いくら試しても終わらない話

@ma-ma_ma-ma_

第1話


性癖:価値観のズレてる人外

性癖:愛されすぎて逃げられない



 その日は雨が降っていた。降る、という表現は些か不適当かもしれない。細かい水の粒子が宙を舞っていた。粒が細かく、四方八方から体へと纏わりつくような霧雨。

 飲食店やコンビニエンスストアから光が漏れ出ており、街灯も不要に思えるような道を一人の男が歩いていた。男は本日の業務を終え、会社から最寄りの駅までの電車を乗り継ぎ、自宅へと向かう途中であった。春の終わり。まだ肌寒いなか、さしている意味をあまり感じることのできない傘を頭上に掲げて歩く。傘の持ち手を持つ手が冷えていく。早く家に帰り、熱いシャワーを浴び、暖かい部屋でゲームでもしたいと思いながら、男は足早に歩く。

 その瞬間までは、確かに真っ直ぐと家へと帰るつもりであった。いつもは右へと進む曲がり角へと差し掛かった時、男は反対側の暗がりが気になった。この曲がり角を左にでも右にでも曲がった先は住宅街になるため、先程まで歩いていた道よりも数段暗くなっている。左側の道を目を凝らして見るが、そこにあったのはいつもと変わり映えのないように思える景色。それなのに何かが気になった。先程までの気持ちとは一転、男は何かに惹かれるように家とは反対の方向へと歩を進め始めた。

 少しばかり歩いた先に、狭い路地への入り口があることに男は気づいた。そこには手のひらサイズの電気式行燈と行燈より二回り程大きい二つ折りの看板があった。看板の上では美しい草書体が踊っている。さらにその下には、路地奥を指す矢印が書かれている。夜にこの道を通る人間だけが気付ける案内。男は秘密基地の入り口でも見つけたような気分で、案内に従いながら路地へと入っていく。

 一つ、二つと角に差し掛かる度置いてある案内に従っていくと、小さな和風の庇に、柔らかい光を放つ球体がぶら下がっているのが目に入る。庇の柱の足元には行燈と、案内と同様の看板がある。どうやら目的地に辿り着いたらしい。

 しかし、いざ重厚そうな木造の扉の前に立ってみると、男は自分自身がそこまで社交的ではないことを思い出し、扉に手をかけることを戸惑う。中には一体どの様な空間が広がっているのか、自分は上手く馴染めるのか、せめて酒は美味しいだろうか。外装や案内の仕方に拘りを感じるため、酒が不味いということはそうないだろうが。少しの逡巡のあと、分からないことを考えても仕方がない、せっかくここまで来たのだから、と腹を決め扉を開ける。

 チリン、という控えめで涼やかな音が空気を揺らす。そしてすぐ目の前には、白いYシャツに黒いベスト、蝶ネクタイを締めた、いかにも、という出立ちの初老の男が驚いた様な顔で立っていた。初老の男は瞬時に顔を和らげ、少し嗄れた声で男を出迎える。

「いらっしゃいませ、おひとり様でしょうか?」

「ええ、はい」

 この店のマスターと思しき初老の男は、入店したての男を店内へと案内する。そして自分自身はバーカウンターへと向かい、男に訊ねる。

「何をご用意いたしましょうか?」

 男はウィスキー、ラム、ジンなど様々な蒸留酒の並ぶ棚を見渡す。目についたのは、タコの様な浮き彫りのデザインが施された陶磁のボトル。

「あれはどんなお酒なんですか?」

 男の指差す先を見てマスターは「クラーケンですね」と答える。曰く、キャラメルの様な甘さがあり、スパイスの複雑な風味も効いている、比較的飲みやすいダークラムとのこと。ストレートやロックもオススメだが、お酒にそこまで強くないというのであればコーラで割ったりエナジードリンクで割っても美味しいという説明だった。

 男はクラーケンのロックを勧められるままに注文する。氷がアイスピックで砕かれる音をBGMに、男は落ち着いて店内を見渡す。すると、自分のいる位置とは反対側奥に女性客が1人いることに気付く。背筋を伸ばした姿勢で携帯を弄りながら酒を嗜むその顔には、店内を温かく照らす光によって美しい陰影が浮かんでいる。美貌に視線を捕まれ、固定されてしまう。女の長いまつ毛が揺れ、瞼が持ち上がる。控えめな光源でさえよく取り込んでキラキラと光る瞳が男を見据える。

「こちらへは初めていらっしゃるんですか?」

 両端の持ち上がった艶やかな唇から発せられた、落ち着いた柔らかな声が男の鼓膜を震わせる。男は肯定の返事をするものの、声の出し方を忘れてしまったかの様に、掠れた声しか出せなかった。女は異性からのその様な反応には慣れているといった風に何事もなかったかのように次の言葉を紡ぐ。二言、三言他愛のない言葉を交わしたところで、マスターから声がかかりダークブラウンの液体が注がれたグラスを差し出された。グラスを口元へと運ぶと、スパイスの効いた、ただ甘いだけではない香りが鼻を抜けていく。口当たりはまろやかでいくらでも飲めてしまいそうだが、追ってアルコールに舌を刺激され、なかなか度数の強い酒であることに気付かされる。

