22. カール先生

「一万年! ……一万年って何年だっけ?」

 とぼけたロビィの発言を無視して、ジャッキーがふたたび否定的な態度を取った。

「もしもあんたの言うことが本当だったしても、もう無くなってるって。だって一万年だぜ?」

「いいえ。この北アメリカ大陸以外の世界が今も存在していることは観測済みです。どういった状況になっているかまでは、まだ分かりませんが」

「やっぱり! そんな気がしてたんだよ!」

 興奮するロビィの横で、思わずエルも声を上げそうになった。ずっと思い描いてきた世界の外側。それがいま、目の前に立つ青い髪の少女によって語られている。こんな日が来ることを、エルはずっと夢見てきたのだ。

「落ち着きなって、ロビィ」フレディが落ち着き払った声で言った。「そもそも、僕たち人類が生まれたのって、一万年も前じゃないはずだよ」

「そうだっけ? あれ、じゃあ……どうなってるの?」

 助けを求めるようにリンデを見つめるロビィに、彼女は困ったような顔になった。

「えぇ、わたしも図書館でそのことを知りました」


 ふいに耳障りな音を立ててドアが開き、眼鏡を掛けた長身の男が教室に入ってきた。

「お前ら、なにやってんだ。まだ夏休みは終わってないだろう」

「お、おはようございます、先生」

 フレディはクラスの担任教師であるカールの顔を見て、反射的に椅子から立ち上がった。教師は気だるげな調子で挨拶を返してから、「それで、なんでここにいるんだ?」と質問を繰り返した。

「ちょっと、用事があって」

 エルは咄嗟にそう言ったが、その先の説明までは考えていなかった。

「へぇ……どんな?」

「野球で使う道具を借りに来たんです」

 と、すぐにアイクが後を引き継いだ。

「でも、保管室には鍵が掛かっていたので、どうしようかと話し合っていたところです」

「それなら保管室じゃなくて、体育用具庫だろう」

「必要なのは審判用のマスクなんですが、それが保管室にあるんです。あまり使わないものなので」

 ふーん、とカールは気のない返事をしてから、黒板の前に立っているリンデに目を向けた。

「あの子は?」

「俺の従姉です。クレストから昨日の決勝戦を観に来て、今日は俺たちが町を案内してるんです」

 こういう時、アイクほど頼りになる者はいない。どうしてこうもすらすらと言葉が出てくるのかと、エルはいつも感心させられる。それは他の三人も同じようで、アイクの話に力強く頷いていた。

「なるほどな」

 エルはカールの眼鏡の奥に不審の色があるように感じた。今にも彼女の正体を見破り、警察署長である「無能ボブ」に引き渡そうとするのではないか。

 だが、そんなエルの不安は突然和らいだカールの表情と共に消え去った。

「残念だったな」

 話しかけられたリンデは、戸惑いながら曖昧に首を傾げた。

「レインバケッツもいいところまで行ったけど、今年は我らがアンブレラスパイダーズのシーズンだった。そうだろ、フレディ」

 レインバケッツのユニホームを着ているリンデを見て、カールは彼女がレインバケッツのファンだと勘違いしてくれたようだった。

 安堵するエルとは対照的に、名指しされたフレディは慌てて姿勢を正した。

「はい、最高でした」

「そのとおりだ。まさに最高だったんだよ。だからこそ、最後に邪魔が入ったのが悔しい。あの騒動さえなければ、間違いなく勝っていた。再開した直後に満塁ホームランで逆転だって? いまだに信じられない。イエローサブマリンが優勝するなんて、あり得ないね」

「そうですよ!」

 勢い良く机を叩くフレディは、つい先ほどまでの内気な彼とはまるで別人だった。

「もう勝ちは決まってたんだ。あそこで中断さえしなければ――」

 だが、勢いはそこまでだった。例の騒動の張本人を前にして言うべきことではないと気づいたフレディは慌てて口を閉ざした。その間を見逃さず、アイクは話題を保管室へと戻した。

「さっきの話なんですが、保管室の鍵を貸してもらえませんか?」

「まぁそれは構わないけど、お前らも好きだねぇ。こんな暑い日によく外で野球なんてできるな」

「先生だって熱心じゃん。夏休みにまで学校にいるなんてさ」

 ロビィを軽く睨んでから、カールはため息をつく。

「仕方ないだろう、仕事なんだからさ。鍵を貸してやるから、ついてこい」


 廊下へ出てからも、カールはリンデをちらちらと見ていた。だがそれは当然の反応だ。青と白が入り混じった変わった髪だけでも十分に目を引くが、レインバケッツのユニフォームを着ていたり、耳から垂れ下がる紐で首の後ろに六角形の箱をさげていたりと、たいていの人は彼女を観察してしまうだろう。

