32. 未明のくちづけ
涙を拭うと、すぐ目の前にリンデの顔があった。
頭がぼんやりとしていて、うまく思考が働かない。エルはゆっくりと、ひとつずつ状況を拾い上げていった。
自分たちが柔らかな草地に横になっていること。辺りには花が――アイシュワリヤの花がたくさん咲いていること。そして、彼女の手を握っていること。それらを認識することはできた。だが、そこに紐付く意味までは汲み取ることができない。あまりにも眠くて、目に映るものをただ「見る」だけで精一杯だった。
ふとリンデが目を開き、二人の視線が交わった。しばらくぼんやりと見つめ合った後、ようやくエルは彼女が泣いていることに気づいた。彼女は流れる涙を拭おうともせず、焦点が定まっているのか判然としない目で彼を眺めている。
胸のうちで悲しみが小さく弾けた。エルは鉛のように重い手を伸ばして、彼女の涙を拭おうとした。本当にそうするつもりだった。だが実際には、彼は全く別の行動を取った。彼はおもむろに頭を地面から浮かすと、彼女にキスをしたのだ。
エルは自分のしたことがとても信じられなかった。彼が夢から目覚めたのは、三秒ほどのくちづけを終え、リンデの柔らかな唇から離れた後だった。彼はハリケーンのような混乱の只中にいたが、それは彼一人を襲った嵐ではなかったようだ。
大きく見開かれたリンデの目を見れば、彼女もエルに負けないくらい驚いているのは明らかだった。
「ごめん、俺、どうしてこんな、こんなことするつもりじゃなかったんだ。自分でもワケが分からなくて。寝ぼけてたんだと思うけど、その……本当にごめん」
何度も言葉を噛みながら、なんとか謝罪らしいことを口にできた。だが、リンデは彼とは対照的に――突然、堰を切ったように笑いだしてしまった。
呆気に取られるエルの横でひとしきり笑った後、彼女は涙を拭いながら体を起こした。
「ありがとうございます。あなたのおかげで目が覚めました。体に支障はありませんか?」
リンデのさっぱりとした態度に戸惑いながら、エルは頷いた。
「体は大丈夫だと思う。でも、ここは――」
彼は周囲を見まわした。見覚えのある風景だった。群生するアイシュワリヤの花と、そびえ立つジャイアント・セコイア。その中の一本は幹が大きく抉られていて、そばには球状に戻っているポッドがあった。彼女と最初に出会った場所だ。
「どうしてここに」
そう口にして、ようやく彼は思い出した。
「そうだ、さっきまであの気持ち悪い奴らに囲まれてたんだ。それが、どうしてここにいるんだ?」
「星間航行モード……外殻を超強化する形態であの場から離脱しました。あのような簡易起動ですと、外部の情報を全て遮断してあらかじめセットされた座標まで自動運転で移動することになってしまうんです。
それだけなら良いんですが、問題は内部の人間を保全するために強制的にコールドスリープ処置が行われてしまうことです。この距離ではすぐに処置を停止することになりますが、一度始まった処置を取りやめて肉体を目覚めさせるのにはそれなりの時間が掛かってしまいます。そのため、ギリギリまで使用を控えていました」
知らない単語がいくつも出てきただけでなく、話自体が彼には難解だった。だが不思議とリンデの言っていることがなんとなく分かるような気がした。
見上げると、すでに空は白み始めていた。彼女が言ったように、ずいぶんと時間が経ったようだ。
「コールドスリープに慣れているわたしが先に目覚めたので、窮屈なポッドからあなたを下ろしました。それから……気が緩んだんでしょうね。わたしもまた眠ってしまっていたようです」
「一体なんだったんだろう。俺たちを襲ってきたあいつらは」
「あれは、わたしたちの世界で兵器や施設の修理、改造を行うために運用されていた整備クラスタユニットだと思います。人が操作しなくても自動で作業を行ってくれる機械なんですが、形状や動作からして間違いないと思います。ただ、あんな攻撃を行えるような機構はもっていないはずなんです」
「じゃあやっぱり、別物ってことか」
いいえ、とリンデは首を振る。
「先ほどポッドに残っていたデータを調べてみましたが、識別コードが整備クラスタのものと一致しました。可能性としては、誰かが改造したとしか考えられませんが……」
それを聞いてエルは重要なことを思い出した。
「あいつらに追われている時に、黒い布みたいなものを被った人間が森にいた」
「本当ですか?」
彼女は驚きの声を上げて地面に両手を突き、エルの方へ体を前傾させた。
「後ろを振り返ったら、倒れかけている木のそばにそいつが立ってたんだ。布のせいではっきりとは分からなかったけど、こっちを見ていたような気がする」
「全く気がつきませんでした。ですが――」
リンデは草地から立ち上り、ポッドへと入っていった。しばらくして、リンデがふたたび外に出てくる。
「それらしいデータは残っていませんね。折れた木の幹を人影と見間違えた、ということは考えられませんか?」
「そんな……本当に見たんだ!」
自然と語気が強くなった。だがリンデは彼を疑うような素振りなど少しも見せず、分かりましたと頷いた。
「もちろん、わたしはエルを信じます。スカーの向こうに人間がいるのなら整備クラスタのことも説明がつきますしね。情報が残っていないのは残念でしたが、誰かがいるという前提でいくつか仮説を立ててみます」
自分の口元が緩んでいることに気づき、慌てて彼は鼻の頭を掻いてごまかした。彼女が自分を信じてくれたことが単純に嬉しかった。
「えっと、じゃあリンデの探しているもの――ブレースってやつも、スカーの向こうにあるのか?」
「断定はできませんが、そうかもしれませんね」
リンデは顎に手を当て、考え込んでしまった。
沈黙が下りると、否応なく彼の頭には先ほどのキスのことがよぎった。彼は自身の失態を頭から追い出そうと、思いついたことを次々に口にした。
「せっかく手掛かりらしいものが見つかったのに、あんな危ない奴らがいるんじゃ探索なんてできないよな。そもそも、リンデの探しているブレースっていうものも、やっぱりウェパルに関係してるのか? あぁでも、あいつらは月での最終決戦とかいうやつで駆逐されたんだったか。だったら別の――」
「ま、待ってください!」
慌ててリンデがエルを止めた。彼はすっかり舞い上がっていたため、リンデが止めてくれなければいつまでもそうして喋り続けていただろう。
「どうしてウェパルのことを知っているんですか」
「どうしてって……リンデが話してくれたんじゃないかな。そうじゃなきゃ、俺が知っているはずがないし」
「いいえ、わたしはまだ話していません。今だって、どうやってウェパルの説明をするべきか考えていたところでしたから」
彼女にきっぱりとそう言われてみると、たしかに彼女の口からは聞いていないような気がした。だがそれらをどこかで耳にし、目にしたのは間違いない。
「そうだ。たしか、夢で聞いたんだ」
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