「美味しいです」

「お気に召していただけた様で何よりです。

 …一つ申し訳ないのですが、雨が酷くなる前に店の看板を下げたく、少し出てきてもよろしいでしょうか?」

 男は入店した際、出入り口すぐの場所にマスターが立っていたことを思い出し、肯く。マスターはありがとうございます、と柔和な表情を崩さず、ゆったりとした動作で手を拭き、やはりゆったりと歩きながら出口へと向かっていく。扉が静かに閉められる。

「ふふ、素敵でしょう」

 女は自分のことの様に、どことなく誇らしい様子で笑う。

「看板を下げてしまったら、今夜のお客さんは私たちだけですね」

 必要以上に喋らないバーのマスターと美しい女と自分。女の言葉に、実質2人きりの様なものではないか、と気分が盛り上がったことを今でも覚えている。それが女と初めて出会った日のことだった。




 男は社宅に暮らしている。同じ社宅で暮らす同僚のうちの1人とはゲームの趣味が合うため、しばしばお互いの部屋を行き来していた。昨日は、ともに楽しみにしていたシリーズの最新作が発売される日であり、金曜日であった。会社帰りに家電量販店へと寄り、目的のものを買った男は真っ直ぐと、自分の部屋ではなく、同僚の部屋へと向かった。

 同僚と2人、ゲームに熱中しながら迎えた朝。どちらかの腹が鳴ったことをきっかけに、2人はコントローラーから手を離した。体を伸ばしながら立ち上がった男の目に、同僚のデスクのうえに散らばる写真の中の一枚が留まった。見覚えのある景色だが、同時に違和感も覚える景色を切り取った写真だった。男の胸がざわつく。

「あの写真…」

「ああ、最近この辺りを歩き回って写真撮るのにハマっててさぁ」

「見ていいか?」

「いいけど、お前そういうの興味あったか?」

 男はなぜか自分を不安にさせる一枚の写真を手に取り、思いつく限り様々な景色を頭に思い浮かべる。そして写真のものと合致する景色を記憶の海から取り出すことに成功した。その写真は女と出会ったバーのあった場所を写し撮ったものだった。それなのに、特徴的な庇のある立者は存在しない。代わりに、年季の入った看板がかけられ、薄桃色に壁を塗られたスナックがそこにあった。

「なぁ、この写真いつ撮った?」

「先週くらいじゃないか?」

「ここって前からスナックだったか?」

 同僚が面倒臭そうに男の横に立ち、写真を覗き込む。

「少なくとも俺たちがこの社宅に入った頃にはその店だったな。気になんのか?」

「いや、別に」

 似てるだけの景色かもしれない。写真を見た瞬間頭が冴えた様な気がしたが、そうはいっても所詮徹夜明けの頭だ。今の自分の頭は信用できないと男は自分に言い聞かせ、胸の中で沸き上がってきたやもやとした気持ちを、奥底に押し込んだ。




 押し込んだ筈の違和感は女を前にする度に胸の内で鎌首を擡げる様になった。もし、万が一にもあの店が存在しないとしたならば、あの店で出会った女が存在するのはおかしいのではないか。もし、女と会ったのがあの一度きりであったならば夢での出来事だったと片付けられる。しかし、女はこうして今も自分の隣に存在している。

 どうしたらこの不信感を払拭できるか。答えは簡単だ。不信感の原因を直接確認すればいい。いつでも行ける距離にある場所だ。横に眠る女の髪を梳き、男は意を決して女の部屋を出る。

 果たしてそこにあったものは、同僚の写真に写っていた古びたスナックであった。

 男は腹の中のものが迫り上がってくるのを感じる。口を押さえながら足早に自宅へと続く道を進んでいく。

 一体アレは何であるのか。今朝腕の中にいたアレ。昨晩体を重ねたアレ。得体の知れないものに触れていたのかと思うと、途端に全身を洗いたくなる。



「お帰りなさい」



 急ぎ靴を脱ぎ捨て、クローゼットに仕舞われているバスタオルを取ろうと自室に入った男をソレが迎えた。男は茫然とソレを見つめる。眺めているだけで幸福を覚えていたほどの造形が、今はただただ恐ろしい。徐々に男の呼吸が浅くなっていく。

 デスクチェアに足を組み座っていたソレが立ち上が。男が後退るのも気にせず、ソレは悠々と男へ近づく。桜貝の様に美しい爪で彩られた細い指が男の頬を滑る。

「見たことない表情だな」

 ソレはタンザナイトの様な、妖しく煌めく瞳をゆみなりに細める。

「何故」

「何故、とは?」

「どうしてここにいる?」

「いてはいけないか?」

 男はソレの手を払いのけ、怯えの目をソレに向ける。ソレは人間らしく、哀しそうに目を伏せる。そんな姿に男の心は揺らぐが、何もわからない、怯えている男を愉しむかの様な表情をソレはすぐに取り戻し、男の怒りを煽る。

