44. ケイ・F・ストーム

 ロビィの態度は極端だったが、誰もが心のうちで安堵しているのはたしかだった。エルは探索が期待外れに終わったことを残念に思いながらも、緊張が和らいでいくのを感じていた。

 通路を戻っていく途中、開かなかったドアの前をふたたび通りかかった。エルはなにげなくドアに触れた。なにか考えがあったわけではない。道に垂れている木の枝を目にして、ふと意味もなく腕を伸ばしてそれを叩くときのように、無意識にドアに手を当てていた。すると、

 ソーダが抜けるような音と共に、滑らかにドアが開いた。一瞬なにが起こったのか分からず、彼は目の前に現れた部屋を呆然と見つめていた。慌ててみんなを呼び止める。

「どうやって開けたんですか」

 戻ってきたリンデが驚いて言った。

「さっき君がやっていたように、ドアに触っただけなんだけど」

「……そうですか。長年放置されていたので、上手く作動していなかったのかもしれませんね。とにかく、中を調べてみましょう。すみません、ロビィ。もう少しだけお付き合いください」

 ロビィは明らかに気落ちしていたが、渋々頷いた。


 広い部屋だった。学校の教室を一回り大きくしたほどの面積があり、室内は整然としている。中央にはなにも置かれていない大きなテーブルがあって、奥と入口ドア側の壁は本棚で占められている。窓がないために息苦しく感じられたが、すぐにエルはここが地下だったことを思い出した。

 左手側の壁際には作業台と思しき長テーブルがあって、様々な道具がきれいにまとめて置かれていた。そのほとんどがエルには見覚えのないものばかりで、それらにどういった用途があるのか分からなかった。隣には机と椅子のセットが壁に向かって置かれている。机の上も中央のテーブルと同じでなにも置かれておらず、埃なども一切積もっていない。

 あまりにも整いすぎているな、とエルは思った。ここで誰かが活動していたという痕跡が全く感じられないのだ。まるで、おもちゃの人形とセットで売られているミニチュアの家のように。

「ここにあるのは、高度な技術が必要な機器ばかりです。わたしたちの世界のものとなんら遜色がありません」

 リンデは近くにいるアルバートに聞かれないように、小声でエルに囁いた。アルバートにとって彼女は宇宙からやってきた過去の人間ではなく、クレストに住んでいるアイクの従姉にすぎない。

「電子顕微鏡、分離機、それから」テーブルに沿って歩いていたリンデの足が止まる。「これは――」

 彼女が手に取ったのは親指くらいの大きさをした青い直方体で、そこから左右に三センチほどの短い紐が繋がっていた。それぞれの両端には鍵を束ねるリングのように一部に隙間が開いている小さな金属の輪が付いている。

「それ、リンデが付けているものに似ているな」

 彼女は首を振った。だがそれは否定の意味ではなかった。

「いえ、似ているなんてものじゃありません。これは同系列のウェアラブルデバイスですが……そんな、これは」

 リンデは愕然とした表情で続けた。

「これは、わたしの使っている端末の発展形です。見てください、ここのスイッチで――」

 彼女が青い直方体の裏側に触れると、それは二つに分かれてしまった。

「これはセパレート型です。しかも耳の穴にはめ込むのではなく、ピアスのように皮膚に直接刺して使用するようです。たしかにそのほうがよりダイレクトに体細胞とリンクすることができますが、身体への負担もより大きくなるはずです。リドリオンへの簡易干渉にこれほどのアプローチが必要とは思えませんが……」

 一人呟き続けていたリンデはふと我に返ると、話を仕切り直した。

「機能がどうなっているのかは調べてみないと分かりませんが、このような装着性のものを私は見たことがありません」

 たしかにそれはリンデが身に着けているものよりもずっと小さかったが、それがどうして彼女を驚かせているのか、エルには分からなかった。

「つまり、どういうことなんだ?」

「これはこの世界で作られたものだということです。このトランスレータを作れるだけの技術を持った人がこの部屋に、おそらくは上の屋敷に住んでいたのでしょう。これを完成させることに比べれば、昨夜森で遭遇した整備クラスタを改造するのなんて造作もないはずです」

「てことは、ここに住んでいた奴が昨日俺が見た黒マントってことか」

「まだ断定はできませんが――」

 そのとき、後ろの本棚を調べていたアルバートがリンデに話しかけてきた。彼女はエルとの話を中断してアルバートのほうへ行ってしまったが、手にしていたトランスレータはしっかりとスカートのポケットに仕舞いこんでいた。

