三 帰宅
――消そう……この世から完全に消し去ってやろう……。
イタリアンのお店を出て彼と別れた後、わたしはマンションへ帰るふりをして、本当は実家へと向かっていた。
もう、かれこれ何年くらい帰ってなかっただろうか? ほんと久方ぶりの帰宅である。
ずっと寄り付かなかった実家へ戻ることを決意した理由……それは、母さんを
あの時、わたしは母さんと決別し、そのもとを離れることにしたが、けっきょく彼女の目から逃れることはできなかった。
やはり、いまだこの世界に存在しているからいけないのだ。この世から跡形もなく消えてなくならなければ、わたしが母さんから解放されることはないのだろう……。
このままでは、ようやく掴みかけた彼との幸せな結婚生活も台無しにされてしまう……もうこれ以上、わたしの人生を邪魔されてなるものか!
今度こそ、母さんと完全に決別をするため、わたしはこの凶行を決意したのである。
大きなハンマーの他、来る途中に寄ったホームセンターの商品が入るトートバッグを手に、深夜の住宅街を早足で実家へと向かう……この道を通るのもずいぶんと久しぶりなので、こんな時だがなんとも懐かしく感じる。
人通りもない静かな夜道を黙々と進んで行くと、やがて、懐かしき我が家へと辿りついた。
まあ、特になんの変哲もない、どこにでもある中流階級のサラリーマンが住んでいそうな一軒家だ。
とはいえ、夜なので外観はあまりよくわからず、実際、ここに昔住んでいたのかどうなのか? 自分の記憶も疑わしいような気さえしてくる。
両隣の家に比して明かりはついていないので、そこだけぽっかりと夜の闇が広がっているように見えるのだ。
だが、帰り道は今でもはっきりと憶えているし、ここで間違いはない……現在、この家の中で母さんは眠っているはずだ。
経年劣化で古びた玄関のドアの前に立つと、なんとなく捨てられずに持っていた実家の鍵をバッグから取り出し、それを鍵穴へと差し込む……。
続けて回すと、カチャリと簡単に解錠することができた。
近所の目もあるので、わたしは周囲を警戒しつつ、静かに、だが素早くドアの隙間から屋内へと滑り込む……明かりが点いていないので、言うまでもなく中は真っ暗だ。
ハンマー同様、ホームセンターで買ったランタン型の懐中電灯をトートバッグから取り出すと、わたしはそれを点けて周りの闇を照らし出した。
薄明かりに浮かぶ、玄関と廊下……当然といえば当然のことだが、私が家を出たあの時のままだ。
少し埃っぽくも感じるが、そこに充満する空気の臭いも懐かしいものである。
なんて、思い出に浸っている場合ではない。わたしは靴も脱がずに玄関を上がると、一階にある母さんの寝室目がけて真っ直ぐ暗い廊下を進んだ。
こうして下足で家の中を闊歩するのも、あの厳しかった母さんに反抗しているような気がしてなんとも心地がよい。
さらにマナー違反にもノックなしでドアを乱暴に開け放つと、母さんの眠る寝室へとわたしは侵入した。
あの人らしい、ほとんど家具のない質素な部屋……もともとは父さんと一緒に寝ていた部屋だが、リストラされ、自分だけ死んで逃げた父さんを嫌って、父さんの使っていたものは家具から何からすべて捨ててしまった。
その部屋の隅に置かれた、数少ない結婚当時からある家具のベッド……寝室に足を踏み入れたわたしは、すぐさまその枕元へと歩み寄る。
「おとなしく眠ってくれてればよかったのに……」
わたしは独り言を呟きながらランタンを掲げ、母さんが使っていたそのベッドの上を覗き込むが、そこに彼女の姿はない。
母さんが眠っているのはベッドの上ではなく、
「くっ……」
わたしはランタンを床へ置くと、精一杯の力でベッドを引きずって移動させる。
やはり長年放置されていたので、動かすと布団からは大量の埃が舞い上がり、咽せ込んでしまいそうになる。
非力なわたしではあるが、それでもなんとかベッドを横にズラすと、そこだけ埃の溜まっていない床の上には一辺1m程の正方形をした切り込みが現れる。
床下へ潜り込むための管理用扉だ。
「うくっ……」
その取手に両手の指をかけ、重たい扉も引き上げてそれを開くと、真っ暗な闇に満たされた真四角の穴がわたしの眼前に姿を現した。
床に置いたランタンを再び手に取り、その穴の中へとゆっくり下ろす……すると薄闇の中、すぐ下には湿った土の地面が広がっており、以前、わたしが
さて、また一仕事だ。やはりホームセンターで買った軍手を嵌め、わたしは四角い闇の中へ飛び下りると、シャベルを手にすぐさま土を掘り起こし始める。
「まさか……掘り起こすことになるなんてね……」
慣れない肉体労働に手が痛くなるが、そんな弱音も吐いてはいられない。
「…はぁ……はぁ……くっ……はぁ……はぁ……」
吹き出す汗を袖で拭い、荒くなる息に肩を揺らしながらも、必死にわたしは床下の地面を掘り進める。
「……ふぅ……なんだ。ちゃんと朽ちてるじゃない」
やがて、掘り返した土の中からは、綺麗に白骨化した母さんの
肉も皮も土の中の微生物によって完全に分解され、死臭のようなものも一切感じられない。
そもそも母さんの遺体を床下に埋めたのは、家宅捜査されても見つからないようにとの配慮もあったが、第一には腐敗臭でご近所の人達に気づかれないようにするためである。
下手に他の場所へ捨てに行くより、家の中に置いておく方が安全だと考えたものの、やはり空気に触れるような場所では強烈な臭いを防ぎきれないだろうと用心したのだ。
その点、床下のさらに土の中ならば、見つかる可能性も少なく、臭気も遮断されるので最適である。
「でも、こんなことなら、もっとちゃんと始末しておくべきだったわね……母さん、今度こそ完全に消しさってあげるわ」
纏わり付いた土を払い、額に陥没した傷のある髑髏を拾いあげると、わたしはその骨の持ち主に諭すようにして話しかけた。
それからわたしは母さんの残骸を土の中から残らず拾い集め、なるべくコンパクトにポリ袋へまとめると、トートバッグの中に隠し入れる。
一応、ハンマーも一緒に購入済みだが、やはり深夜の住宅街で大きな音を立てるのは危険だろう。しかも、ずっと家主がいなくなっていた空き家でだ。
作業は後日、音を立てても目立たない、安心安全な場所ですることにしよう。
用が済めば、悪い思い出しかないこんな家にさらさら未練はない。
なんとか母さんの回収を終えたわたしは素早く後片付けをし、点検用扉もベッドももと通りにすると、
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