第4話
ヴィンセント・マリアンヌ・サピロス小公爵。またの名をグウェンデル伯爵。御年二十四歳。
騎士学校を主席で卒業後、驚異のスピードで昇格を繰り返し、二十歳の時、最年少で帝国騎士団第一部隊へと配属をされる。そして半年前の雅国侵攻にて、功績が認められ第一部隊副隊長にまで昇進をした。
研ぎ澄まされた美貌、鋭く確かな剣の腕――『氷華の騎士伯爵』なんて呼ばれている。
大規模な侵攻は無事成功し、その後は事務仕事など後処理に追われていたヴィンセントだが、やっと連続した休暇を取ることができ、実家にて休養をしている。
氷の騎士と呼ばれる彼の笑みを見ることができれば次の戦は無傷で帰還できる、と言われるくらい表情筋を動かさないヴィンセントの最近の趣味は、下賜された姫君を甘やかすことだった。
砂糖菓子よりも甘い微笑を浮かべて少女姫を愛でるヴィンセントを彼の部下が見たなら、二度見どころか三度見をして、夢だったと言うだろう。
「明日のディモンド公爵主催の夜会へ行くんだろう」
「そのようですねぇ」
ぼんやりと、紅茶を飲みながら頷く菊花に苦笑いする。
ヴィンセントが気にかけるようになってから、菊花は夫人と共にいる時間が極端に減った。そのおかげか、常に強張り緊張していた体はリラックスして、表情も緩んでいる。本来の彼女の姿に戻りつつあった。
ふんわりと花が綻ぶ笑みを浮かべ、ふわふわほわほわした雰囲気をまとっている。
他人事のように甘さ控えめのクッキーに手を伸ばした。甘い物が苦手だという菊花のために、ヴィンセントが取り寄せた物だ。甘すぎず、紅茶の茶請けにピッタリなクッキーで、苦手意識の強かった菊花も目を輝かせて頬張っている。
「ドレスは母上が用意しているんだね?」
「おそらく……? 以前採寸をして、生地を選んでいたのでそうなのではないでしょうか」
「……エスコートは誰が?」
「えすこぉと?」
きょとん、と目を瞬かせる。
正式に招待状のある夜会やパーティーは同伴者を連れていくのがマナーだ。夫人であればその夫が、お嬢様たちは婚約者を。婚約すら決まっていない令嬢たちは兄だったり父だったりがエスコート役を務める。
ディモンド公爵主催で、夫人が行くのであればサピロス公爵も必然的に赴かなければならない。ヴィンセント自身に声はかかっていないが、この子のエスコート役をどこぞの知らぬ男に取られるくらいなら権力でもなんでも発揮してエスコート役を勝ち取ろうじゃないか。
密かに決意しているヴィンセントの内心など知らずに、えすこぉとの意味を反芻する。
「ビー様は、行かないのですか?」
「行かないつもりだったけど、君のエスコート役をさせてもらおうかな。妖精のように愛らしい君のパートナーに立候補しても構わないかな?」
「ぱぁとなー」
「つまり、君に近寄る害虫を追い払う役目だ」
「まぁ! 虫が出るんですか?」
人の姿かたちをしているがな、と心の中で呟いた。
「ビー様がご一緒なら、わたくし、とっても心強いですわ。その、この国の宴は踊り? をすると聞きました。わたくし、舞ならできないこともありませんが……二人で踊るなんてやったこともありませんから」
不安に金色が揺れる。蜂蜜酒のようにとろりと甘さを含んで、つるりと光るのだ。
「俺がそばについていれば、むやみやたらにダンスにも誘われない。そもそも、パートナーがいる女性をダンスに誘うなんてマナー違反だからな」
「こちらの宴はいろいろと制限があるんですねぇ」
祖国でも貴族が主催する宴には参加したことはない。
城で行われる大々的な茶会や宴、節句ごとの酒宴は神祀庁が取りまとめていた。あとは花宴などだろう。宴事に妃やその子共は必ず出席しなければいけなかった。
月祭ではその月に生まれた御子たちは、皇子ならば剣舞だったり、皇女であれば舞や歌詠みを陛下や臣下たち大勢の前で発表しなければいけなかったので、圧力でくじけそうになったことが何度もあった。だが、おかげで人前が得意になった。
兄は剣舞を、弟は弓での扇抜き、菊花は舞を披露した。
