罪と罰、人が人を裁く意味とは

 世界には法律があり、それに違反すると罰を受ける

当たり前だけど、もう一つは死刑判決がある国と無い国がある

重い罪にはそれなりの罰を受けさせるという意味で犯罪行為

を減らそうという事なのだろうか?

 

 日本の裁判は、ほぼ判例で決まることがわかっている

同じ罪なら結果は変わらない、だが重い罪には裁判員制度

ができたけどまだ始まったばかりです


 では視点を被害者に焦点を当てて考えてみたいと思います

突然奪われる行為はとても苦しいと思います、まともに

いられない事もあるから、加害者には重い罪と罰を求める


 そこで論点がずれてしまうけれど嘘は犯罪では無い

裁判中にはそれは許されない裁判では嘘をつくことは犯罪行為

となる、だが裁判でさえ無いのなら嘘をいくら言ってもいいのだ

 

 嘘をついて相手が傷つこうがかまわない、その嘘で相手から

何も奪わなければ裁判にもできない、例え相手が自殺をしたと

しても、これはどう思えばいいのだろうか


 罪では無いからそれは許すとか許されないとか言っても

警察は動かないし止めることは出来ないそれが現実なのです


 さて話題を戻してみよう、嘘をつかれて傷ついてもし

自分でその相手に罰を受けさせようとしたらどうなるのか

やり方にもよるがそれは逆に自分が犯罪行為をすれば

罪になる罰を受ける


 本末転倒であるが原因が嘘をつかれて、たとえ

真実だとしても本人にとっては言って欲しく無い場合もあり

傷ついて自暴自棄になり相手に行為を犯したら意味がない

今こそ、この時代に考えてみるべきことかも知れない

ネットが当たり前にある現代社会にはSNSがあるからこそ

この事を考える時だと思う


 便利であり、ある行為は誹謗中傷になったりならなかったり

そこに明確なルールが無い蔓延している現実について

理解している人と理解していない人がいる


『原因はそこにあった』


 今回のテーマ罪と罰、人が人を裁く意味とは

まず人が人を捌く事は出来ない、出来るのは裁判官だけである

だとしたら、人が傷つくことを理解しないと始まらない

罪を犯させないこと、そこに重きを置いて考えること

罪と罰は背中合わせだということ

『罪を憎んで人を人を憎まず』

とは良く言ったものだと思う、たしかにその通りだと思う


 人に生まれた時から罪を背負っている事はあり得ない

その時代、国によってもそれだけはは変わって無い

人は変わって無い、そこにあるのはその国のルールがあるだけで

知識さえしっかりと蓄えれば恐れることは無い


 一番恐れることはその知識を知らないことで

罪を犯してしまう事罪を犯させないために

知識の共有は大切でありその行為は

無償で行うべきだという事は間違いない。

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