「クレストではそういうアクセサリーが流行っているのか?」

 カールの質問に、いえ、とリンデは微笑む。

「たぶんわたしだけだと思います」

「へぇ、変わってるんだな。俺が最後にクレストに行ったのは、もう二年も前になるかな。きみはハイスクールのようだけど、学校では誰に教わってるんだい? クレストのハイスクールには、馴染みの先生が多いんだよ」

 エルはアイクのほうへ目を向けたが、彼はかすかに首を振るだけだった。ここはリンデに任せるしかなかった。

「リド・ファイン先生です」

 迷う素振りもなく、彼女は即答した。

「リド? 聞かない名前だな」

「歴史だけじゃなくて、なんでも教えてくれるんです。少し変わった人ですが、でも――わたしは先生を尊敬しています」

「へぇ、そんな教師がいるんだね。まぁ、向こうも人手不足なんだろう。それにしても」

 彼は後ろを歩く教え子たちを振り返った。

「聞いたかお前ら。尊敬だってさ、尊敬。ジャッキー、お前この言葉の意味を知ってるか? 少しはこの子を見習ってもらいたいもんだね」

「はーい、心掛けまぁす」

 ジャッキーは少し高音に上げた声で返事をしたが、カールが前に向き直るとすぐにその背中に向かって舌を出した。


「そうだ、ねぇ先生。ちょっと教えて欲しいんですけど」

 ロビィは小走りで教師の横に駆け寄った。

「人間がこの世界に生まれたのって、いつでしたっけ?」

「お前なぁ」

 カールは大袈裟に肩を落とした。

「ミドルにもなって、よく恥ずかしげもなく俺にそんなことが聞けるな」

「もちろん知ってますって。でもほら、よくあるじゃないですか。頭の中で数字がぐちゃぐちゃになっちゃって、みたいな」

「お前の場合、数字だけじゃなさそうだがな」

 職員室に着くと、カールは棚から金属の箱を取り出しながら気だるげに話し始めた。

「人間が発生したのは、今から約三千年前だ。そのときまで人間はただの土塊のごとき存在にすぎなかった。そこへやってきたのが、聖典に『天の子供』と記される使徒たちだ」

 なかなか鍵が見つからないのか、カールは箱の中をかき回しながら舌打ちをした。

「使徒たちは突然天から降りてくると、土塊に大地を歩く力を与えた。次に意思と言葉を、空には太陽を与えた。そして最後に生者と死者を分かつために、大地を食んでスカーを創った。それから七日のあいだ人間たちを見守ると、いずこへと去っていった。そうしてお前らは呑気に野球をし、俺は安月給の学校教師になったわけだ」

 どうやら箱の中には鍵がなかったようだ。カールは窓際にある机に移動すると、引き出しを開けて中を漁り始めた。

「子供の頃から何十回も聞かされてるけど、やっぱり嘘っぽいよなぁ」

 ジャッキーはそう言うと、近くの机に置いてあった板状のチューイングガムをこっそりと口に放り込んだ。フレディが小声でそれを注意したが、ジャッキーは歯のあいだから息を漏らして笑うだけだった。

「人間誕生についての記述が見られる古文書には、必ずこのエピソードが含まれている。細かい部分で若干異なっている点もあるが、粗筋は全く同じだ。実際に天の子供と会ったという人物の手記も残っている」

「そんなの、誰かが作ったお話かもしれないじゃん」

「『壮大な物語』、ね。まぁ俺も昔は考えたりもしたけどな。……やっぱりここにあった。あのガキ、使ったら戻しとけって何度言えば――」

 カールは荒々しく引き出しを閉め、足音高くこちらへ戻ってきた。

「いいか少年たち、よく覚えておけ。夢を見るのは勝手だ。だが、それはただの妄想だ。お前らの頭の中にだけあるものなんて、犬の糞ほどの価値もない。俺たちが学校で教えていることが現実の全てなんだよ。諦めて真面目に勉強しろ。特に、ロビィとジャッキー」

 名指しされたロビィは縮こまり、一方でジャッキーはどこか遠くへ目を向けながら口笛を吹く真似をしていた。カールは鍵をアイクに手渡すと、彼らのことなど忘れてしまったかのように自分の机に向かって仕事を始めた。


 結局、保管室には目ぼしいものはなかった。様々なものが雑然と詰め込まれた部屋での唯一の戦利品は、リンデが興味を示した古いサントークの地図だけだった。大判サイズの地図を折り畳み、ポケットに詰め込んで学校を出た。

 そんな彼らを待っていたかのように町中にサイレンが鳴り響き、今日もサントークに正午がやってきた。

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