幕間 朝のアルバート

 夜が明け始めた頃、アルバート・S・ジェイムズはベッドの上で目を覚ました。

 窓の外はまだ薄暗く、起きるには早すぎる。特別に寝苦しい夜だというわけでもないのに、どうしてこんな時間に目が覚めたのだろうか。

 ぼんやりと考えていると、階下から物音が聞こえてきた。なにか重いものが引きずられるような音。普段ならば気にせずに二度寝を始めるところだが、なぜだか妙に目が冴えてしまっていた。ベッドを抜け出して部屋を出ると、廊下の突き当りにある窓から薄っすらと明かりが差し込んでいた。じきに夜明けのようだ。

 アルバートの家は他の町民の家などに比べるとはるかに立派だった。カーペットの敷かれた幅の広い廊下に、吹き抜けのホールとシャンデリア。食堂には二十人が悠々と座れる長いダイニングテーブルがあり、いつでも使用できるように整えられている客間も二部屋ある。まさに邸宅という言葉が相応しい家であり、何世代ものあいだ町長の役職を継承してきたジェイムズ家の栄華を象徴しているようであった。

 父はこの家を大袈裟すぎると嫌っているが、アルバートは父とは違う意見を持っていた。家具の一つ一つが彼と彼の家族が立派な人間であることを証明しているかのように凛々しく整っているこの家を、彼はいつも誇りに思っていた。


 廊下を進んでいくと、階下からまた音がした。階段を下りて音の方へ向かっていくと、父の書斎に辿り着いた。ドアが少しだけ開いている。彼はそっと、ドアの隙間から中を覗き見た。

 父であるレイモンドが幅広の机のそばに立ち、誰かと電話で話をしていた。父は三日前から出張に出ていて、戻ってくるのは明後日の予定だったはずだ。仕事を切り上げて帰ってきたのだろうか。

「いい加減にしてくれ、ボブ。お前に釈明など求めていない。私はただ、理由を尋ねているんだよ。どうして一昨日の夜すぐに私に連絡をしなかったのか、その理由を話してくれるだけでいいんだ。そんなに難しく考える必要はないだろう?

 ……お前が無能なことはよく知っているよ、ボブ。署長に推したのは、お前に期待していたからじゃない。……そうだ、ただ当たり前のことを、当たり前に遂行して欲しいだけなんだよ。……今回のことは、取り返しのつかない失態だ。必ず責任は取ってもらう。

 ……あぁ、それでいい。……取り急ぎ確認しなければならない書類が自宅にあったからな。正午前にはそちらへ行く。……あぁ、それでいい」

 父が電話を叩きつけるようにして切った。相手はおそらく「無能ボブ」として有名な警察署長のボブ・ランディだろう。

 なぜ父が怒っているのかは知らないが、いい気味だ、と彼は思った。町長としての威厳を保ち、立派に職務を遂行する父を尊敬していた。予定より早く帰ってきたのも、きっと優先される仕事のために夜通し車を走らせて戻ってきたのだろう。

 父が電話の前から離れたタイミングで、彼も書斎を離れた。そのまま自室に戻ってベッドに潜り込み、彼はもう一度眠りに就いた。


 数時間後、エプロンをつけた母が彼を起こしにやってきた。顔を洗ってダイニングへ向かうと、父が新聞を読みながら珈琲を飲んでいるところだった。父は短い挨拶を交わすとすぐに新聞へと戻ってしまい、予定より早く帰ってきた理由については一切話してくれなかった。

「アルバート」

 母が用意してくれたスクランブルエッグを食べていると、父が珍しく話し掛けてきた。

「エル・ストームはどうしている」

「さぁ、どうだろう」

 エルのことを思い出すと、反射的に黒い感情が湧き上がってきた。一昨日の夜に受けた辱めの怒りは少しも収まっていない。

「腹の立つ奴です。どうしてアイクはあんな奴と――」

「そんなことはどうでもいい。なにか、普段とは違っていることはないか。まぁ、なにもないのならそれでいいんだが。忘れてくれ」

 自分から聞いておきながら、父の口調には興味らしいものがほとんど感じられなかった。だがそんなふうに言われてしまうと、アルバートはなんとかして父の役に立ちたいと思ってしまう。

「そういえば、昨日は図書館に行っていたよ。あいつらが図書館に行くなんて珍しいとは思ったけど」

 レイモンドは新聞を少し下げて顔を出し、今朝初めて息子と目を合わせた。

「ほぉ……図書館に。誰かと一緒だったか?」

「いつもつるんでいる奴らだよ。アイクと、フレディと、馬鹿二人」

 そう言ってから、見知らぬ女が一人いたことを思い出した。

「あと、アイクの従姉が一緒にいた」

 父は新聞を畳んで脇に置くと、テーブルに肘をついて身を乗り出した。

「アイクというのは、アイザック・ウォーカーのことだな? そうか……なるほど」

 父は珈琲を飲み干して席を立つと、そのまま真っすぐに玄関へと向かった。ほどなくして玄関のドアが閉まる音がかすかに聞こえ、それきり家の中はひっそりと静まり返った。


 朝食のあとは漫画を読んで時間を過ごしていたが、それにもすぐに飽きてしまい、彼は着替えて家を出た。またエルにちょっかいを出してやろう。だが前回のように殴られるのは御免だな、などとぼんやりと考えながらあてもなく町を歩いた。

 図書館のそばを通りかかった時だった。

 前方に、昨日エルたちと一緒にいたアイクの従妹だという女の姿が見えた。女はエルの妹のソフィアを連れていて、こんなに暑いのに手を繋いで歩いてくる。

 エルほどではないが、アルバートはソフィアのことも嫌っていた。だが彼女は口数の少ない兄とは違い、こちらが一を言えば十を剛速球で投げ返してくるような恐ろしい子供であるため、普段から関わり合いになることを避けていた。幸いにも、彼女たちは会話に夢中でまだこちらに気づいていないようだった。

 足早に道を戻りはじめた彼だったが、すぐに思い直して足を止めた。今朝の父とのやりとりを思い出したのだ。普段はこちらから話題を振ってもほとんど興味を示さない父が、あの女の話になるとテーブルに身を乗り出して話を聞いていた。

 アルバートは一瞬で決断し、二人に近づいていった。

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