5. アルバート・ジェイムズ

 二人は屋台に向かって歩いていった。

 エルは背後から響いてくる熱狂を聞きながら、去年の試合のことを思い出していた。あまりにも熱中していて、ドリンクを買いに行く余裕なんてなかった。あの時は、アイクとジャッキーがソーダを買ってきてくれたのだ。

 ジョーがバッターボックスに上がるたびに、エルは声の限りにジョー・メジャーの名を叫んだ。だからエルは、偉大なジョーの最後の打席がセンターフライに終わってから数日間、話すこともままならないほどに落ち込んだのだった。


「アンブレラスパイダーズが勝つといいな」

 エルは本心からそう言った。フレディの気持ちは痛いほどよく分かる。エルの横顔に目をやって、アイクは微笑んだ。

「あぁ、そっちのほうが良いに決まってる」

「今年は、な」

「もちろんだ」

 アイクはエルの言葉に大いに同意を示した。

「来年はレインバケッツが優勝するんだ」

「当然だ」

 他愛のない話をしながら屋台に辿り着くと、見知った少年が立っていた。

「なんだ。お前も来てたのかよ、ストーム」

「悪いかよ、ジェイムズ」

 エルはこちらを睨んでいるアルバート・ジェイムズに、軽く手を上げて応えた。嫌味のつもりだったが、アルバートには理解できないかもしれない。

「悪いかって? ジョーの帽子を被ったお前が、ここに来ていいわけないだろう。試合が見たいなら、せめてその負け犬の帽子を捨ててからにしろよ」

 アイクがエルを庇うように前へ出ようとしたが、エルはそれを遮った。

「買ったのならそこをどいてくれ。俺たちも欲しいんだ」

 アルバートは苦々しくアイクの顔を見つめながら屋台を離れたが、エルとアイクが注文している間、離れた所から二人のことを見ていた。


「あいつ、何してるんだろうな」

 アイクがエルの耳元で囁いた。

「さぁ」

 顔を合わせるたびに嫌味を言われるようになってから何年も経つが、彼はアルバートから嫌われるようなことした覚えはなかった。だからエルは、誰にとってもそういう嫌な奴が周りに一人はいるものだ、と考えることにしている。

 二人がドリンクを受け取って球場の方へ戻り始めると、アルバートも後ろから付いてきた。最初は無視していたが、球場が近づくにつれて徐々に苛立ちが募ってきた。

「言いたいことがあるならはっきり言えよ」

 アルバートは黙ってエルを睨んでいたが、急に懇願するような顔でアイクを見つめた。


「なぁアイク、どうしてストームなんかとつるんでるんだよ。他の奴らもそうだ。どうかしてるよ」

「どういう意味だ」

 アイクは低い声で応えた。

「知ってるだろう? こいつは森に入ってるんだ。あそこは人間が入れる森じゃない。俺たちが入ろうとすると頭が割れそうに痛むし、大人だってそのせいで何日も寝込むこともあるんだ。普通じゃないんだよ、そいつは」

「それはお前たちの思い込みだ」

 エルは蔑むように口の端を上げてみせた。

「思い込みが病気を作るんだよ。そもそも、お前は森に入ろうとしたことがあるのか。そんな勇気があるのかよ?」

「黙れよストーム! おかしいのはお前だけじゃない。きっと、お前の母親も化け物なんだ。お前の父親が家出したのだって、そのせいじゃな――」


 エルは手に持っていたドリンクをアルバートの顔に思い切り投げつけた。アルバートは咄嗟に両手を上げて防いだが、すぐにエルの突進を受けて地面に倒れ込んだ。

 エルは馬乗りになると、もう片方の手に持っていたロビィのソーダが入ったカップをアルバートの鼻に叩きつけた。潰れたカップから溢れたソーダがアルバートの顔を犯し、彼は苦しそうに何度もむせた。

