8. 隠れ家への招待

 二人は暗い森の中へと入っていった。

 森は相変わらず、眠っているように静かだった。だが今夜はいつもとは違い、リンデの足音が聞こえる。誰かと一緒に森の中を歩くのは、不思議な感慨があった。

 彼女に聞きたいことは山ほどあった。だが彼女は疲れているようだし、今は森を抜けるのが先だった。


 黙ったまま歩き続け、ようやく森と町との境界であるバリケードを抜けると、リンデは大きく息をついた。

「大きな森なのですね。驚きました」

「北から南の端まで歩こうとすると、半日くらい掛かるよ。西側もスカーまでずっと森が続いているし」

「……スカー?」

 リンデは小さく首を傾げる。

「スカーとはなんですか?」

「なにって、スカーはスカーだろ。知らない人なんて――」

 そう言いかけて、エルは口を噤んだ。もし本当に彼女が空の彼方から来たというのなら、スカーを知らないこともありうるのかもしれない。


「スカーはこの世界を囲んでいる巨大な崖のことだ。対岸までは何百メートルも距離があって、底は見通せないくらい深い。俺たちの世界の最果て、らしい」

 最果てだ、と言い切ってしまうことはできなかった。

 誰もがスカーの先は人の領域外だと言う。だが、エルはいつかあの崖を越えるつもりだった。世界はもっと先まで続いているはずだと信じていた。だから彼にとって、スカーは行く手を阻む障害物のひとつにすぎない。


 エルの説明を聞いたリンデは、顎に手を当てて短く唸った。

「そんなものがあるなんて……とても興味深いです。スカーの向こうには、なにが?」

「大人たちの話だと、死者の国ってのがあるらしい。死んだ人の魂はスカーの向こうへ流れて行って、そこで選別される。良き魂は永遠に幸福になり、悪い魂は悪魔に食べられて消える。馬鹿馬鹿しいよな」

「エルは信じていないのですか?」

「当たり前だろう。あんなの、自分たちには分からないからって適当なことを言ってるだけだよ。ちゃんと調べようとすれば、絶対に分かるはずなんだ。それなのに――」


 その時、遠くから人の声が聞こえた。かなり距離があるのか、内容までは聞き取ることができなかったが、大きな声でなにか話し合っているようだ。

 バリケードは森を半円形に囲んでいて、半円をおよそ三分の一に区切るところに南ゲート、中央ゲート、北ゲートが設置されている。エルがいつも通っているバリケードが破れた場所は南ゲートから数百メートルほど奥まったところにあるが、おそらくそこに人が集まっているのだろう。

「何か聞こえましたね」

 リンデが囁いた。

「急ごう。大人たちに見つかると、まずい」

「どうして見つかるとまずいのですか?」

「どうしてって——」

 だがエルは上手く説明することができず、はぐらかすようなことしか口にできなかった。

「とにかく、今は休んだほうがいいだろう?」

 リンデは小さく頷いた。

「そうですね。今は体力を回復させるのが最優先です」

 サイクリングロードに出たところで歩調を早めようとしたが、彼女はやはり体調が優れないのか、あまり早足で歩くことができなかった。今にも後方から誰かがやってきて二人を呼び止めるような予感を覚えて、エルはずっと落ち着かなかった。


 だが幸運にも、二人の後を追ってくるものは天高く流れる雲ばかりで、誰にも会わずに目的地に辿り着くことができた。

「これは?」

 リンデは木の上に作られた小屋を見上げて言った。

「ツリーハウス。隠れ家なんだ」

「隠れ家……あっ、秘密基地ですね! 自分たちで作ったんですか?」

「うん、大変だった」

 梯子を上ってハウスに入ると、隅に置かれている様々な物が押し込まれた箱の中からランプを取り出した。おそらく誰かが自宅の物置から拝借してきたものだろう。この箱の中には、出自の定かではないこういった物がたくさん詰め込まれている。スイッチを捻ると、すぐに淡い光が灯った。


「お腹空いてる?」

 エルは唐突に切り出した。

「そうですね。少しだけ」

「じゃあ、なにか持ってくるよ。あと、着替えるものも」

 彼女はキョトンとした顔で自分の体を見下ろした。部屋を照らすランプの光が、ぴったりとリンデの体に張り付いているビニールのような服の上に曖昧な陰影を浮かび上がらせている。その下着のような服装のせいで、エルは先ほどから目のやり場に困っていた。

「たしかに、これでは派手ですかね」

 顔を上げると、彼女はエルをじっと見つめた。

「でも、どうしてそんなに良くしてくださるんですか? まだ私は、自分のことをほとんど話していないのに」

「だからだよ。色々と聞きたいからさ」

「わたしのことを怖いとは思わないんですか?」

「怖い人なの?」

「いえ、そんなことはない……はずです」

 彼女は歯切れが悪かった。

「ですが、このような場合には未知の相手を怖いと思うものですよ」

「まぁ、そうかもね。でも、最初から決めつけるのは良くない。どんなことも、まずは自分の目や耳で感じ取らなきゃいけない」

 その言葉が誰かの受け売りだと気づいて、エルは慌てて続けた。

「とにかく行ってくるから。休んでいて」

「分かりました」

 ハウスのドアを押し開けようとしたところで、リンデが彼の名を呼んだ。

「エル。ありがとうございます」


 外へ出るとエルは大きく息を吸った。夏の夜には、乾いた樹木の匂いがよく似合う。心地良い香りを胸いっぱいに取り込むと、彼は自宅へ向かって走り出した。

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