?」
モリーの反応に微かに苦笑を浮かべながら頷いた男性を、モリーは驚きながらも、ヴィンセントの待つ部屋まで案内した。
エヴェレット家の天才魔術師兄弟といえば、この国で知らない者はいない。2人は優れた風魔法の使い手で、かつ、共にその眉目秀麗な容姿でも知られていた。
弟のヴィンセントは、まだ20歳の若さにも関わらず、際立つ魔法の腕前で第一魔術師団長を任されている。けれど、特筆すべきは、天才の名を欲しいままにする、兄のマーベリックの方だろう。当代きっての魔法の腕前と言われながらも、各魔術師団からの、団長就任の打診を頑なに拒んでいるとの噂の、謎の多い人物だ。あまりの魅惑的な美しさに、普段は顔を深くローブで覆っていると聞いていたモリーは、現に本人を見て、納得して内心大きく頷いていた。
そしてモリーは、出立したばかりのイリスを思い浮かべながら、世の中には不思議な縁もあるものだと、しみじみと感じていたのだった。
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