28. 青い衝動
とぼとぼと森の中を進んでいくうちに、様々な感情が湧き上がってきた。ふと自分が泣き出しそうなことに気づき、彼は慌てて足を止めた。深呼吸をしながら、泣くのだけはダメだと自分に言い聞かせる。これ以上自分を惨めにするのは、それこそ本物の馬鹿だ。
なんとか気持ちをごまかして森を進んでいくと、開けた場所に出た。数本の倒木と下生えだけが広がる空き地で、野球をするには狭すぎるが、少し休むには十分すぎる広さだった。彼は比較的新しい倒木の上で横になり、敬愛するジョー・メジャーの帽子を脱いだ。夜空に散らばる星々をぼんやりと見上げていると、やがて枝葉の擦れる音が聞こえてきた。
木々のあいだから灰色の巨人が現れ、地面を踏みしめてこちらに近づいてくる。そのままエルから五メートルほど離れたところで静止すると、前面が開き始めた。完全に開ききってしまうのを待ってから地上へ下りると、リンデはなにも言わずに微笑んだ。
「どうしてここが分かったの」
そんなことはどうでも良かった。なにか言わなければならないような気がして、適当なことを口にしただけだった。
「センサーであなたの位置が分かりましたから」
「へぇ、そうなんだ」
相変わらず彼女の話はよく分からず、エルは素っ気なく応じることしかできなかった。リンデは彼の態度など気にしていないように、夜空を見上げた。
「きれいな月ですね。昨日もそうでしたが、夜をこんなにも穏やかに……美しいと感じるのは、とても久しぶりです」
「いつもの夜だよ。なんでもない、当たり前の」
「あなたにとってはそうかもしれませんね。でもわたしには――わたしと同じ時間を生きた人たちには、こんな夜はほとんどありませんでした。夜は恐ろしくて、多くの人が、ほんとうに多くの人がいなくなってしまう時間でした」
「……どういうこと?」
だがリンデは彼の問いには応じず、別の話を切り出した。
「わたしは今から、スカーを越えます」
はじめはその意味を理解できなかった。一呼吸をおいてからようやく、驚きとともに彼女の言葉を飲み込んだ。
「越えるって、まさか、向こう側に行くってこと?」
動揺でうまく回らない舌を、なんとか動かす。それだけ言うのが精一杯だった。
「そうです。あのポッドなら、それほど難しくはありません」
でも、とエルは言いかけて、やめた。たしかに、あの不思議な乗り物ならスカーを越えることだってできるのかもしれない。あれはリンデを乗せて、遠い宇宙からこの世界に降りてきたのだ。それに比べれば、あの巨大な崖もたいした障害ではないのかもしれない。
「また戻ってくるのか」
「えぇ、もちろんです。向こうになにがあるにせよ、わたしはまだ色々と知らなければなりませんので」
「……分かった。気をつけて」
彼がそう言うと、リンデは真顔で頷いた。
エルはポッドに乗り込むリンデを見送りながら、かつて経験したことがないような焦燥を感じていた。
彼女は今から、スカーの向こうへ渡る。そこはおそらく、この世界に生きる人々の誰一人として到達したことのない場所のはずだ。いつの日かスカーを越える。それはエルの夢のひとつだった。そこにあるものを自分の目でたしかめ、さらにその果てにあるという「海」というところまで必ず辿り着いてやると、そう思ってきた。今夜、彼女がそれを成し遂げようとしている。
耳の裏に心臓が移動したかのように、鼓動の音がうるさかった。両手で耳を塞いでも、きっと消えてくれないだろう。もしかするとそれは明日も明後日も、いや、この先ずっと鳴り止まないかもしれない。
ポッドの前面が閉じはじめた。それが完全に閉じてしまう直前、彼は叫んでいた。
「待ってくれ!」
ポッドの動作が停止し、隙間から彼女が顔を出した。
「どうしました?」
「お願いだ、リンデ。俺も連れて行ってくれ」
彼女は黙ったままエルを見つめていた。彼もリンデから目を逸らさなかった。
「分かりました。ですが、向こうの状況についてはまだ不明な点が多いです。まずはわたしが先に行って調べてきますから、明日の昼間にでも一緒に――」
「それじゃダメなんだ! いま行かなきゃ、きっと、俺は」
言いたいことが上手くまとまらず、言葉は何度も喉に詰まった。リンデは黙ったまま、エルの言葉を待っていた。
「絶対にきみの邪魔はしないって約束する。だから……お願いだ、俺も連れて行ってくれ!」
ほんの短い時間、沈黙が下りた。その無言の数秒が、彼にとっては永遠のように感じられた。諦めが胸に満ち始めた頃、ふたたびポッドが開いた。リンデは階段状になった開口部に立つと、首をすこし傾げて微笑んだ。
「邪魔だなんてことはありません。それに本当はわたしも、あなたについてきて欲しいと思っていました」
彼女の白い手が、エルの前に差し出される。ためらわずに、彼はその手をとった。
「乗ってください。二人だと少し狭いですが、我慢してくださいね」
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