18. 笑えない冗談

 図書館へ戻って最初に目にしたのは逃げ回っているジャッキーだった。その後ろを、ロビィが言葉にならない声を上げながら追いかけている。

 ロビィの顔は郵便ポストのように真っ赤だった。おそらく、ジャッキーがロビィの顔にペンキのようにしてケチャップを塗りたくったのだろう。ロビィはいつも瓶詰のケチャップを持ち歩いていて、なんにでもつけて食べる習慣があった。

「もう許さないぞ、ジョン・グレイ! 絶対に思い知らせてやる!」

 笑いを堪えるジャッキーと、歯を剥き出して怒っているロビィ。そのそばでは目覚めた司書の老人が、「やめなさい、ここで騒ぐんじゃない!」としわがれた声で叫んでいる。だが二人の諍いは過熱していき、ついには棚から手当たり次第に本を取って投げ合いはじめた。

 アイクは呆れ果てたようにため息をつき、フレディを連れて二人を止めに向かった。そのあいだにエルは書庫を閉め、司書に気づかれる前に鍵を元の場所へ戻した。手早く仕事を終えたエルがカウンターの外へ出てみると、事態は一変していた。


 いつの間にか館内は静かになっていて、床で寝ているロビィのそばにリンデが座り込んでいた。その周りを少年たちが取り囲み、少し離れて司書の老人が立っている。リンデはロビィの顔を覗き込みながら「良かった」と声を震わせ、そんな彼女を見上げているロビィは困り果てた顔で視線を泳がせていた。

「どうしたんだ?」

 小声でアイクに尋ねると、彼は戸惑ったように肩をすくめた。

「二人を止めようとしたら彼女が急に飛び出してきて、無理やりロビィを床に寝かせたんだ。ロビィのあの顔を見て、大怪我したと思ったみたいだ。『すぐに止血しないと』ってさ」

 こちらからでは彼女の表情までは分からなかったが、ジョー・メジャーの背番号である三十四が、今はどこか弱々しく見えた。

「こんなところで怪我なんてするわけないじゃん」

 事の発端であるジャッキーが、素知らぬ顔で言った。

「えぇ……そうですよね。わたし、どうかしていました。ごめんなさい」

 ジャッキーへ笑顔を向けたリンデの目には薄っすらと涙が光っていた。

 普段のエルならばすぐにジャッキーを捕まえて、力づくでもリンデに謝らせただろう。だがエルは今、彼女の横顔をじっと見つめたまま動くことができなかった。


 ふいに誰かが腕に触れて、ようやくエルは我に返った。見ると、アイクがエルの腕を肘で押して合図を送っている。エルは瞬時にその意味を察し、行動に移った。

 まずリンデの肩をそっと叩いて彼女を立ち上がらせ、次にロビィを強引に引っ張り起こした。「走るよ」とリンデに小声で告げると、彼女は目頭を拭いながら不思議そうな顔をする。だが、説明している時間はなかった。

「お前たち――」

 老人が口を開いたと同時に、少年たちは走り出していた。

「お、おい! ちょっと待たんか!」

 エルはリンデの手を取り、出口に向かって走った。

 咄嗟に握った彼女の手はとても冷たくて、まるで冬の朝のようだった。そして、

彼の手を握り返すその白い指は、曖昧な目覚めに差し込む淡い光のように柔らかだった。

 だが、やはり世界は夏だった。太陽は外へ飛び出したエルたちを見逃さず、彼らを溶かさんとして燦々と降り注いだ。ジャッキーとロビィは走りながらもまだ喧嘩を続けていた。

「あんまり怒るなよ、ロビィ。洗えばすぐに取れるって」

「そんなこと、もったいなくてできるはずないだろう! 今すぐホットドッグを買ってきてよ、十本!

「自分の指でも齧ればいいじゃん。ソーセージにそっくりだし」

 またもやロビィはジャッキーに掴みかかろうとしたが、二人のあいだにいたアイクが止めた。

「あのままにしてきて良かったんでしょうか?」

 そうリンデに問われた時、ようやくエルは彼女の手を握ったままでいることに気づいた。慌てて指を離し、できるだけ平静さを取り繕って答えた。

「大丈夫だと思うよ。暇そうだったし」

 床に転がっていたケチャップまみれの本を思い浮かべてみると、とても大丈夫には思えなかった。だが、まじめなリンデに余計な心配をかけさせたくはない。

「そうそう。あの爺さんも、居眠り以外の仕事ができて喜んでるよ」

 アイクの説教から逃げてきたジャッキーが、他人事のようにうそぶく。

「もう、いい加減にしなよ」

 息を切らせながらフレディは声を絞り出し、ジャッキーの肩を小突いた。だがそれは、フレディらしい優しいパンチだった。

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