9. ソフィア・スコール
音を立てないように玄関ドアを閉めたつもりだったが、上手くいかなかった。
カチャリという音が、誇らしげに鳴る正午のサイレンのように玄関に響き渡った。
恐る恐る振り返り、廊下の奥を見つめる。だが、しばらく待ってみても誰も出てこなかった。エルはホッと胸を撫で下ろすと、慎重に廊下を進んで自室へと入った。
すぐにタンスから毛布を引っ張り出し、机の一番下の引き出しに入れてあった瓶詰めクッキーとキャンディと共にリュックに詰め込む。他に何かないかと部屋の中を見回してみると、ベッドのヘッドボードに置いてあるオレンジジュースの瓶が目に入る。先週ドラッグストアで見つけた、ラベルが逆さまに貼られている珍しいものだ。少し悩んでから、それもリュックに入れた。
彼女の服については、母のものを借りることにした。
二階の明かりが消えているのを確認すると、彼は足音を殺して階段を上がった。母の部屋に入るのはずいぶんと久しぶりだったが、記憶にある部屋の風景と何も変わっていなかった。エルが最後にこの部屋に入ったのは五年前のことだ。
怖い夢を見たせいで眠れなくなってしまったエルは、夜中に母の部屋のドアをノックした。母はエルのためにベッドを半分も提供してくれて、エルの髪を優しく撫でながら「どんな夢を見たの?」と囁いた。
覚えていない、とエルは生まれて初めて母に嘘をついた。それは、父の夢だったからだ。母はそれ以上何も言わず、一晩中エルを抱きしめてくれた。あの夜、ベッドの中に溢れていた母の優しい匂いを、エルは今でもはっきりと覚えている。
クローゼットを開き、なるべく母に気づかれないものを選ぼうと品定めしていると、奥のほうに仕舞ってある白地の服が目についた。レインバケッツのレプリカユニフォームだ。胸元には青い文字で『レインバケッツ』と刺繍されていて、後ろにはジョーの名前と、彼の背番号である三十四が大きく描かれている。
何年か前の試合の時に母が買ったものだが、一度しか着ているところを見たことがない。これなら問題ないだろう。
エルはベージュのズボンと一緒にユニフォームをリュックに入れると、クローゼットを閉めて部屋を出た。階段を下り、そのまま玄関ドアへ向かおうとしたところで、甲高い声に呼び止められた。
「どこ行くのよ」
弾かれたように振り返ると、妹のソフィアが腕を組んで立っていた。エルは舌を打った。
「あー! 舌打ちしたわね。お母さんにダメって言われてるのに!」
煩わしさをはっきりと顔に出したまま、ソフィアを見つめた。
「ちょっと出掛けてくるだけだ」
「ただいまも言わずに、ね」
ソフィアは胸で組んでいた腕をほどくと、両手を腰に当ててエルと同じように目を細めた。
「ちょっと出掛けるのに、そんな大きなリュックが必要かしら? それに、お母さんの部屋に入る必要もないと思うわ」
ソフィアはまだ九歳で、エルより三歳も下だ。それなのにこの頃は大人ぶった振る舞いをするようになり、特に兄に対してはまるで保護者のような口を利く。エルにはそれが気に入らない。
「お前には関係ないだろう」
「あるわよ。お母さんが心配しているわ。試合中、青い光が飛んで行ったのを見たでしょう。あれがなんだったのか、隣のシェーンおばさんも分からないって言ってたし……お母さんはいつも通りに振る舞ってるけど、絶対エルを心配してるわ」
「……母さんはどこに?」
ソフィアは黙ってリビングの奥のドアを指差す。バスルームだ。
「なるべく早く帰ってくるから」
ソフィアは首を振った。
「ダメよ。もし外に出たら、お母さんに全部言うから。黙ってお母さんの部屋に入って、大きなリュックを持って出て行ったって」
「悪いことをしに行くわけじゃない」
そう口にしたものの、エルには百パーセントの自信があるわけではなかった。だが、「証明できる?」というソフィアの問いには、大きく頷いていた。
「もし嘘だったら、この帽子をやるよ」
この言葉は、ソフィアに対する殺し文句だった。
彼女は以前からエルの宝物であるジョーの帽子を欲しがっていた。彼がそれを賭けるということがどういうことか、ソフィアにも分かっていた。
「……ずるいわ」
彼女はエルに背を向けると、とぼとぼとした足取りでリビングへ入っていった。エルは妹の背中を見送ってから、再び外へ出ていった。
ハウスの粗い木板の壁は、先ほどと変わらず淡いオレンジの光に照らされていた。急いで戻ってきた彼は、奥に座っているリンデの姿を見てようやく一息つくことができた。
「食べ物と服を持ってきた」
だが、リンデは壁にもたれて俯いたまま返事をしなかった。
近づいてみると、規則正しい呼吸音が聞こえた。エルはリュックを下ろすと、家から持ってきた毛布で彼女の寝床を作った。膝の裏と首に手を回してそっと彼女を持ち上げてみたが、彼女のあまりの軽さに驚いた。エルよりも背が高いのに、体重はソフィアよりも軽いかもしれない。エルはどこか苦しげなリンデの寝顔を眺めながら、彼女を毛布の上に横たえた。
持ってきた物を並べ終えると、エルはもう一度リンデを見つめた。本当に不思議な女の子だ。いつまでもそうして、彼女の寝顔を眺めながらそこに佇んでいたかった。
だが、ふとソフィアの言葉が耳元で蘇る。エルはランプを手に取ってドアまで行くと、徐々に橙色に染まっていく空を見上げる時のような気持ちで、ゆっくりとスイッチを捻った。ランプの明かりは、夕陽と同じように音もなく消えた。
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