第3話
菊花の一日は、メイドに起こされることから始まる。
大人が五人は余裕で寝そべれるベッドに小さく体を丸めて眠る。親とはぐれた子猫のようで、いくら布団の中で縮こまろうとも手足はいつも冷え切っている。
大きくて無駄に豪奢な鏡台に、広い部屋。その日に着る洋服は夫人が決めるため、クローゼットの類はこの部屋に存在しない。ベッドと鏡台と、ソファにテーブルしかない私室は菊花が暮らし始めて一か月は経つのに生活感が未だに薄かった。
「お嬢様。朝でございます」
「……おはよ、う、ございます」
「本日のスケジュールの確認をさせていただきます」
寝起きでぼんやりしている菊花になど構わず、すらすらと一日の予定を読み上げていくメイド。どうせ、一日中夫人と一緒に行動するのだから、菊花も頭に入れる必要はないと判断していた。
「……本日のアフタヌーンティーには、ヴィンセント坊ちゃまもご一緒されます」
それは、ひとさじのスパイスだった。
ヴィンセント――サピロス公爵家の跡取りで、冴え渡る氷の美貌の青年だ。菊花を『菊花』として見てくれる唯一の人である。
「ビー様も、いらっしゃるんですか?」
「何かご不満でもございますか?」
「い、いいえっ! いいえ、そういうわけでは……申し訳ありません。続きをお願いします」
心なしかワクワクしている。上がりそうになる口角を我慢して、脳裏にヴィンセントを思い描いた。
彼との初対面は一昨日。普段は別宅で生活をしているヴィンセントだが、しばらくはこの本邸にいると聞いた。
「本日のお召し物はこちらになります。ヴィンセント坊ちゃまがご用意いたしました」
控えていたもうひとりのメイドが腕に抱えていたのは、見覚えのある衣装だった。
「そ、れは……!」
紅色の
何よりも目を引くのは、装飾品の類だ。母の故郷で採れる紅玉を加工した耳環や首飾りに細い銀環の腕飾り。紅玉が連なり、透かし細工の菊の花が咲いた簪は、兄からの贈り物だった。
震える指先で衣装を受け取る。どうして、と疑問よりも懐古の情が上回った。
着慣れた古服は西洋の建物には不釣り合いだったが、菊花にはよく似合っていた。洋服やドレスよりもぴったりと当てはまっている。
簪は大事に大事に胸元にしまった。さらさらすぎる髪は自分自身でも結い上げられず、後宮にいた頃はいつも特定の宦官が結ってくれていたのだ。
「おはよう」
「ビー様……! おはようございます。あの、この服、」
「あぁ、よく似合っている。やっぱり、君はドレスよりもそう言った衣装の方がいいね」
頬が赤く色付く。
突然のヴィンセントの来訪に驚いたのは菊花だけではない。メイドたちもぎょっとして慌てている。
「無理を言って手に入れた甲斐があった。他の服、というか、箱ごと貰って来たんだ」
箱、と首を傾げる。
赤塗の大きな箱だよ、と言われて金の瞳を見開いた。
「もしかして、菊の花が蓋に彫られていませんでしたか?」
「キク? が何かはわからないけれど、確かに花の模様があったな」
「……! あ、あ……嗚呼、ビー様っ、ありがとうございます……!」
透明な大粒の真珠が溢れ出す。化粧を施したばかりだけれど堪えることができなかった。
なんて嬉しいんだろう、宝物が手元に帰ってきた。ヴィンセントには感謝してもしきれない。嬉し涙が止まらなかった。
「ぼ、坊ちゃん、いくら坊ちゃんと言えど、お嬢様は奥様の」
「俺は口を開いていいと許可していない」
「ッ、申し訳、」
「彼女と二人にしてくれるか」
「そ、それは……」
目に見えてうろたえるメイドだが、氷の刃を喉元に突き立てられては否定することもできない。青い顔色で頭を下げ、慌てて部屋を出ていく。
広い室内に、泣きじゃくる菊花とヴィンセントだけになった。
「泣かないで」
メイドに向けていた冷ややかな声と同じとは思えないほど柔らかく優しい音が床に落ちる。
指先が頬に触れ、涙をぬぐう。
「独りぼっちで、よく頑張った」
腕が伸びてきて、頭を抱えられる。胸元に抱きしめられて、彼の鼓動が耳に響いた。止まることのない涙に、服を汚してしまうと抜け出そうとするが決して放してくれなかった。
「聞けば、一度も泣いていないんだって? 大丈夫、ここには俺と君の二人だけだ。声を上げて泣いたって誰にも咎められない。自分のことを家具だなんて、人形だなんて言わないでくれ。君は君だろう」
「びー、さま、ぁ……ッ!」
「これからは俺がいる。辛い事、悲しい事、……嬉しかった事。なんでもいい。俺に話してごらん。顔色も見なくていい。君が感じたこと、思ったこと、話したいこと。我慢しなくていいんだ」
自分自身で気が付いていない、傷だらけの心に、温かくて優しくて柔らかなヴィンセントの言葉はゆっくりと染みていく。
怯えるように小さくなっていた菊花だったが、気づけば両腕をヴィンセントの背中に回して、ぎゅうぎゅうと抱き着いていた。
「わ、わたくし、ずっと、ぅ、ずっとくるしくて……! ぁ、ッおかあさまと呼ぶたびに、心がすり減って、
「うん、そうだな。苦しかった、悲しかったな。辛かったな。でも、もう俺がいるから大丈夫だ。菊花はちょっとぼんやりしているところがあるからね、俺が守ってあげる」
『菊花はぼんやりしすぎなんだ。俺が守ってやるからね』
息を飲んで、大きく目を見開いた。兄の声が蘇る。蘇って、ヴィンセントに重なって、掻き消えた。
「あにさまッ……!
