25. 夜のはじまり

 母は帰ってきたエルたちを玄関で迎えると、「二人とも、おかえりなさい」とにっこりと笑っただけで、リンデが泊まりにきた理由を詮索したりはしなかった。それどころか、彼女の分の夕食や着替え、寝具の準備からリンデ専用マグカップに至るまで、あらゆる用意が済んでいた。

 リンデは母特製のビーフシチューや食後のブラウニーを昼食の時以上の興奮をもって食べていたが、なによりも彼女を喜ばせたのは風呂だった。彼女はシャワーで上気した頬をエルの耳元に寄せて、「あんまりにも嬉しくて、わたし、少し泣いてしまいました」と、はにかんだ笑みを浮かべた。宇宙では水が貴重なため、ほとんど風呂に入ることがないのだそうだ。

 彼女が宇宙でどんなふうに生まれ、どんな生活を送ってきたのか、エルは上手く想像することができない。だが今日一日を通して、彼女が些細なことに感動する姿を何度も目にした。そんな彼女が今は母のパジャマを着て、ソフィアと笑い合いながらジグソーパズルをしている。

 こうして平和な時間を眺めていると、彼女には探しものを見つけるよりもずっと大切なことがあるように思えた。俺は、彼女がそれを経験する手助けをするべきなのではないだろうか。そうして過ごす時間は探検よりもずっと、特別な夏休みなんじゃないか?  アイクが言ったように、夏休みは長いのだから。

 お兄ちゃんも手伝ってよ、とソフィアがぼんやりしているエルを呼んだ。それだけならまだ可愛いものだが、「そうやってぼーっとしてると頭がチーズになるよ」とか「どうせまた馬鹿なこと考えてるんでしょ」と付け加えるところがソフィアらしい。

 渋々、エルも彼女たちに加わった。ジグソーパズルをするのは父がいなくなってから初めてだったが、ピースをひとつずつ嵌めていく作業は記憶にあるよりもずっと楽しかった。家事を終えた母が参加してきたあたりから収集がつかなくなり、見当違いな助言や無理やりピースを押し込む力技のせいで、公園を走る犬の絵はいつまでも完成しなかった。だが、みんな笑っていた。こんなに楽しい夜は久しぶりだった。


 ふと、エルは夜中に目を覚ました。

 気を張って疲れていたのか、彼はいつもよりずっと早くベッドに潜り込んでいた。テーブルの時計を見ると、眠ってからまだ二時間しか経っていない。彼はベッドの上で体を起こし、家に漂う静寂の音を聴いた。それでも、彼の気分は落ち着かない。息が詰まるような、妙な胸騒ぎがした。

 そっと部屋のドアを開けて、照明の落ちた廊下に顔を出す。母はすでに寝てしまったようで、リビングにも明かりは灯っていなかった。彼は部屋を抜け出すと、嫌な予感を抱いたままソフィアの部屋へと向かった。

 ほんの少し、一瞬のあいだ覗くだけだ。何度もそう自分に言い聞かせて妹の部屋のドアノブに手を伸ばし、音を立てないように注意しながら慎重にドアを開いた。室内は暗かったが、中の様子が分からないほどではない。

 閉ざされたカーテンのそばに置かれたベッド。そこにはソフィアが眠っていて、枕元には大きなぬいぐるみが二つ、行儀よく座っている。ベッドの下には客人用のマットレスが敷かれており、きれいに畳まれたタオルケットが片側に寄せられている。まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように。心臓が強く、胸を打った。

 玄関へ向かうと、リンデのブーツがなくなっていた。代わりに、彼女が家の中で履いていたルームスリッパがドアの横に並べられている。彼女が外へ出たことを確信するには、それで十分だった。

 どうしてこんな時間に? 考えるよりも先に、体が動いていた。彼は自分の外履き靴を持つと自室に戻り、急いで着替えを済ませた。窓を押し上げ、枠木に足を掛けたところで、帽子を忘れていることに気づいた。彼はテーブルに置いてあった帽子を深々と被ると、今度こそ窓から外へ出た。


 まだ多くの家に明かりが灯っていたが、外に出ている人はおらず、涼しい風が通りを吹き抜けていくばかりだった。晴れ渡った夜空には星が散らばり、大きな丸い月が地上を明るく照らしている。のんびりと散歩でもするのなら、気持ちの良い夜だっただろう。

 どこへ行けばいいのか分からなかったが、とにかく彼は足の向くままに走り出した。彼女の行き先の心当たりはそう多くない。二ブロックほど進んだところで、昼間リンデがブーザーズ・フォレストの話をしていたことを、そして、その時の彼女の表情を思い出した。幸いにも、無意識に動かしていた足は通い慣れた道を選んでいた。彼は走る速度を上げ、隠れ家へと急いだ。

 ツリーハウスにリンデはいなかったが、母が彼女に貸した部屋着が中央にぽつんと置かれていた。間違いない。彼女は森へ入ったのだ。彼はツリーハウスから飛び降りると、ふたたび森へ向かってサイクリングロードを走った。

 そういえば昨晩も走っていたな、とエルは息を切らせながら思った。あの時、彼を急き立てていたのは期待だった。一秒でも早く青い光の正体を知りたくて、彼は無我夢中で走り続けた。だが今、彼を前へと進ませているのは、昨夜とは真逆の感情だった。

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