唐櫃の中に、扇がいくつかあったのを思い出す。そういえば、常であれば来月の月祭で兄が剣舞を披露していただろう。
「きっと母上のことだからこれからも君を社交の場に連れまわすだろう。マナーの方は?」
「後宮にいたころは叩きこまれましたが、さすがにこの国の礼儀作法はさっぱりです」
「君が望めば、ハウスティーチャーをつけることもできるが、どうする?」
「は、はうす?」
「礼儀作法を教えてくれる先生だ。今の君も十分魅力的だが、こちらに順応していけば見下されることもなくなるだろう」
ヴィンセントが懸念しているのは、プライド高いお嬢様たちに菊花が馬鹿にされることだ。
厚塗り化粧の香水臭いお嬢様たちでも、それなりの家の生まれであればマナーは完璧に仕込まれる。そうでなければ婚約者が決まらないからだ。
毛色の違う異国人というだけで御令嬢たちは見下してくる。サピロス公爵夫人のお気に入りで、ヴィンセントがエスコートをしていても、それすら御令嬢たちは気に食わないだろう。
マナーがなっていないわ。言葉すら理解できないのね。淑女としてダンスすらできないなんて。容易に想像できる。
「俺は、君に辛い思いをしてほしくない」
「……そこまで、気にかけていただけるなんて、わたくしはとても嬉しゅうございます」
長い睫毛が伏せられる。頬を赤く染めて、はにかんだ表情に思わず魅入ってしまう。
少女のようにあどけないのに、濃密な色香が滲んでいるのだ。押し倒して、果実のようにぷるりとした唇にかぶりついたら、どんな表情をするだろう。
「ビー様?」
「少しだけ、ダンスの練習でもする?」
今はその時じゃない。劣情を押し殺して、手を差し伸べた。
「わたくし、記憶力は良いんですの」
桜貝の指先がそっと手のひらに重ねられた。
並んで立てば頭二つ分も身長差があり、明日はヒールを履いたとしても踊りにくい身長差だが、それを感じさせずにリードするのがヴィンセントの役目だ。
「ポイントは姿勢、相手との組み方、あとは足の出す位置だ。リズムは音楽と俺に合わせるだけでいい」
手を合わせて体を添わせる。ぴったりと重なる体に、布越しに彼の体温を感じで顔が熱くなった。
ワン、ツー、とリズムを数え、体を揺らすヴィンセントにたどたどしく合わせる。
「競技ダンスじゃあないからな。ダンスをただ楽しめばいい。まず左足を出すから、君は右足を下げて」
「こ、こうでしょうか?」
「うん、上手だ。そしたら、いち、に、さん、とステップを踏んで、ターンしてみよう」
なんとなく、コツを掴めてきた。ヴィンセントがゆっくり教えてくれるおかげで、動きに合わせることができる。これを音楽に合わせるとなると難しいだろうが、なんとかできそうな部類だ。
舞の練習に励んでいてよかった。ひとりで舞うのとふたりで踊るのとでは全く違うが、根本的な足さばきなどは似通っている。
「……ふむ、筋がいいな。簡単なワルツくらいなら踊れそうだ」
「だんすはできませんが、舞い踊ることは得意ですから」
ふふん、と得意げに笑う菊花が珍しくて、目を丸くする。むしろその舞とやらをぜひ見てみたい。異文化交流も悪くないな、と思いつつあった。
「これくらいにしておこうか。基礎はできているし、あとは周りを見てその真似をすればいい」
「だんす、も一緒に踊ってくださるのですか?」
「もちろん。……あぁ、俺以外の誘いを受けてはいけないよ。それだけで周りから反感を買ってしまうからね」
反感、という言葉に神妙な面持ちで頷いた。
皇女というだけでやっかみを受けることは多かった。他の皇女たちよりもそれらは少なかったが、心無い言葉を投げられたりもした。
行かないのが一番いいんだろうが、夫人は連れて行く気満々だった。新しいペットを見せびらかしたい、可愛い
「明日、君は何も考えずに楽しめばいい。ディモンド公爵は美食家だから、立食も楽しめるだろう」
不安だらけだけれど、ヴィンセントが一緒ならきっと大丈夫だろう。言われた通り、ただ明日を楽しみにした。
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