30. 敵

「えっ?」

「掴まってください!」

 彼女がそう叫ぶと同時にポッドが大きく動き、外の景色が目まぐるしく回転した。先ほどまでの振動や揺れのない状態から一変し、今は飛ばされないように必死にシートにしがみついていなければならない。

 それでも、やはりなにか特別な力がポッドの内部には働いているのだろう。ポッドは激しく飛び回っていて、本来ならエルたちも洗濯機の中のシャツのようにもみくちゃにされるはずだからだ。ふたたび、強い衝撃がポッドを襲った。

「このままでは……一旦、森に下ります!」

 ぐるぐると回転していた視界が一瞬静止し、次の瞬間には森へ向かって落ちはじめた。それはただの落下というよりも、高い場所から下に向かってボールを投げる時のような、無理やり加速された落下だった。

 エルは着地の激しい衝撃を覚悟していたが、予想に反してポッドは滑らかに地面に下りた。先ほどからずっと、何種類もの甲高い音が鳴り続いている。

「リンデ、大丈夫か」

「えぇ、なんとか着地できたようです。ポッドの損傷を調べたいところですが……その時間はないようです」

 彼女は先ほども気にしていた数十個の赤い光点を見つめていた。それらはアリのように蠢きながら、ある一点に向かって進んでくる。

「まさか『ウェパル』が? でもこの数、そんなはずは……」

 一人で何事かつぶやいているリンデを、そのまま放っておくことはできなかった。シートの背面から体を出してリンデの様子を窺ってみると、彼女の横顔は蒼白に染まっていた。

 唇からはすっかり血の気が失せて、青みがかった黒目は震えている。それは図書館でケチャップまみれのロビィを抱きかかえていた時に彼女が垣間見せた、不安と恐怖に押し潰されそうになっている姿だった。

「リンデ」

 エルは彼女の名を呼び、細い肩にそっと手を置いた。彼女は短く体を痙攣させて振り返った。

「すみません、わたし……」

 そう言って彼女は、肩に置かれたエルの手を見つめた。彼はそのとき初めて、自分の手が震えていることに気づいた。とっさに彼は手を引っ込めようとした。だがその前に、リンデの柔らかな右手が臆病な彼の手を包んだ。

「ありがとう、エル」

 感謝されるような覚えはなかったが、彼女の表情にいくらか力が戻ったのはたしかだった。

「なにか手伝えることはあるか」

「大丈夫です」

 そう言って小さく首を振り、彼女は正面に向き直った。外の景色が下へと流れる。ポッドが動き出したようだ。

「まずはここを離れましょう」

 ポッドはかなりの速度で森を走った。何度も木にぶつかりそうになったが、ぎりぎりのところでかわしながら進んでいく。リンデは画面の端に出ている赤い光点群を気にしているようで、何度もそちらへ目をやっていた。

「まだ把握できていませんが、わたしたちは誰かから攻撃を受けています。あれはただの砲弾ではありませんでした。おそらくは……『リドリオン』を用いた兵装によるものでしょう」

「リドリオン?」

 その単語をどこかで耳にしたことがあるような気がしたが、思い出すことはできなかった。

「おそらくあなたは聞いたことがないはずです。この世界では、リドリオンは忘れられてしまったようですから」

 甲高い音が、短く数度鳴った。続けて、また違う音が長く響く。

「のちほど必ずお話します。昼間は話せなかったことも含めて、わたしの知っている全てを」

 唐突に、左手から大きな炸裂音。なにが起こったのかは分からないが、大きな木が数本倒れていく。だがリンデはそちらに目を向けなかった。点滅し続ける無数の光点を見つめたまま、短く、強く、息をはく。

「しっかり掴まって、歯を食いしばっていてください。――来ます!」

 ポッドが地面を抉って急停止すると同時に、左の木々の間からなにかが飛び出してくる。月明かりに照らされるそれは、一見するとただの岩のようだった。ブーザーズ・フォレストで頻繁に見かける巨石と同じもののように見えたが、そうではなかった。

 ごつごつとした岩肌のような表面が波打ちはじめ、形態が変化しはじめる。変化はあっという間に進行し、前面中央部が大きく突き出して棒状の突起になった。リンデはその変化を見逃さず、ポッドを横へと移動させた。と同時に、耳を聾するような轟音が炸裂する。

 彼女は素早く後方を振り返った。つい先ほどまでポッドがあった場所の線上に生えていた木の幹がきれいに弾け飛んでしまっていて、支えを失った木が周囲の木々に凭れかかるようにして倒れていくところだった。

 この時になってようやくエルは、自分たちが得体の知れないなにかから襲われているという実感を得ることができた。漠然とした不安や恐怖といったものが、明確な「敵」という存在に集約されていく。

 だが敵の外見については明確とは言いがたい。前面の突起が引っ込むと、岩肌のようだった外観が崩れた。まるで溶けたアイスクリームのようだ。それは地面をぬるりと這い、ポッドとのあいだに遮蔽物がない場所まで来るとふたたび岩の形態に戻った。リンデはそれを横目に見ながらポッドを素早く動かし、その場から離れた。木々に隠れるようにしてジグザクに進むと、すぐに敵の姿が見えなくなる。

「ウェパルじゃない……」

 つぶやいた彼女の声には、安堵するような響きが込められていた。

「なんなんだ、あの気持ち悪いの」

「あの流動性からして、このポッドと同じCSPで構成されている機械でしょう。設計思想は同じものですが、あちらは無人機のはずです」

「同じって、それじゃあ――」

「はい、わたしはあれに見覚えがあります」

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