「……――俺が一緒にいる。ずっと、ずっと、一緒にいる」
「ほんと、ですか……? いなくなりませんか、わたくしをひとりに、独りにしませんか……? わたくしを、置いていきませんか……?」
ヴィンセントはきゅっと抱きしめる腕の強めて、耳元でゆっくりと囁く。――その口元は大きく笑みを描き、冷たい瞳には歪な欲が滲んでいた。
「俺は、君の兄のようにいなくなったりしない」
「――ッ!!」
息を飲み、悲鳴を押し殺した。かくん、と足から力が抜けて
「俺の名前を呼んで?」
「ぃ、あ、あ……びぃ、さま、ビー様っ」
「うん。大丈夫だ。深呼吸をして。息を整えて。ほら」
言われるがままに深く呼吸を繰り返す。甘く、痺れるような香りがした。花よりも濃くて、果物の蜜のように甘い匂い。
「……あまい、かおりがします」
「あぁ、香水かな。気に入った?」
「は、い。甘くて、美味しそうないい匂い」
「あとで小瓶に分けて持ってこよう。さぁ、涙は止まったな」
あ、と頬に触れる。零れた涙が乾いていた。次いで、ヴィンセントの胸元を濡らしてしまったことに絶望する。
「あ、あ、ビー様っ申し訳ありませんっ、お洋服を汚して……!」
「これくらい気にしなくていい。それよりも、君が泣き止んでくれたことのほうが嬉しいよ。さぁ、笑って。菊花には花が綻ぶ笑顔が似合う」
アイスブルーを熱に溶かし、甘やかさを含んだ瞳に菊花が映る。酷い顔だ。化粧が乱れて、目が赤くなっている。
なんだか、ヴィンセントに甘やかされて素直に心の内側をさらけ出してしまったが酷く恥ずかしいことだったんじゃなかろうか。今になってやってくる羞恥心に顔が赤くなる。
「メイクをやり直してから朝食にしようか」
「う……すみません」
「ありがとう、のほうが俺は嬉しいな」
「……ありがとうございます、ビー様」
艶やかな髪を撫でて、掬い上げた一房に口付けを落とす。
部屋の外で待機しているだろうメイドを呼びに、「座って待っていて」と告げて体を離した。
細くて小さくて柔らかな体。まだまだ成長途中の少女の体だった。
愛用している香水とはまた違う、甘い香りが菊花からはした。花の蜜のような、ささやかな甘い香りは深く吸い込むと酒を呑んだ後のような酩酊感がした。
「彼女の化粧を直してやれ。それと、俺の部屋に俺と彼女の分の朝食を持ってくるように」
「お、お待ちください! お嬢様のお食事は全て奥様共にするようにと、」
「だからなんだ。俺は、部屋に運べと言ったんだ」
ぐ、と唇を噛んだメイドは夫人の側付きのひとりだ。夫人から直々に菊花の世話を頼まれている手前、主人の命に逆らうことなどできなかった。
「ですがっ」
「あぁ、もういい。それ以上口を開くな。あの子は誰のモノだ?」
「っ」
奥様です、と答えようとしたメイドは、音となる言葉を吐き出す前に睥睨されて言葉を飲み込む。
「あの子は、
サァ、と血の気を失っていくメイドの横を通り過ぎる。きっと、彼女は母から折檻を受けるだろう。
穏やかな気質に見える母だが、あれで意外と苛烈な一面を持っている。かつて若い頃は「白百合の君」と社交界では注目の的であったが、ヴィンセントから言わせれば黒百合の間違いだった。
下賜された女に興味などなかった。所詮敗戦国の姫君だろう、と両親に預けて放置していたが、思いのほか父も母もハマッてしまったらしい。しかし、まさか『第九皇女』が母親と共に下賜されているとは思わなんだ。知っていたら、両親に預けるなどしなかったのに。
母親に抱かれ、守られ、隙間から覗いた黄金の瞳。太陽のよりも月の輝きだと感じた。
ぷくりと膨らんだ赤い唇に、薄く色付いた白い肌。大切に守られてきた至極の姫君。――乱したい、汚したい、そう劣情に駆られた。
帝国の女たちは強かだ。ただ夫の半歩後ろに控えて微笑んでいるだけでやっていけるほど甘くない。自ら剣を学ぶお嬢様もいれば、女騎士として皇后に命を捧げる者もいる。
女の子はお砂糖とちょっとしたスパイスでできているなんて夢のまた夢。
母は剣よりも弓の腕に優れているし、従妹の姫君は兄たちよりも剣の才に恵まれている。そんな彼女たちと比べて、菊花はどうだろう。傷一つない肌に、剣なんて到底持てない細い腕。守ってあげたい、そう思うと同時に壊してしまいたいとも思う。
早く、菊花の中を自分だけで満たしてしまいたい。別邸に戻るときは連れて行こう。
優しい、頼れる年上のお兄さんを演じながら、少しずつ、少しずつ、蜘蛛の糸で絡めとっていくのだ。
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