29. スカーを越えて
リンデが宣言したとおりポッドの中は狭かった。
内部は半球状の空間になっていて、外側と同じ灰色の壁でできていた。車の運転席のようなシートがひとつあるだけで、他にはなにもない。彼女はこれに乗って宇宙の遠いところから何日もかけてやってきたはずだったが、こんな場所でどうやって生活していたのだろうかとエルは不思議に思った。
彼は唯一の設備であるシートの後ろになんとか収まったが、シートのヘッドレスト部分を掴み、腰を少しかがめなければ天井に頭がぶつかってしまうような状態だった。すぐ目の前にはリンデの後頭部があって、彼女の青と白の混ざった髪からはシャンプーの匂いがした。
階段状に開いていた部分が閉まると、中は真っ暗になった。だが、まもなく小さく唸るような音が聞こえはじめ、灰色の壁であったはずの内部の壁面に外の景色が現れた。前後左右だけでなく、天井と床も窓ガラスになったかのように外が見えるのだ。まるで宙に浮いているようだった。
ポッドが動き始め、空き地から森の中へと入っていく。巨体にも関わらず、うまく木々をかわしながら素早い足取りで進んでいった。こうして風景が流れていくところは車に似ていたが、振動は全く感じられない。ぬるりと滑っていく外の光景を眺めていると、だんだん気分が悪くなってきた。
「大丈夫ですか? 慣れないうちは、あまり外を見ないほうがいいですよ」
「いや、全然平気」
彼は強がりを口にしてから、リンデに聞いた。
「このポッドって乗り物は勝手に動くんだね。まるで生きているみたいだ」
「いいえ、これで私が操作しています」
彼女は耳の穴にすっぽりと嵌っている玉のような器具に触れた。そこから伸びた紐が、首の裏にある六角形の箱まで続いている。
「これがこのトランスレータの本来の用途です。操縦桿を握るのではなく、脳から直接操作系に働きかけることができるんですよ。発声補助やランタンとしての機能はあくまでもおまけです」
そういえば図書館でそんな話をしていたな、とエルは思い出した。あの時はリンデが話を切り上げてしまったため、詳しい話を聞くことができなった。だが今なら、彼女が多くを語らなかった理由が分かる。こうして実際に目の当たりにしても上手く理解できないのに、あの場で説明を聞かされても時間の無駄だっただろう。
森を抜けた。眼前にはふたたび茫漠たる世界の果て、スカーが現れた。
「さぁ、行きましょうか」
彼女に全てをゆだねるしかないと分かっていながら、それでもエルは聞かずにはいられなかった。
「でも、どうやって? まさか空でも飛ぶのか」
「そのとおりです」
半ば冗談のつもりで聞いたのだが、リンデは力強く即答した。人間が空を飛ぶなんて、とても信じられない。
「大丈夫ですよ」
リンデは振り返り、シートのすぐ後ろに立っているエルを見上げた。ポッドは狭く、どうしても彼女との距離が近くなる。彼女はエルの瞳をじっと覗き込み、言った。
「わたしを信じてください」
女の子にそう言われて、覚悟を決めないわけにはいかなかった。
彼女が姿勢を前に戻すと同時に、外の風景が上下に揺れ始めた。どうやらその場でジャンプをしているらしい。だが、こんなに大きく動いても内部に振動や揺れが一切ないのは不自然だった。これもポッドの機能のひとつなのだろうか。
そんなことを考えているうちに、強い風が吹きつけるような音が背後から鳴り始めた。シートの端を掴んでいる彼の手にも徐々に力がこもっていく。
「行きます!」
外の映像が急速に動き、スカーが近づく。足元の地面が視界から消えた瞬間、彼は反射的に目を閉じていた。そうして次に目を開いた時には、すっかり風景は変わっていた。
深い闇を抱えたスカーが真下にあった。前方に目を向けるとトラペジア・ロウが大きな黒い塊として鎮座しており、下方では鬱蒼とした森が絨毯のようにどこまでも広がっている。リンデが言ったとおり、本当に空を飛んでいた。
「空を飛ぶのは初めてですか」
彼女が分かりきったことを聞いた。彼は真面目な口調で応えた。
「目が覚めているときはね。夢の中でなら一人でも結構うまく飛べるんだけど」
リンデは短く笑い、ちらりとこちらへ目を向けた。
「これは飛行形態と呼ばれる状態です。手足を格納し、代わりに形成したノズルから圧縮した空気を噴射して空を飛ぶんです。後ろを見てください」
振り返ってみると、複雑に組み合わさった円筒形のものがいくつか突き出していた。先ほどまで、そんなものはなかったはずだ。手が伸びるだけではなく、粘土で作った人形のように姿を変えることもできるらしい。
「対岸に着きますが、しばらくはこのまま上空を飛んで周囲の様子を確認しましょう」
あっという間にポッドは対岸の森へと到達した。ついにスカーを越えたのだ。
ほとんど実感はなかった。あまりにも簡単すぎる。それでも、目に映る初めての光景が彼の期待と興奮を否応なしに掻き立てた。空には月がかかっているとはいえ、森の全景を見渡すことはできない。だが、かなり広大であることは間違いなかった。もしかすると、サントーク側の森よりも広いかもしれない。
トラペジア・ロウまではまだ距離があったが、ここからでもその大きさは実感できた。毎日のように町から眺めていたあの岩山を、こうして上空から眺めるのは不思議な気分だった。
「えっ……これは」
ふいにリンデが呟いた。彼女の視線の先を追うと、外を映している壁面の一部に赤い点が浮かんでいた。その点は外の景色の上に重なっていて、三次元的な奥行きをもっていた。その証拠に、最初はひとつだった点が次の瞬間には爆発的に急増し、それが上下左右だけではなく、前後にわたって立体的に広がっていく。甲高い音が、ポッドの内のどこかから鳴り始めた。
「そんな、どうして急にこんな――」
突然、耳をつんざくような轟音とともに世界が激しく揺れた。二人はその衝撃に短く悲鳴をあげ、エルは肩から壁に激突して床に投げ出された。壁に映る外の風景は明滅し、何度も苦しそうな音を立てる。
「エル! 大丈夫ですか」
リンデは床に倒れているエルに覆いかぶさるようにして顔を覗き込んだ。
「うん、大丈夫」
肩と胸に鈍い痛みを感じたが、怪我はなさそうだった。彼は体を起こし、シートの後ろへと戻った。
「だけど、急にどうしたんだ」
「……狙撃されました」
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