 エルはアルバートのシャツの襟を締め上げながら叫んだ。

「母さんは関係ないだろう! あいつは勝手に……母さんのせいじゃない!」

「エル!」

 アイクがエルの肩を掴んでアルバートから引き離した。エルは抵抗したが、アイクの腕力には敵わなかった。

「離せよ!」

「落ち着けエル。――さっさと行けよ、アルバート。俺だって、いつまでもお前のくだらない話に付き合うつもりはないんだ」

 アルバートは咳き込みながら何度も顔を拭い、恨めしそうな目でアイクを見つめた。

「いまに分かるよ、アイク。こいつは、この町にいちゃいけないんだ」

 そう言い捨てると、アルバートは二人の脇を抜けて球場へと戻って行った。エルは憎々しげに舌を打つと、アイクの腕を振り払った。


 人々が遠巻きに二人を見ていた。アイクは紙コップを地面から拾い上げると、エルの腕を取った。

「少し向こうで休もう」

 アイクに連れられるまま、テントが並ぶ通りの裏手にある芝生へと向かった。なだらかに傾斜した広い芝生には街灯もなく、月の白い光と球場から漏れるライトの灯りが周囲をうっすらと照らしている。

 ひんやりとした芝生に腰を下ろすと、エルはうな垂れて大きく息をついた。それでも、胸のうちの痛みまでは吐き出すことができなかった。


 今でもエルの母は、父がいつか帰ってくると信じている。二年で帰ってくると言って、父は仕事に出掛けていった。約束の二年が過ぎ、それからさらに五年が経ったが、いまだに父は帰ってこない。

 それでも母は、父は仕事が忙しいだけだと言う。きっともうじき帰ってくるわ、と。母は七年間ものあいだ、エルと彼の妹のソフィアを一人で育てながら、いまだに父の帰りを信じているのだ。そんな母に対してアルバートが言ったことを、彼が許せるはずもなかった。


「あんな奴の言うこと、気にするなよ」

 なにげない調子で、アイクが言った。

「……分かってるよ」

 だが、しばらく気分は落ち着きそうになかった。こんな状態でみんなのところへ戻りたくはない、とエルが思っていたところで、球場の方から一際大きな歓声があがった。

 そろそろ最終回を迎える頃であるため、試合に動きがあったのだろうとエルは思った。だが、歓声に混じって地響きのようなものが聞こえるような気がする。

「もしかして試合が終わったのかな」

 アイクの言葉に、エルは曖昧に首を傾げた。

「どうかな。少し早い気がするけど」

 二人が釈然としない気持ちで球場を眺めていると、突然、球場の向こうから青い光を帯びた何かが、地面を震わせる轟音と共に出現した。それは夜空を貫くようにして一瞬で彼らの上空を通り過ぎていくと、並木の向こうへと消えていく。直後、それが飛んで行った方角から青白い光が弾け、夜空を昼のように明るく染め上げた。

 光はすぐに収まったが、代わりに球場やテントからは人々の叫喚が響きはじめた。エルは体を起こすと、青い光が飛んでいった方角を見つめた。

「いまのは……落ちたのか?」

 アイクも呆然とした様子で彼方を見つめながら呟いたが、すぐに気を取りしたように振り返った。

「球場に戻ろう。みんなが心配だ」

 だがエルの耳にアイクの声は届いておらず、肩を叩かれてようやくエルはびくりと体を震わせた。

「大丈夫か?」

「……あぁ」

「みんなのところへ戻ろう」

 二人は立ち上がったが、エルはまだ並木の向こうを見つめたまま立ち尽くしていた。

「エル、早く!」

 アイクがエルを呼んだ。エルは強く拳を握りながら、ようやく答えた。

「俺はさっきのやつを見てくる!」

 そう叫ぶと、エルは球場とは反対の斜面に向かって芝生を駆け下りた。

「エル!」

 彼は舗道に降りると、球場広場の出口へ向かって駆け出した。

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