違和感。
「……アナスタシア、大丈夫かい?」
「あ、ああ、すまない。いよいよかもしれないと思ったら少し、な……」
先程よりも明らかにはっきりとその表情を曇らせるアナスタシア。そんな彼女を見てくろうさぎさんは何かを察すると静かに言います。
「……そうかい。つまりは、今のビッグベアにも
「……ああ」
アナスタシアがその手のひらを胸の前で広げると眩ゆい光と共に現れたのは金色の天秤。その天秤はふわふわと上下に揺れながら宙を漂います。
「確かに。
くろうさぎさんの目の前で揺れる『
「ああ……ここまでのクエストの中に
「そうだね……もしも
一人と一匹が言った
「だから次が本命かい?」
「の、可能性は高いと思う……クロエ……キミは気づいていないかもしれないが、最近になってこの
「……そうなのかい?」
「ああ。目には見えない程の変化が確かにここで起こっている……」
表情を強張らせるアナスタシア。その横で静かに握られる拳は力み小刻みに震え、込み上げる想いがそこにあるかのようにくろうさぎさんの目には映ります。その姿はまるで使命感に駆られ燃える調停者の覚悟そのもののようでした。
「……なるほど。だからなんだね……だからキミは……」
「何がだ……クロエ?」
くろうさぎさんは最後の一枚となったクエスト依頼書を見てから今までのやり取りの中でアナスタシアの中に起きた変化の原因に目星をつけると、それを取り除く為の方法を口にします。
「いや、キミの言う通りだよ、アナスタシア。今までの森では見られなかったようなモンスター達の集団単位での変異、最近になっての聖慮の天秤の見えない変化、更には街の冒険者達の心にまで影響を与えただろう存在ならばここに残された最後の一枚のクエスト、『トロール討伐』。それが『違和感』である可能性は極めて高いね」
「ああ。だからこそその『違和感』は私が調停者として必ずここで……」
「アナスタシア」
「な、なんだ……クロエ?」
「今までよりも確かなその実感に、キミは今『違和感』を意識してしまったんだね……だったらそんな余計な現実なんて忘れて何も考えずに進まないかい?」
「クロ、エ……?」
「気負い過ぎるのはキミの良くない癖だよ。河原で休憩した時も、今この時もそう……気持ちのままに何かを『選択』するのを駄目とは僕は思わないけれど、気持ちのままだけに『行動』するのはとても危険な行為だと思うよ。功を焦ったり、自分で自分を追い込んでしまえばそれはもう戦う前から勝負がついてるみたいなものさ」
「それは、確かにそうだが……しかし、何も考えないというのは……私は調停者としてその使命を果たす義務がある。失敗は許されないんだ。わかるだろ、クロエ。……それに、さっき河原に行く前にキミも言っていたじゃないか。相手がその『違和感』であるならこの先何が起こるかわからない。だから準備をするに越したことはないと……」
「うん。確かにそうだね。僕は確かにそう言った」
「だったら──」
「気持ちはね、アナスタシア、心に引かれ引き寄せられ引かれ合うものだと僕は思っているんだ」
「……な、キミはそうやってまた含みのある言い方を……その、頼むから私にもわかるように説明してくれ……」
「うん。だから大丈夫。きっと上手くいくってことさ」
「クロエ……」
「うーん。そうだね、それじゃあ──」
気持ちは心に引かれ引き寄せられ引かれ合うもの。
その言葉を彼女に伝える為。
本をその手に静かに開くとくろうさぎさんはページを捲り始めます。
そしてその手の中で開かれたページ。
くろうさぎさんはそこに書かれていた一文を読み上げます。
「例えば昨日と同じ空を見た時に、それを受け取るかたちは同じでないように。同じものである筈のそのものに対して幾重もの答えがそこにはある。笑い、憂い、嘆き、慈しみ、心は気持ちに引かれ、気持ちは心に引き寄せられる。引かれ合うその二つの間にある真実こそが私達にとってのたった一つであるのに変わりはないのに──」
その言葉にアナスタシアは困惑した表情を浮かべます。
「……クロエ。その、つまり、それが今の私とキミは言いたいのか……」
「うん。気持ちは心に引かれる。時にその心はキミの体をも蝕んでしまうんだ」
「……だから考えないようにしよう、か……確かにそれはそうなのかもしれない。だが、聞いてくれ。その恐怖がなければ迷わず進む事は出来ても恐怖を忘れ無闇に飛び込めばそれはただの無謀だ。失敗の許されないこの状況でそれは些か楽観的過ぎる考えだと私は思う」
「楽観的、無謀……そうだね。うん。それは確かに楽観的で無謀な行為だ」
「だ、だったら、私は調停者としてその使命を果たす為の策を……」
「だからそれは、正しい策を『立てれれば』の話だよ、アナスタシア」
くろうさぎさんが彼女に今伝えたいこと。
それは外側ではなく内側にあること。
時に『正しい』は『正しくない』という事をくろうさぎさんは彼女に伝えようとしていたのでした。
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