27. CSPポッド
対岸までは五百メートルほどの距離があり、それが左右の見通せる限りにずっと続いている。歴史によると、これは天の子供たちが人間と死者の国を分かつために創ったものだ。エルはそんな話を信じてはいないが、こうして実際にスカーを目の当たりにすると、どうしても超自然的な力の存在を感じずにはいられない。
彼はスカーへと近づいていった。吹き上がる風に帽子が飛ばされないよう注意しながら下を覗きこむと、ペンキで塗りつぶしたようなべっとりとした闇だけがそこにあった。対岸にはこちら側と同じように森が広がっており、その奥には岩石の露出した山であるトラペジア・ロウの頂きが突き出している。
彼はしばらくその場に佇んでいた。思考は上手く働かず、考えらしいものはなにひとつ浮かんでこなかった。そうしていくらかの時間が過ぎた頃、ふと背後から物音がした。ぼんやりとしていた頭に瞬時に血が通い、彼は弾かれたように振り返る。だがそこにいたのは、彼が期待したものではなかった。
彼の背後には、月明かりを受けるのっぺりとしたなにかが立っていた。立っていると表現したとおり、二本の足で地面に直立している。大きさは三メートルほどだろうか。つるりとした卵型の体と長い手足をもった人型で、灰色の体が月明かりを受けて輝いていた。だが、黒い帯状に見える溝が上部を囲んでいるだけで、頭のようなものは付いていなかった。顔がないということがどれほど気味の悪いことか、エルはこのとき初めて知った。
最初に思い浮かんだのは、幼い頃に恐れていた森の魔物のことだった。人々を惑わせ、森に侵入した者の頭を爆発させるという太古の悪魔。もちろん今はそんな話など信じていない。だが、それほどまでに目の前に立っているものは異様であり、不気味だった。
恐怖を覚えた彼は、反射的に後ろへ数歩下がった。だが、それが誤りであったと悟った時には、すでに彼の足は地面を踏み外していた。支えを失った体はあっけなく地面を離れ、深い闇に満たされたスカーの底へ飲み込まれていく――かに見えたが、彼の体は空中で静止した。
星の瞬く夜空から視線を落とすと、灰色の巨人から伸びた長い腕が彼を抱きかかえていた。彼はそのままの格好で地上へと運ばれ、崖から十分に距離を取ったところで解放された。巨人の体は先ほどより小さくなっていたが、エルを離した腕が最初の位置に戻ると、ふたたび元の大きさに戻った。仕組みは全く分からないが、どうやら伸ばした腕の分だけ体が縮むらしい。
唖然としている彼に追い打ちをかけるように、巨人にまた変化が起こった。のっぺりとした表面に切れ込みが現れたかと思うと、その内側部分がゆっくりとこちら側に倒れてくる。その動作には見覚えがあった。
「エル、大丈夫ですか!」
リンデは開いた隙間から顔を出すと、開口部が地面に到達するのを待ちきれずに外へ飛び出した。その勢いのままエルに駆け寄ると、彼の体を点検しはじめた。
「ここ、血が出てる。すみません、わたしが上手く掴めなかったせいで――」
「違うよ、これはさっき森で転んだときのやつだ」
彼は肘の擦り傷をリンデから遠ざけようと、腕を背中のほうへ回した。
「ありがとう、リンデ。助かったよ」
彼女は昨夜着ていた身体にぴったりと張りつく服に戻っていたため、エルは目のやり場に困って視線をあちこちへと泳がせていた。
「いいえ、わたしが驚かせてしまったせいです。本当に申し訳ありません。もう少しで、取り返しがつかない状況に……お詫びの言葉もありません」
「大丈夫だったんだから、もういいって。それより、あれは?」
エルに言われ、リンデが巨人のほうへ振り返った。
「あれはCSPポッドです。昨夜わたしが乗っていた球体が変化したものです。今は探査用の形態で、先ほどのような超塑性……簡単に言うと、伸びたり縮んだりできるんです」
一呼吸置いてから、彼女は再びエルに向き直った。
「あなたはどうしてここに?」
「家にいなのに気づいて、それで……なんとなく、ここにいるような気がしたから」
そうですか、とリンデは小さく呟いた。
「すみません、あなたにだけはきちんと伝えておくべきでした。どうしても、この森のことを調べておきたかったんです」
「でも、どうしてこんな夜中に。もっと明るい時間に来ればよかったのに」
「みなさんは森をとても恐れているようでしたから、わたしが行くと言えばきっと心配するでしょう。それに――」
彼女はエルから視線をそらした。
それを見て、ようやく彼にも分かった。もしもリンデがここに来ることを自分に告げていれば、一緒に行くと言っただろう。彼女はそれを嫌がったのだ。そう思うと、急に無力感に襲われた。
「俺、帰るよ」
ぽつりとそう言って駆け出しかけた彼を、リンデが呼び止めた。彼は足を止めたが、振り返ることはできなかった。
「あなたを信頼していないわけでは、決してありません。ただ、あなたを危険に晒すようなことが起こらないとも言い切れませんでした。実際、さっきだって……」
「危ないのはきみも同じじゃないか」
黙って立ち去るつもりだったが、思わずそう口にしていた。
「はっきり言えばいいだろう。俺がまだ子供で、なんの役にも立たないから声を掛けなかったって。きみにはあの奇妙なポッドだとかいうものもあるし、俺の道案内なんて必要ないんだからさ」
こんなことを口にすること自体が幼さの証明であることはエルにも分かっていたが、それを止める方法を彼は知らなかった。
「それは違います。子供だとか大人だとか、そんなことは全く関係ありません。わたしはあなたを信頼しています。それだけがわたしには重要なんです」
「だったら――」
彼は振り返り、リンデを見た。だが、真っすぐに向けられた彼女の瞳を目の当たりにすると、彼は言葉を失ってしまった。
「だからこそ、です」
「……分かった」
ふたたびリンデに背を向け、今度こそ彼は暗い森の中へと入っていった。
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