26. 森の記憶

 ようやく森に着いた。まるで時間が止まっているかのような静寂の中で、自分の荒い呼吸音だけが喧しく、耳ざわりだった。

 濃い闇のせいで視界はかなり制限されていたが、ここは彼の慣れ親しんだ場所だ。感覚的に進むべき道は把握していた。迷いのない足取りで十五分ほど進んでいくと、群生するアイシュワリヤを前景にして立ち並ぶジャイアント・セコイアが現れた。だが、そこには昨日あったはずのものがなかった。セコイアの幹にめり込んでいた灰色の球体が消え去っているのだ。

 落下時に薙ぎ倒された木々も、地面を抉った跡も、衝突によって破砕した幹の窪みも、たしかに残っている。あの球体だけがそこになかった。エルは球体がめり込んでいた幹に近づくと、ささくれ立った外周部に触れた。指先に感じる痛みは、紛れもなく本当だった。

 彼はその場に立ち尽くし、幹に残る傷跡を呆然と見下ろしていた。彼をとらえた喪失感は、半円形に窪んだ幹の大きな欠損よりもなお巨大な空虚さで胸を満たした。彼女は去ってしまった。冒険はもう終わりなのだ。

 だが、どうしてこんな急に。なにも見つけないまま、彼女は宇宙へと帰ってしまうだろうか。それとも、なにかを見つけたのだろうか。なにも分からなかった。ただ――このまま終わるのだけは嫌だった。

 見定めるようにして森の奥、ジャイアント・セコイアの後方へと目を凝らし、彼は駆け出した。木の根につまずき、下生えに足を滑らせた。そうして何度も転ぶうちに過去がひたひたと忍び寄ってきて、今の自分と、いつかの記憶が重なった。


 七歳の時だった。

 その頃、エルは父が帰ってこないのではないかという疑念を抱きはじめていた。父が仕事で家を出てから丸二年が経っていたが、彼にはあの優しかった父が二年ものあいだ手紙の一枚も送ってこないということが信じられなかった。そこにはなにか、重要な意味があるのではないだろうか。そうして考えていくと、最後にはいつも決まって悪い想像に行き当たった。

 だが、エルは自分の想いを誰かに打ち明けることができなかった。父との記憶が少ないソフィアは今の生活にそれほど違和感を持っておらず、母も当たり前のように日々を過ごしていた。時折、会話の中で父の話題が出ることもあったが、そんな時でも母は、

「きっとお仕事が忙しいのよ。お父さんほど腕の良い電気技師は、なかなかいないんだから」

 と笑うだけだった。

 もし自身の不安を曝け出してしまえば、母の笑顔を曇らせてしまうかもしれない。そう考えた彼は一人で不安と向き合うことを選んだ。だが、まだ幼かった彼がそんな孤独な戦いをいつまでも続けられるはずがなかった。

 やがて彼は父を探すために、人目を忍んでブーザーズ・フォレストに入るようになった。この森はサントークの住民ならば決して近づこうとしない禁じられた土地であり、父がエルにだけ教えてくれた秘密の場所だ。もしもどこかに父の手掛かりがあるとすれば、この森以外には考えられなかった。彼は父の痕跡を探して森を隈なく歩き回り、その履歴として持ち歩いていたノートに地図を描いた。

 昼間でも薄暗い森は、七歳の子供が一人で歩くには寂しい場所だった。枝葉が作る不気味な影やあちこちに転がる巨大な石は幾度となく彼を震え上がらせ、行く手を阻んだ。だが、家に帰っていつまでも父を待ち続けることのほうが、彼にはずっと恐ろしいことに思えた。日々積もっていく不安を振り落とすためには、行動し続けることが必要だった。

 そんな日々を繰り返していくうちに友達は離れていき、彼は変わり者として疎まれるようになった。だが、それはむしろ好都合だった。遊びに誘われるたびに言い訳を探す必要がなくなり、不当な理由で因縁をつけてくる連中と喧嘩になっても誰も彼を心配しなくなったからだ。だが、家族と過ごす時間だけは以前と変わらないように注意していた。母に不要な苦労を掛けることだけは、絶対に避けたかった。

 探索は少しずつ進められ、三年もの歳月を掛けてようやく彼は森を踏破した。そうしてその日の夜、彼はノート二十六冊分にもなったブーザーズ・フォレストの地図を家の裏庭で焼いた。彼はノートを焼く炎を見つめながら二度と父には会えないことを受け入れ、去っていった父を憎むようになった。

 その翌日、エルは十歳になった。


 過去を振り払うようにして、彼は夢中で森を駆けた。何百本もの木々を越え、月明かりの落ちる開けた広場をいくつか通りすぎる。もう何度転んだのかも分からなかったが、それでも彼は足を止めなかった。

 そうして二十分ほど走り続け、ついに彼は森を抜けた。満身創痍の彼を待ち受けていたのは、途方もなく広大な崖。巨大な風の唸りを上げるその断崖こそ、人々から世界の果てとも呼ばれている大地の傷跡、スカーだ。

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