「なんだかよく分からない本ばかりだ。背表紙も中身も、ぜんぶ変な図形で書かれてる」

「いえ、それは図形ではなくてキリル文字です。こっちが繁体字で、これはアラビア文字ですね」

「……キリル文字?」

 呆気に取られているアルバートの様子を察して、リンデは補足した。

「あなたたちの世界には他の言語が残っていないのですね。これらは全て、英語以外の文字です」

「英語以外の文字?」

「かつてはそれぞれの地域や国によって独自の言語を――」

 そう言いかけて、リンデは言葉を切った。未知の機器のことで注意が散漫になっていたのか、自分がまずいことを口にしたと悟ったようだった。だが、アルバートは聞き逃さなかった。

「それぞれの地域や国? それって、なんのことだよ」

「それは――」

 彼女はなにか言いかけたが、アルバートが先回りした。

「さっきからずっと思ってたけど、あんたはやっぱりおかしい。勝手に開くドアのことや、文字が浮かび上がるパネルのこともそうだ。どうしてそんなに色々と知っているんだよ」

 アルバートの詰問に戸惑っているリンデを見ていられず、エルは彼女を庇うようにしてアルバートの前に立った。

「お前は関係ないだろう。引っ込んでろよ、ストーム」

「関係あるに決まってる。自分の頭が悪いからって、彼女に絡むなよ」

 睨み合う彼らをリンデが止めようとした、ちょうどその時。ジャッキーが大きな声で彼らを呼んだ。

「こっちに来てくれ! おいお前ら、なにやってんだよ。早く来いよ!」

「――行こう、リンデ」

 リンデは迷っているようだったが、エルは構わずに彼女の手を取ってその場を離れた。アルバートはその場に立ったまま、離れていく彼らの背中をじっと見つめていた。


 部屋の奥の壁をびっしりと占めている本棚の前で、ジャッキーが大きな本を抱えていた。少年たちの輪にエルとリンデが加わると、ジャッキーは表紙を開いて見せた。

「その本棚に、これがあったんだ」

 そこには「観察記録」という文字が手書きで綴られていた。次のページには乳幼児の写真が等間隔に何枚も貼り付けられている。

「アルバムみたいだね」

 そうフレディが言ったとおり、写真の下には細かく日付が記されていて、まさに成長アルバムといった内容だった。母親と思しき女性が乳児を抱いている写真もあった。黒いカーディガンを羽織った短髪の女性。目つきは鋭く、じっとこちらを睨んでいる。

「先ほどロビーに落ちていた写真の女性と同一人物のようですね。ということは、この赤ちゃんがあの男の子でしょうか」

「この女が魔女なのかな」

 不安げに言うロビィに、アイクは曖昧に首を傾げた。

「どうだろうな。日付は……三十五年前か」

 彼らは部屋の中央に置かれているテーブルに移動し、そこで詳しくアルバムを調べていった。

 写真は続いていき、きっちり二ページごとに一年の歳月が流れた。彼らが予想したとおり、幼児はやがて例の写真の少年へと成長した。写真の背景は屋敷の内外ばかりで、今の荒廃ぶりからは想像もつかないような立派な庭や、豪華な調度品を備えた家の内部の様子が写されている。こんなにも多くの写真があるのに、一枚も彼らが笑っている写真はなかった。

 ところどころに、日付とは別にメモ書きがあった。「RNA転写時の数値を修正」だとか「第一次成長期におけるテロメアの異常活性」など、よく分からない言葉が並んでいる。それらをぼんやりと眺めながら、エルは最初にロビーで写真を見つけたときに覚えた違和感が強まっていくのを感じていた。

「こいつ、なんかエルに似てないか」

 唐突にジャッキーが言った。

「そうかなぁ。僕はそう思わなかったけど……でも、髪型はちょっと似てるかもね」

「こんな髪型の奴、どこにでもいるさ」

 エルはそう反論したが、ページが進んでいくうちに彼もこの少年が自分に似ているような気がしてきた。そうして、決定的な瞬間が訪れた。

 今から十九年前、少年が十六歳を迎えた時の写真。それはこのアルバムに保存されている、最後の写真だった。背後に大きなパイプや水のタンクのような設備が並んでいる場所で、かつての少年は青年となり、別の太った男性と一緒に並んで立っている。まっすぐにこちらを向いている二人の無表情な顔は、どこか虚ろで異様に見えた。写真には手書きのメモが付いている。「全てのテストをクリア。適性は想定値の二八〇パーセント」。そしてその下には、アルバムを締めくくる簡潔なエピローグが添えられていた。

 ケイ・F・ストームを新世界初の宇宙飛行士として認定。

「ストームって……」

 フレディが誰にともなく呟いた。

 全員の視線が自分に集まっていることには気づいていた。だが上手く頭が働かず、エルは言葉を発することができなかった。たしかに面影はあった。写真は一枚も残っていないが、この七年間、何度も思い浮かんだあの顔を彼が忘れるはずもない。

 そうか、と彼はようやく思い至った。違和感の正体はこれだったのだ。

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セントエルモの灯 シタノモリ @kinohey

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