「何がしたい?!」

「お前を愛したい、それ以外に何があろうか」

 自分のしたいことを男が知っていて当然とでも言うようなソレの口ぶりにイライラする。

「そうさな。私の全てを曝け出した上でお前を愛してみようと思ってな」

 軽やかに放たれた重い言葉。

「あい?!これのどこがだ?!こんなやり方をしてよくもそんなことが言えるな?!」

「どうすればいいかわからないからやってみたのだ」

 怒気を露にする男に対して、ソレはどこに当て嵌めるべきかわからないピースを適当に当て嵌めていた、くらいの気軽さで返答する。男の中で再び怯えが存在を主張し始める。

「私は人間ではない。ならば何なのか、と問われても答えに窮するが、所謂神や鬼といった類か。以前は人間として振舞ってお前が死ぬまで傍にいたがどうやら違ったらしい」

「は…?死……?おれが?」

 ソレの口から出てくるのは突拍子もない話だった。男は辛うじて自分が死んだという情報を拾い上げ、訊き返す。ソレはふっと笑い、男の心臓のある辺りに指を突き立てる。

「うむ。お前は既に何度も死に、何度もこの世に生まれ落ちている。あれは8度目だったか?」

 ソレは視線を落とし、ひぃ、ふぅ、みぃ…と指折り数え、8まで数えたところで頷き、男に笑いかける。

「今のお前は私と出会ってから八回生まれ変わったお前だ」

 男は今この瞬間が夢であればいいと願った。突拍子のない、現実味のない話でも、自分が死んだという話をされれば薄ら寒さを覚える。いや、それだけじゃない。何もかもが嘘であって欲しかった。

「そんな話信じられるか」

「お前の気持ちなど関係なしにそうなのだから仕方なかろう。お前がどんな風に生きたか順に話してやろうか?」

 ソレは歌でも歌い出しそうなほどに軽やかに語り出す。

 男の一度目の生は飢饉に見舞われた農村で口減らしのために捨てられた子どもだったという。ソレと出会い間もなく、何が出来るわけでもなくすぐに死んだと。男の二度目の生では、男がこの世に生を受けたと同時にソレが親元から攫ってみたが、ソレが思っていたよりも人間を育てることが難しく、死なせてしまったという。男の三度目の生では、男がある程度育ったところで親元から拐い、その後数年は一緒に暮らしていたが、男は脱走を繰り返した挙句、脱走する途中で獣に襲われ命を落としたという。男の四度目の生では、男は坊主になったという。そんな男にソレは近づいたが、男色家ゆえに女には興味がないと男は宣った。男の希望に沿うため容姿を男に変化させたところ、男が怯え、ソレを化け物などと手酷く罵ったためにカッとなっり殺してしまったという。

 五度目の男の生についてソレが語り出そうとしするのを、荒げた声で男は遮る。

「それは脅しか?」

「なんだ、楽しくないのか?」

 楽しそうに思い出を語っていたソレはきょとりとした顔で男を見返す。

「当たり前だろう」

「そうか。覚えておこう」

 あっけらかんと笑うソレ。男は眉間に皺を寄せる。

「俺が今お前を拒絶したら俺を殺すのか?」

「それも別段構わないが、可能ならば今生でなんとかうまくやれないものか色々試してみたくてだな」

「この状態から事態が好転すると思ってるのか?」

「無理なのか?今朝方まで私を愛していたではないか。私はうまくお前を愛せていたのではないか?」

 ソレの指摘に男は返す言葉を失う。確かに今朝まではソレのことを何もかも分かり合える相手だと信じていた。満たされていたような気がした。この先も永くともにあれればと思っていた。だから疑念を払拭しようと動いた。

 今のソレは同じ言語を喋っていることを疑ってしまうほどに話が噛み合わない。何も知らなければソレの言う前の生の時のように幸せに添い遂げられたかもしれない。

 しかし今となってはそんな未来はあり得ない。今朝までの、ソレを愛でていた自分を殴りたいほどに目の前の存在がおぞましいのだ。ソレと関わった記憶を全て消し去ってしまいたいほどに、気持ちが悪い。胃の中身を全て吐き出してしまいたい。ソレのいうところの愛を注がれたところで最早恐怖しか感じない。

 男はその場に蹲る。

「大丈夫か?」

 心配そうな声とともに差し出された手を、男は拒絶の言葉とともにはたき落とす。

「人間でなければやはり愛してはならぬか?」

 人間ではない、というだけであったならばもしかしたら乗り越えられた壁であったかもしれない。ぼんやりと男は思うが、口にはしない。ソレに少しの情報を与えることすらもう嫌だった。しかし最悪なことに、話を聞いている限り、死んでもソレから逃げる事はできなさそうである。

「俺に関わるな」

 最早祈るような気持ちで男は言う。

「それはできない」

「男なんて、人間なんて俺以外にもたくさんいるだろ?なんで俺なんだ?」

 愉快そうな笑い声が頭上から降ってくる

「お前が願ったからだろう?」

 もうそれで十分だった。男はなぜ自分に執着するのか尋ねたことを後悔した。

「お前が愛されたいと願ったから、私はそれに応えたいのだ」

 身に覚えがないだけに、よりいっそう男にとって絶望的な回答であった。

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